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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

会津藩始末記

2013年02月26日 | Weblog
★旧武徳殿の正門は会津藩京都守護職屋敷門

 京都守護職屋敷は、現在の京都府庁の場所にあった。この屋敷は度重なる増改築を経て慶応元年(1895)に完成した。規模は京都府庁敷地ほぼすべてを占め、正門や敷石、玄関等はたいへん豪華なものだったといわれている。いまは石碑を残すのみであるが、先年、旧府庁本館の中庭に咲いている山桜の変種を松平容保の名にちなんで「容保桜」と命名した。

 京都守護職は、幕末に京都市中の治安維持および御所、二条城の警備などのために新たに設けられた江戸幕府の要職であった。

 文久2年(1862)、会津藩主松平容保が京都守護職に就任。本陣を黒谷の金戒光明寺に置いた。藩兵約1,000人が京都に常駐し1年おきに交替したが、会津藩士だけでは手が回りきらなかったため、かの新選組を守護職預りとした。

 京都町奉行所の触書。京都守護職より新選組が京都の市中警備にあたることを正式に知らされた。

     『御触書』 町頭南町文書

     松平肥後守殿御預浪士 市中昼夜見廻り候様 
     肥後守殿より被仰付候条 為心得持場限相達シ置候様可致事
     亥八月

     松平肥後守殿(京都守護職)の御預り浪士に対して、市中昼夜見廻りをするように肥後守殿が仰せ付けたという事を、
     心得のためにその持ち場に知らせるよう(町奉行が)仰せになりました。

 松平容保上洛から1年後に完成した京都守護職屋敷門。菊の御紋から孝明天皇が容保へ厚い信頼を寄せていたことがうかがえる。孝明天皇に献身的に尽くす容保は宸翰(しんかん)を下賜され、およそ5年間、京の都で邁進した。

 左京区岡崎の京都会館北側の冷泉通りに面した開かずの門は、かつて武徳殿の正門とされていた京都守護職屋敷門である。この正門のかたわらに、ひっそりと立っている句碑がある。自然石に刻まれる「野風呂(のぶろ)」の名、その人こそ武道専門学校最後の第10代校長をつとめた鈴鹿登である。

                 風薫る 左文右武の 学舎跡     野風呂

 鈴鹿はホトトギス派の俳人として有名だった。武専という武骨なイメージの学校には一見似つかわしくなく、常に和服に懐手というスタイルで教壇にたったという。鈴鹿は武専の中に「小男鹿(さおしか)俳句会」をこしらえて、放課後に句会を開いた。

 鈴鹿は学生たちを吟行にともない、社寺仏閣をたずねたり琵琶湖を徒歩でめぐったりした。毎日を必死の稽古に明け暮れる武専の猛者たちには、こうしたひと時は蘇生する思いだったであろう。

 武徳殿正門には右側に「大日本武徳会本部」の看板が、並んで左側に「大日本武徳会 武道専門学校」の看板が掲げられていた。

 大日本武徳会は、桓武天皇(737~806)が平安京武徳殿で武技を奨励したことに因んで、明治28年(1895)に平安神宮創設を機に設立された。明治38年、この地に武術教員養成所が開設され、のち武道専門学校となる。昭和21年(1946)、第二次世界大戦の敗戦に伴い閉鎖された。

 現在は京都市武道センターとなり、剣道、柔道、合気道、空手道、薙刀道、弓道など武道全般の修練の場となっている。

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西勝造伝(4)

2013年02月24日 | Weblog
 西勝造先生は、中国の儒学者・張載(ちょう さい、1020年~1077年)の『西銘』を愛読された。

★ 西 銘

【原文】 

  乾稱父 坤稱母 予茲藐焉 乃混然中處 故天地之塞 吾其體 天地之帥 吾其性

【読み】 

  乾を父と称し、坤を母と称す。予(われ)茲(ここ)に藐焉(びょうえん)たり、乃ち混然として中に処る。故に天地の塞(そく)は、吾が其の体なり、天地の帥(すい)は、吾が其の性なり。

【解説】 

  「乾稱父 坤稱母」  人は誰でも親が大切なことを知っている。それは生まれ付きのもので擦り切れることはない。そこで、親を大切にすることを踏み台にして、乾称父坤称母と書き出した。人が天地の子だと思えば世界が一つになり、それが仁の始まりとなる。ここで、天地ではなく乾坤と言ったのは、天地と言うと形になるからである。

  「予茲藐焉 乃混然中處」  人は天地に孕まれ、混然とその中にいる小さな存在である。また、天地と人とは魚と水との関係の様なものだが、人はそれを理解していない。自分が天地と一体になっていることを知れば氷は解ける。凡夫は天地との間に仕切りがあり、それが不仁の元である。藐焉(びょうえん)…小さいさま。

  「故天地之塞 吾其體」  天地の気は何処までも行き渡っている。人は親によって生まれるが、親は取り次ぎであって、人は天地でできているのである。万物は大本がなければ生まれない。

  「天地之帥 吾其性」  帥とは理のことで、気の中にいて、気と一体にならないもの。理は気を自由に使うから帥と言う。人において性は理であり、体は気である。よって、人は天地の子なのである。 (「稲葉黙斎講義録解説」参照)

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合気道技法(120)

2013年02月17日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書
 
座取

第ニ十ニ条  首ヲ綾ニ締ル事

第ニ十ニ条  打面敵手ノ内ヨリ右手ヲ敵手ノ後ニ廻シ転身シテ小脇ニ締込ム事

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西勝造伝(3)

2013年02月11日 | Weblog
★西医学の真実(3)

 学 問

 先生は外国書を丸善から買う点に於いて、当時徳川義親侯と並び称せられたものである。徳川俣は図書館用のものが多いが、先生のは一冊と雖も飾りにするものはない。直ちに読まれるのである。その読み方もまことに早い。西川医学博士は、昭和の初頃、先生が丸善で九百頁もある部厚い洋書を買い込んで、大阪につくまでの間に読み通し、一々頁をさして内容を批評されたのに眼をまわしているが本の買い方も亦特色がある。丸善の係りの話によると、大抵休みの時間とか退庁後に自動車でやって来て、四五十分間新刊書を物色してかえられる。その物色ぶりも非常に綿密で、今日は生理の棚、明日は医書の棚、明後日は博物の棚、その翌日は又違った棚という風に丹念に調べられる。だから本屋が間違って、例えば、生理の本などを他の棚に入れておくという様な事があると、先生は直ちに発見して本屋の方で恐縮している様な恰好である。大抵電気専門の人は電気の本、動物学の人は動物の本という風であるが、先生は今日医書を買われたかと思うと明日は博物の本、その翌日は心理学の本という様に非常に範囲が広く、あまり例のない買方である。専門によっての本の売行はちがう。医者は不勉強で他の専門に比べて洋書の買方は少いのであるが、先生の医書の買入は圧倒的である。
 先生は地方を廻わられても、一寸暇があれば書店古本屋へ入られる。稀観書などは本屋へたのみ、或は特別な伝手で必ず手に入れられる。アメリカから今後十年位は新刊書稀観書が心配なく届くことになっているという。何分博学で、着眼慧敏故、専門家すら知らぬ珍書秘語を手に入れ、それが又奇想天外の着想を産むのである。

 先生の書籍は七万三千巻。内一万巻は東洋の書籍だという。奥の方の書籍は一杯で床が落ち、奥座敷も十畳の問も堆く積み重ねられた本でやっと通れるが、之も床が落ちそう。縁側から応接間へもつみ重ねられ先ずその辺の図書館などはかなわない。否、おそらく先生の博学を表徴する先生の図書は、その量においては兎角、その質からみた場合、珍書秘籍がかくも豊かにあつめられている図書館は世界にもないでのではいかと思われる。
 犬戦争中、犬切なものはキャビネットに入れて地下に埋められ、一部は浸水のため水びたしになっだけれど、その他に被害のなかったのは幸な事であった。
 ところが先生は、その書籍の中に鎮座して著述や読書に専念されるが、抜粋ノートをたよりに必要の書籍をさぐり出される。
 図書館の様な索引カードのあるわけでない。唯傍若無人に積み重ねられた本ではあるが、先生にとっては正しい場所におかれ、何時でもその欲するままにとり出す事が出来る様におかれてある。それで他人が手をふれるのを好まれぬ。令夫人、令息といえども禁令厳重である。終戦直後であったが、私が家内をつれて訪問の時、生憎先生が不在で令夫人が応接され、四方山の話の折話が本の事になったら夫人の曰く、「何しろゴッタ返しですから大抵自分丈はわ、がる様になっていますけれど、それでもあまり多すぎるので、朝早く他所へ行きます時など本がないかと騒ぐことがあります。私共が一寸でも手をふれるのが大嫌いです。そこでボロボロの本や雑書など時々知らぬ顔してタキツケに燃してしまいます。なに、あの調子ですからチョッとも知らんでいるですよ」と朗らかな令夫人の笑話をきくと、時に先生宅へまぎれ込んだ雑書は令夫人がたいてしまわぬと、その中寝る場所もなくなるだろうと思われる。
 博識と慧敏な着眼の先生によって集められた珍書秘籍は貴重なものであり、今回の大戦争によって失われなかったのは何よりも喜ぶべきことであるが、此の程先生親近のもの達加コンクリート造りの書庫を寄贈し、特に貴重なもののみは此の書庫に所蔵し火難より守る事となった。
 先生が、若き頃より家も借家で鋭意あつめられた書籍は、先生を通じて全世界に光被する人類の真実の智慧の宝庫となっている。 (田中宋太郎「西勝造伝 乾巻」昭和26年)

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養神館合気道宗家 異変

2013年02月07日 | Weblog
★ブログ拝見『養神館合気道宗家』

 本日は、身体の不思議が好きで書籍を集められていますhann3さんの「hann3の読書日記」です。塩田剛三先生の養神館合気道に異変があったようです。それでは最後までじっくりとお読みください。

 養神館館長を辞任された塩田泰久宗家の“一身上の都合”とは?

 当時の私にとって、養神館の師範になっていたとはいえ、本部道場は、正直に言うとあまり居心地のいいものではありませんでした。「塩田館長の息子だから…」という目で見られ、距離を置かれていた部分があったことは間違いありません。(中略)正直、「オヤジは、なんで早く跡継ぎを決めないんだろう」と不満に思うこともありましたが、そこで立ち止まってぐちぐちと考えていたら、気が滅入ってしまっていたことでしょう。 (引用書籍:不世出の武道家・塩田剛三直伝 「達人」の秘訣は「呼吸力」にあり、以下同)

 養神館合気道さんのHPの新着情報(トップにある掲示板)を見て驚きました。二代目塩田宗家(三代目館長?)の塩田泰久さんが、昨年、平成24年6月14日付けで館長職を辞任されていましたから。お父上(塩田剛三さん)の跡を継がれたご子息(後継者)が退陣されるという異例の事態ですが、お辞めになられた理由は「一身上の都合」とだけ記されています。波風立てないようにという配慮だと思われるのですが、何かあったのかと余計気になってしまいました(辞任にともない塩田泰久さんに関する一切の情報・写真画像・コメントが消去・抹消されている)。

 上記引用の書籍は、昨年の9月に出版されているのですが、プロフィールには“合気道養神館宗家”とあります。6月には辞職されているのに9月に販売された書籍には“宗家”のまま。もしかしたら、この本の出版(発売)をめぐってひと悶着あったのかもしれないですね。

 つまり、突然辞任することになった原因は、塩田泰久さんの組織に対する思い(本音)が公表されたことによって流派運営に悪影響が出ると判断されたのだと思われる。上記のくだりは、過去の処遇(不遇?)について書かれたくだりですが、宗家になった後もそう変わっていなかったということでしょうか。2007年に井上強一館長(二代目館長)さんから一子相伝を強調したような形で三代目館長に就任…部外者の目からしても強引に感じるほどですから、内部の反発(不満)が強いと考えるのが自然です。今回出版された本の内容で、拍車をかけたといいますか、追い討ちをかけてしまったとか?

 この本の後半には技術的なことが書かれていますが、前半には、組織や師範たちに対する意見や見解を通り越して、批判・否定ともとれる文言が多く記されています。入門者を増やすために団体紹介しているというよりも、「こうなって欲しいのに」「こうあったらいいのに」といったテレビで評論家さんがコメントされているような視点(他人事?)に違和感を感じるほど。自分が正統な二代目宗家であることを主張するために批判しているといった雰囲気にさえ感じます。個人的には、トップの人間が身内の恥をさらしているような印象を受けました。

 たとえば、“不世出の武道家と言われた父も経営の達人ではなかった”というような先代宗家へのダメだし。“天は二物を与えない”としても、わざわざ話題にすることではありませんよね。座学の話が退屈で飽きていたのを見破られてお父上によく指摘された話などもあり、「身内だからこそここまで言える(二代目なんだ)」ということを伝えたかった描写にも感じられる。

 けれど、息子であることを強調しつつも、「しかし、ある時期から、父のイメージを追いかけるのをやめました。自分は自分であって父の真似をしてもしょうがない、父と自分は違うのだと思うようになったのです」という所信表明のような言葉も綴られている。

 門下生さんや道場長さん、他の師匠たち…“塩田剛三”さんの達人のイメージ(カリスマ性に惹かれて)で養神館の門を叩いた方たちからすると、二代目宗家流にアレンジされることを望んではいないと思われる。自分にあった武道(動きや哲学)になることは悪いことではないと思われますが、この場合は自分の流派を新たに立ち上げた方がよいですよね(“暖簾わけ”のような)。

 たとえるなら、老舗の人気ラーメン屋さんの代替りで味が変わるような感じ。お客さんは味を変えないでほしいと思いますよね(変化への抵抗がある)。失礼な言い方ですが、「親の七光りでやりたいようにやろうとしている二代目」と部下(?)の方々に思われてしまったのかもしれないですね。

 また、「人気がない先生はなぜなのか、とよく観察していると、子どもたちと楽しく喋らないうえ、周りに対して気配りが足りないことが多いのです」とのくだり…誰とは言っていなくても内部にそうした人間(ダメな指導者)がいるという遠まわしな表現も大胆。塩田泰久さんご自身の指導法と比較して紹介されているのですが、自分のように教えられない師範、変わろうとしない先生たちにヤキモキされてのことかもしれません(思うようにならないことへの不満?)。ですが、内部の人たちがこれを読んだら、たとえ自分のことではないにしろ気持ちの良いものではないですよね。

 その他にも、まるで内部告発のようなお話がもりだくさんです。トップに情報があがってこない会社の例をだしたり、派閥やグループで閉鎖的な組織の話をしたり、先生の間をふらふらしている弟子に釘をさすような指摘だったり、といった内部の人間関係の暴露。先代の死後バラバラになっていく組織、足を引っ張られた自分などの愚痴。深夜に書いたラブレターのような勢い(真夜中のラブレター現象)にも感じます。

 中でも、塩田泰久さんと古株の方々と確執が根強かったと思われるこのくだり…

 私が経験した中でいちばん嫌だったのは、「俺も(後輩時代、先輩から)ずいぶんいじめられて苦しんだんだ。だから、今度は(後輩の)お前が苦しむ番だ」というあからさまな態度を見せつける先輩に遭遇した時です。(中略)父・塩田剛三が亡くなった後の道場でも、そんな状況に近くなったことがありました。父が館長でいるときは、みんな父を師として尊敬する人たちが集まっているため、父を頂点とした心が通った上下関係ができあがっていました。ところが、父という一番の目標がいなくなった後でも、ある高弟が、父に従ったのと同じように俺に従え、というような態度で接してくるようになったことがありました。

 …こんなこと書いて大丈夫なのだろうか?と、読んでいて心配になってしまいました。流派が嫌になって辞められた方が書くのならまだ分かりますが、団体に所属していて、しかもそのトップの方が書かれているのですから、自分で自分の首を絞めている。もうどうにもならない状況に、玉砕覚悟、刺し違える意気込みでないと、ここまで悪くは言えないですよね。

 こうした部分に“一身上の都合”の空気感(営業妨害で謹慎処分的な)が漂っているような気がしました。ホームページから一切の痕跡が消された理由はここら辺にあるのだと思われる。

 でも、この本の出版が差し止められていないあたり(名誉毀損などで訴えられて発売中止になってない)から察するに、養神館合気道さんはあまり問題視されていないのかもしれません(事実無根との見解?差し止めた方が真実味を帯びてしまうから??)。

 最近、園田隆二代表監督さんが行ったオリンピック女子柔道選手への体罰(暴力・しごき・パワーハラスメント)に対する全日本柔道連盟さんとJOCさんの対応(調査・処罰)の遅さが、武道・スポーツ団体の悪しき体質としてマスコミの注目を浴びていますよね。外国だったらもっと迅速かつ重い処罰をしているといった比較で。

 時代や世代は変わっても、よくもわるくも組織は変わらない…武道団体はジレンマ(時代とのズレや歪み)解消のための変革を問われる時期にあるのかもしれないですね。個人の力が強くなった(意見が言える)というか、組織や企業へ求める期待値が上がっている(ここまでやって当然)というか、今後の組織運営は“今まで通り”にはできなくなっていくのだと思われます。

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三島由紀夫の憂国の念(2)

2013年02月05日 | Weblog
 三島由紀夫は、昭和45年11月25日午後0寺15分、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地、東部方面総監室にて割腹! 自決した。享年45歳。

 これは決行当日、三名の盾の会隊員に渡された命令書(抜粋)である。

 命令書

三島の自刃は隊長としての責任上、当然のことなるも、森田必勝の自刃は、自ら進んで盾の会全会員及び現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、自ら範を垂れて、青年の心意気を示さんとする、鬼神を哭かしむる凛冽の行為である。三島はともあれ、森田の精神を後世に向かって恢弘せよ。

しかしひとたび同志たる上は、たとひ生死相隔たるとも、その志に於いて変わりはない。むしろ死は易く、生は難い。敢て命じて君を艱苦の生に残すことは予としても忍び難いが、今や盾の会の精神が正しく伝わるか否かは君らの双肩にある。

あらゆる苦難に耐え、忍び難きを忍び、決して挫けることなく、初一念を貫いて、皇国日本の再建に邁進せよ。
                                        
 盾の会隊長     三島由紀夫

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