武産通信

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相抜けと無住心剣

2023年08月01日 | Weblog
 相抜けと無住心剣

 針ヶ谷夕雲は、上野国針ヶ谷の出身で、江戸に出て新陰流を奥山休賀斎に習う。生没年不詳。生涯52度の真剣勝負に一度も敗れることはなかったという。この針ヶ谷夕雲が40歳頃から虎白和尚に参禅するようになり、人生観、兵法観が大きく変った。これを虚白和尚が「自已ノ禅味ヨリ得タル所ノ一法」として、『無住心剣』と命名した。

 当流兵法の意地は、元来勝負に拘わらず。相討ちをもって、至極の幸いとなす。

 およそ剣法を必要とするのは、一つは戦場での太刀打ち、二つは主命による上意討ち、三つは不意に起こる喧嘩斬合い。この三つである。されば、どの場合でも、相討ちとなろうとも、けっして恥辱ではない。

 相討ちは簡単なようだが、じつは違う。彼我一体、生死一路の関頭に立たねばならない。

 剣法の多くはただ畜生心にて、弱い者には勝ち、強い者には負け、互角の者には相討ちと相場が決っている。しかるに、わが流は天理、聖意にもとづくゆえ、修行を重ねて達人となれば、強弱を超越した聖となる。聖は古今に一人であって、二人とはいない。もし聖と聖との出会いなら、相抜けよりほかにない。

 太刀をとって敵に対したら、別儀はないのだ。ただ打て。間合遠ければ、太刀の届くところまで行け。行きついたら打て。何の思惟も入れてはならない。

 他流はわが姿かたちを狙って当てようとするだろう。が、わか流は敵の気を外しているから、狙ってくればかえって外れる。反してこちらは外して出るから、むしろよく当るのである。

資料:夕雲流剣術書

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