武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

京都で金環日食

2012年04月29日 | Weblog
 2012年5月21日。京都で282年ぶりの金環日食が見られる。

 金環日食とは? 月が太陽に重なった時、月の見かけの大きさが太陽よりも少し小さいため、太陽がはみ出して金色の環となって見える日食。

 この金環日食は、日本では次回2030年まで見ることができない。


【京都で金環日食が見られる時刻】

食の始め  6時17分41秒

金環日食の始め  7時30分00秒

食の最大の時刻  7時30分35秒

金環日食の終り  7時31分09秒

食の終り  8時55分17秒


【安全な観測方法】

・『ピンホールを利用する』  厚紙など、光を通さない薄いシートに小さな穴を開けて、日食中の太陽の光を当てる。すると、穴を通って影の中に映った太陽の光が、欠けた太陽の形になっている。これは、ピンホールカメラの原理。

・『木漏れ日を見る』  木もれ日も、ピンホールと同じ原理で、葉の間を通ったそれぞれの光が太陽の形になる。

・『手鏡で映す』  大きさが10センチ程度までの鏡で太陽の光を反射させ、反射させた光を建物の壁などに映す。壁からは、鏡の大きさの約200倍以上離れること。鏡の大きさが10cmであれば、壁からは20m以上離れる必要がある。壁から十分に離れると、鏡がどんな形をしていても、壁に映った太陽の光が丸く見えるようになる。この丸い形が、太陽の形である。日食のときには、欠けた太陽の形が壁に映る。この方法も、ピンホールの原理を使ったもの。

・『日食観察グラスを使う』  日食専用として、さまざまなグラスや遮光板が販売されている。そのような製品を使えば、欠けた太陽を見ることができる。必ず日食専用のものを使うこと。一般のサングラスなどは、どんなに濃いように見えても、太陽の強い光や熱に対しては無力である。


【注意】

 日食観察には危険を伴う。非常に珍しい自然現象で、安全な日食の観察法などの基本を学び、予備知識をもって観察に備えよう。
 金環日食の最中も含め、どんなに太陽が欠けた状態でも、太陽をそのまま直視してはいけない。太陽の光は非常に強く、肉眼で直接見つめると、わずかな時間であっても目を傷めてしまう危険がある。

 また、日食観察グラスの代わりになると思われがちな、色つき下じき、すすを付けたガラス板、色ガラス、サングラスやファッション用グラス、ゴーグル、感光したカラーネガフィルム、カメラ用のND(減光)フィルター、重ねた偏光板などを用いることは、適切な減光が得られないことや、目には見えない有害な光線が目の奥に届いて網膜を傷つけてしまう恐れがあり、たいへん危険である。これらを日食観察グラスの代わりに用いて太陽を見ないように注意しよう。 (国立天文台ホームページ参照)

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清盛 西行の歌ー北面の武士

2012年04月26日 | Weblog
                         西行の歌 - 北面の武士


                    君が住む 宿のつぼをば 菊ぞかざる

                         ひじりのみやと いふべかるらむ


                    惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは

                         身を捨ててこそ 身をも助けめ


                    そらになる 心は春の 霞にて

                         世にあらじとも 思ひ立つかな


                    世を厭ふ 名をだにもさは 留め置きて

                         数ならぬ身の 思ひ出にせん


                    身を捨つる 人はまことに 捨つるかは

                         捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

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日本庭園の美

2012年04月22日 | Weblog
 日本庭園は1300年にもわたる長い時間つくり続けられている。その作庭における中心は、美しい自然風景に思いを馳せながらつくることであった。さらに理想郷としての世界を目指して様々な工夫を凝らしてきた。そして、そこには「見立て」という考え方が用いられた。池を海に、石を山岳などに、日本独自の美意識の心によって創作されてきた。その構成や、観賞方法とは。

 庭園という言葉は明治時代になってつくられた造語である。古くは「山水」や水を使わない「枯山水」、豊な自然観がある「林泉」、作庭記前裁秘抄にみられるように「前裁(せんざい)」などといわれた。「庭」は広場などの空間を、「園」は見て楽しむ観賞を意味する。観賞本位の空間であることが庭園の位置づけとなる。

 日本庭園には池泉、枯山水、露地という三つの様式がある。池泉と枯山水は自然風景の縮景であり、露地は等身大の自然風景をつくり出す。飛石、燈籠の見立て設置、蹲(つくばい)などが露地としての機能を付加する。基本は自然風景の美しさに思いを馳せながらつくることである。

 自然風景の縮景には、島、出島、荒磯(あらそ)であらわす海洋風景。築山、石組、滝石組や遣水(やりみず)、曲水の流れであらわす山水風景がある。

 宗教観を盛り込む禅宗の庭。理想郷としての鶴亀表現、蓬莱島表現など不老不死の蓬莱神仙思想。また極楽浄土をつくり出すために、阿弥陀堂を中心として構成する浄土式庭園など。

 庭に背景を取り込む「借景」。東京の旧浜離宮や芝離宮は海を、和歌山県の養翠園は海と山を、京都の円通寺や正伝寺は山を借景としている。

 樹木や石を用いて遠近感を表現する。京都の龍安寺、真珠庵、円通時は石を、無鄰庵は樹木を中心として表現している。

 庭園は四季折々や気候の変化を感じながら見ていくことが重要である。 (日本庭園研究家・京都工芸繊維大学講師 重森千青講義録)

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合気道技法(106)

2012年04月20日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書
 
座取

第六条  転身横面打出シ敵ノ受手関節ヲ小脇ニ巻込ム事

外ニ二条敵ヨリ打出ノ事

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旧武徳殿 武道専門学校碑

2012年04月10日 | Weblog
 旧武徳殿の北側、御車寄の前に『武道専門学校碑』が建っている。そして、武道センター本館の位置に武道専門学校の校舎が建っていた。


               一 桓武の帝いつきます 
                   宮居ハ近き学びやに
                 大和心をいやみがく
                   これぞ武専の誇りなる

               二 名誉廉恥をいのちとし
                   質実剛健むねとして
                 日々いそしむ修養は
                   吾等健児のつとめぞや
                             
               三 たがひに鍛ふ鉄腕に
                   不屈の血潮あつく燃え
                 山をも抜かんその意気ハ
                   広く天下をどよもさん


 大日本武徳会の教育機関として、武術教員養成所(明治38年)、武徳学校(明治43年)、武術専門学校(明治45年)、武道専門学校(大正8年)と校名を変えながら、武道教員養成機関として、その中核に位置し、武道教育の源流を形成した。

 構内には武徳殿、武者溜(大正2年)、第二道場(柔道場・昭和6年)、弓道場(昭和3年改装)、武道専門学校々舎(大正14年)、武器庫、御真影奉安所、武徳会本部事務所(昭和4年改装)、表門、皇族門(昭和4年)、通用門(大正13年)がそれぞれ設置された。

 昭和20年の敗戦を迎え、その後の日本教育制度改革に関する極東委員会指令に基き、学校武道の禁止、社会体育における剣道の制限が行われた。昭和21年、連合軍は文部省から解散命令を発令させ、明治28年以来の大日本武徳会は、かくして解体されたのである。


★武道専門学校碑

【碑文】

 明治二十八年京都遷都千百年記念として平安神宮を建立 延歴尚武の古例に倣って大日本武徳会を設立 同三十二年武徳殿が造された 同会は時代の要請に対応して 同三十八年この地に武術教員養成所を開設 爾来四十年 武徳学校 武術専門学校 武道専門学校と称し 明治 大正 昭和三代に亘るわが国武道指導者育成の拠点となったが 大東亜戦争終結と共に廃絶の止むなきに至った
 昭和五十八年武徳殿大修復 武道センタ-本館建設のため 母校々舎は撤去された
 茲に有志相図り建碑してその跡を顕示するものである

 昭和六十二年三月吉日

   大日本武徳会 武道専門学校卒業生有志
   大日本武徳会 薙刀術教員養成所卒業生有志

【揮毫】

碑表 第26期 剣道 鶴丸寿一書
碑文 第30期 剣道 山根幸恵撰
    第26期 剣道 木戸高保書


 いまは開かずの門となっている、かつて武徳殿の正門とされていた門の傍にひっそりと佇む句碑がある。

               風薫る左文右武の学舎跡   野風呂


                          (大日本武徳会武道専門学校碑建立記念誌「武徳悠久」参照)

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夜桜お七 林あまり

2012年04月07日 | Weblog
                         夜桜お七        林あまり作

                    赤い鼻緒がぷつりと切れた 
                    すげてくれる手ありゃしない
                    置いてけ堀をけとばして
                    駆け出す指に血がにじむ

                              さくら さくら
                              いつまで待っても来ぬひとと
                              死んだひととは おなじこと
                              さくら さくら はな吹雪
                              燃えて燃やした肌より白い花
                              浴びてわたしは 夜桜お七
                              さくら さくら 弥生の空に
                              さくら さくら はな吹雪

                    口紅をつけて ティッシュをくわえたら
                    涙が ぽろり もひとつ ぽろり

                              熱い唇おしあててきた 
                              あの日のあんたもういない
                              たいした恋じゃなかったと 
                              すくめる肩に風が吹く

                    さくら さくら 
                    いつまで待っても来ぬひとと
                    死んだひととは おなじこと
                    さくら さくら はな吹雪
                    抱いて抱かれた 二十歳の夢のあと
                    おぼろ月夜の 夜桜お七
                    さくら さくら 見渡すかぎり
                    さくら さくら はな吹雪
                    さくら さくら さよならあんた
                    さくら さくら はな吹雪

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合気道技法(105)

2012年04月03日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書
 
座取

第五条  転身横面打出シ敵ノ受身首ヲ絞リ込ム事

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清盛 後白河法皇の梁塵秘抄

2012年04月01日 | Weblog
 今様とは、平安時代に流行した歌謡である。

 『梁塵秘抄』

遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子どもの声きけば、わが身さへこそゆるがるれ

舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん、踏破せてん、真に美しく舞うたらば、華の園まで遊ばせん


わが子は二十に成りぬらん、博打してこそ歩くなれ、国々の博当に さすがに子なれば憎かなし、負いたまふな、王子の住吉西の宮

仏は常にいませども、現ならぬぞあわれなる、人の音せぬ暁に、ほのかに夢に見えたまふ


阿弥陀仏の誓願ぞ、かへすがへすもたのもしき、一度御名をとなふれば、仏に成るとぞ説いたまふ

甲斐国より罷り出でて、信濃の御坂をくれぐれと、遥々と、鳥の子にしもあらねども、産毛も変はらで帰れとや


関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮、また比良の明神、安房の洲滝の口や小鷹明神、熱田に八剣、伊勢には多度の宮

 昭和36年に制作された映画『合氣道』の冒頭のナレーション「梁塵秘抄に、関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮。植芝翁は軍神に祈る心のうちに、武道は愛なりという真理を強く深く追求されています」。
 古来、鹿島、香取の両神宮、そして諏訪神は第一級の武神と考えられていた。比良の明神は滋賀県高島郡の白髭神社、安房の洲宮は館山市の神社、また小鷹明神は安房郡白浜町(旧長尾村滝の口)の小鷹神社としている。 関とは逢坂関である。
 合気道がどのようにして誕生したのか。その根底にあるものを探ろうと、開祖植芝盛平の日常生活を中心に、茨城県岩間町の合気道場、合気神社、愛宕山の愛宕神社などでロケーションが行われた。

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