★旧武徳殿の正門は会津藩京都守護職屋敷門
京都守護職屋敷は、現在の京都府庁の場所にあった。この屋敷は度重なる増改築を経て慶応元年(1895)に完成した。規模は京都府庁敷地ほぼすべてを占め、正門や敷石、玄関等はたいへん豪華なものだったといわれている。いまは石碑を残すのみであるが、先年、旧府庁本館の中庭に咲いている山桜の変種を松平容保の名にちなんで「容保桜」と命名した。
京都守護職は、幕末に京都市中の治安維持および御所、二条城の警備などのために新たに設けられた江戸幕府の要職であった。
文久2年(1862)、会津藩主松平容保が京都守護職に就任。本陣を黒谷の金戒光明寺に置いた。藩兵約1,000人が京都に常駐し1年おきに交替したが、会津藩士だけでは手が回りきらなかったため、かの新選組を守護職預りとした。
京都町奉行所の触書。京都守護職より新選組が京都の市中警備にあたることを正式に知らされた。
『御触書』 町頭南町文書
松平肥後守殿御預浪士 市中昼夜見廻り候様
肥後守殿より被仰付候条 為心得持場限相達シ置候様可致事
亥八月
松平肥後守殿(京都守護職)の御預り浪士に対して、市中昼夜見廻りをするように肥後守殿が仰せ付けたという事を、
心得のためにその持ち場に知らせるよう(町奉行が)仰せになりました。
松平容保上洛から1年後に完成した京都守護職屋敷門。菊の御紋から孝明天皇が容保へ厚い信頼を寄せていたことがうかがえる。孝明天皇に献身的に尽くす容保は宸翰(しんかん)を下賜され、およそ5年間、京の都で邁進した。
左京区岡崎の京都会館北側の冷泉通りに面した開かずの門は、かつて武徳殿の正門とされていた京都守護職屋敷門である。この正門のかたわらに、ひっそりと立っている句碑がある。自然石に刻まれる「野風呂(のぶろ)」の名、その人こそ武道専門学校最後の第10代校長をつとめた鈴鹿登である。
風薫る 左文右武の 学舎跡 野風呂
鈴鹿はホトトギス派の俳人として有名だった。武専という武骨なイメージの学校には一見似つかわしくなく、常に和服に懐手というスタイルで教壇にたったという。鈴鹿は武専の中に「小男鹿(さおしか)俳句会」をこしらえて、放課後に句会を開いた。
鈴鹿は学生たちを吟行にともない、社寺仏閣をたずねたり琵琶湖を徒歩でめぐったりした。毎日を必死の稽古に明け暮れる武専の猛者たちには、こうしたひと時は蘇生する思いだったであろう。
武徳殿正門には右側に「大日本武徳会本部」の看板が、並んで左側に「大日本武徳会 武道専門学校」の看板が掲げられていた。
大日本武徳会は、桓武天皇(737~806)が平安京武徳殿で武技を奨励したことに因んで、明治28年(1895)に平安神宮創設を機に設立された。明治38年、この地に武術教員養成所が開設され、のち武道専門学校となる。昭和21年(1946)、第二次世界大戦の敗戦に伴い閉鎖された。
現在は京都市武道センターとなり、剣道、柔道、合気道、空手道、薙刀道、弓道など武道全般の修練の場となっている。
京都守護職屋敷は、現在の京都府庁の場所にあった。この屋敷は度重なる増改築を経て慶応元年(1895)に完成した。規模は京都府庁敷地ほぼすべてを占め、正門や敷石、玄関等はたいへん豪華なものだったといわれている。いまは石碑を残すのみであるが、先年、旧府庁本館の中庭に咲いている山桜の変種を松平容保の名にちなんで「容保桜」と命名した。
京都守護職は、幕末に京都市中の治安維持および御所、二条城の警備などのために新たに設けられた江戸幕府の要職であった。
文久2年(1862)、会津藩主松平容保が京都守護職に就任。本陣を黒谷の金戒光明寺に置いた。藩兵約1,000人が京都に常駐し1年おきに交替したが、会津藩士だけでは手が回りきらなかったため、かの新選組を守護職預りとした。
京都町奉行所の触書。京都守護職より新選組が京都の市中警備にあたることを正式に知らされた。
『御触書』 町頭南町文書
松平肥後守殿御預浪士 市中昼夜見廻り候様
肥後守殿より被仰付候条 為心得持場限相達シ置候様可致事
亥八月
松平肥後守殿(京都守護職)の御預り浪士に対して、市中昼夜見廻りをするように肥後守殿が仰せ付けたという事を、
心得のためにその持ち場に知らせるよう(町奉行が)仰せになりました。
松平容保上洛から1年後に完成した京都守護職屋敷門。菊の御紋から孝明天皇が容保へ厚い信頼を寄せていたことがうかがえる。孝明天皇に献身的に尽くす容保は宸翰(しんかん)を下賜され、およそ5年間、京の都で邁進した。
左京区岡崎の京都会館北側の冷泉通りに面した開かずの門は、かつて武徳殿の正門とされていた京都守護職屋敷門である。この正門のかたわらに、ひっそりと立っている句碑がある。自然石に刻まれる「野風呂(のぶろ)」の名、その人こそ武道専門学校最後の第10代校長をつとめた鈴鹿登である。
風薫る 左文右武の 学舎跡 野風呂
鈴鹿はホトトギス派の俳人として有名だった。武専という武骨なイメージの学校には一見似つかわしくなく、常に和服に懐手というスタイルで教壇にたったという。鈴鹿は武専の中に「小男鹿(さおしか)俳句会」をこしらえて、放課後に句会を開いた。
鈴鹿は学生たちを吟行にともない、社寺仏閣をたずねたり琵琶湖を徒歩でめぐったりした。毎日を必死の稽古に明け暮れる武専の猛者たちには、こうしたひと時は蘇生する思いだったであろう。
武徳殿正門には右側に「大日本武徳会本部」の看板が、並んで左側に「大日本武徳会 武道専門学校」の看板が掲げられていた。
大日本武徳会は、桓武天皇(737~806)が平安京武徳殿で武技を奨励したことに因んで、明治28年(1895)に平安神宮創設を機に設立された。明治38年、この地に武術教員養成所が開設され、のち武道専門学校となる。昭和21年(1946)、第二次世界大戦の敗戦に伴い閉鎖された。
現在は京都市武道センターとなり、剣道、柔道、合気道、空手道、薙刀道、弓道など武道全般の修練の場となっている。