天空の竹田城跡
昭和の初期、兵庫県の竹田というところに合気道の道場があり、そこでは開祖植芝盛平先生が直接指導に当たっておられたという。そこに行って土地の人から当時の道場の様子を聞こうと私たちは京都を出発した。
竹田駅に到着。まずは腹ごしらえと、川に面したレストランにて昼食をとる。 その店の窓から雨に煙る山が眺められた。山の頂に城跡と思われる、石垣が見えた。
昼食後、行動開始。まずは駅長さんに当たってみる。それならば、この土地に古くからある造り酒屋さんに尋ねてみるといい、と駅長さんに教えられる。早速、その造り酒屋を捜す。目印は高い煙突である。火の見櫓のある高台で周囲を見回して、それらしき煙突を見つける。
造り酒屋さんで、竹田の郵便局長である石原氏が当時の様子に詳しいことを教えてもらう。
石原氏宅に伺うと、生憎と氏はお留守であった。石原夫人に京都からやって来た訳を話すと、
「合気道か何か、その辺のところは分かりませんが」
道場があったのは覚えているという。そして、大本竹田別院の窪田氏が詳しく知っているので、これから案内してくれるとのこと。
「一人で話すよりも、そのほうが‥‥話しているうちに、いろんなことが思い出さ れてくるかも知れませんから‥‥なあに、すぐ隣ですから」
私たちは、石原夫人の申し出をありがたく受けることにした。
大本竹田別院は郵便局の前であった。石原氏宅から別院へ行く途中に倉があり、石原夫人はその倉を示して、その倉こそ道場だったことを教えてくれた。
大本竹田別院の窪田孝造氏は、前もって連絡もせずにやって来た私たちを快く迎えてくれた。
窪田氏は、当時の道場について、こう語ってくれた。
「それは、昭和8年から10年までのことです。大本に武道宣揚会というのがあり ましたて、この地にその道場がありました。初代の会長が大本の出口王仁三郎師 で、その三代目の会長が合気道の植芝盛平というお方でした。
今の竹田郵便局の前に酒倉があって、それが道場に改造されました。50畳だったでしょうか。ところが、次第に道場生の数が増えるものだから、その隣にあった大きな酒倉を改造して、そちらに移りました。こちらの方は少なくみても120畳位だったかなあ。
道場生が、大先生と呼んでいた植芝氏が指導に当たってましたが、そうでないときには小畑峰吉という方が指導されていました。
道場生は、造り酒屋さんの屋敷に住んで掃除を手伝ったりしていました。そして、毎日のように竹田城に駆け上がって修行をしていました。また、時には川に入って禊をしたりしていました」
先ほど雨の中に見えていた城跡が竹田城であるという。そして、私たちが昼食をとったレストランから見えた川こそ道場生が禊をした川であるという。
石原夫人は当時の大先生について、こう語ってくれた。
「そのお方は凄かったですよ。お弟子の方々が何人かで掛かっていきなさると、 エイ、と気合を掛けなさる。すると、体には触れていないのに、お弟子の方々が 皆、倒れてしまいましてなあ」、そして、「あれはどうなっているんでしょう」と、しきりに首を傾げていた。
最後に、私たちは道場だった建物に案内してもらった。その建物は大本竹田別院と棟続きになっていた。
「この建物が、最初に作られた方の道場です。後に移った大きい道場は、現在、 取り壊されて民家になっています」
建物の広さは、公安の道場ほどである。酒倉だっただけあって、天井が恐ろしく高い。
その後、私たちは、道場生が駆け上がったという竹田城跡に行ってみることにした。山の登り口から頂の城跡までの、曲がりくねった道は、車でたっぷり10分掛かった。
いつの間にか雨は上がっていた。頂の城跡から竹田の町並みが一望のもとに見渡せた。城跡の一段と高い場所に立った樋口隆成師範代は、鎮魂の行をされた。師範代の気合が、雨上がりの大気に響き渡った。