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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

天空の竹田城跡

2021年04月29日 | Weblog

 天空の竹田城跡

 昭和の初期、兵庫県の竹田というところに合気道の道場があり、そこでは開祖植芝盛平先生が直接指導に当たっておられたという。そこに行って土地の人から当時の道場の様子を聞こうと私たちは京都を出発した。
 竹田駅に到着。まずは腹ごしらえと、川に面したレストランにて昼食をとる。 その店の窓から雨に煙る山が眺められた。山の頂に城跡と思われる、石垣が見えた。
 昼食後、行動開始。まずは駅長さんに当たってみる。それならば、この土地に古くからある造り酒屋さんに尋ねてみるといい、と駅長さんに教えられる。早速、その造り酒屋を捜す。目印は高い煙突である。火の見櫓のある高台で周囲を見回して、それらしき煙突を見つける。
 造り酒屋さんで、竹田の郵便局長である石原氏が当時の様子に詳しいことを教えてもらう。
 石原氏宅に伺うと、生憎と氏はお留守であった。石原夫人に京都からやって来た訳を話すと、
「合気道か何か、その辺のところは分かりませんが」
道場があったのは覚えているという。そして、大本竹田別院の窪田氏が詳しく知っているので、これから案内してくれるとのこと。
「一人で話すよりも、そのほうが‥‥話しているうちに、いろんなことが思い出さ れてくるかも知れませんから‥‥なあに、すぐ隣ですから」
 私たちは、石原夫人の申し出をありがたく受けることにした。
 大本竹田別院は郵便局の前であった。石原氏宅から別院へ行く途中に倉があり、石原夫人はその倉を示して、その倉こそ道場だったことを教えてくれた。
 大本竹田別院の窪田孝造氏は、前もって連絡もせずにやって来た私たちを快く迎えてくれた。
 窪田氏は、当時の道場について、こう語ってくれた。
「それは、昭和8年から10年までのことです。大本に武道宣揚会というのがあり ましたて、この地にその道場がありました。初代の会長が大本の出口王仁三郎師 で、その三代目の会長が合気道の植芝盛平というお方でした。
 今の竹田郵便局の前に酒倉があって、それが道場に改造されました。50畳だったでしょうか。ところが、次第に道場生の数が増えるものだから、その隣にあった大きな酒倉を改造して、そちらに移りました。こちらの方は少なくみても120畳位だったかなあ。
 道場生が、大先生と呼んでいた植芝氏が指導に当たってましたが、そうでないときには小畑峰吉という方が指導されていました。
 道場生は、造り酒屋さんの屋敷に住んで掃除を手伝ったりしていました。そして、毎日のように竹田城に駆け上がって修行をしていました。また、時には川に入って禊をしたりしていました」
 先ほど雨の中に見えていた城跡が竹田城であるという。そして、私たちが昼食をとったレストランから見えた川こそ道場生が禊をした川であるという。
 石原夫人は当時の大先生について、こう語ってくれた。
「そのお方は凄かったですよ。お弟子の方々が何人かで掛かっていきなさると、 エイ、と気合を掛けなさる。すると、体には触れていないのに、お弟子の方々が 皆、倒れてしまいましてなあ」、そして、「あれはどうなっているんでしょう」と、しきりに首を傾げていた。
 最後に、私たちは道場だった建物に案内してもらった。その建物は大本竹田別院と棟続きになっていた。
「この建物が、最初に作られた方の道場です。後に移った大きい道場は、現在、 取り壊されて民家になっています」
 建物の広さは、公安の道場ほどである。酒倉だっただけあって、天井が恐ろしく高い。
 その後、私たちは、道場生が駆け上がったという竹田城跡に行ってみることにした。山の登り口から頂の城跡までの、曲がりくねった道は、車でたっぷり10分掛かった。
 いつの間にか雨は上がっていた。頂の城跡から竹田の町並みが一望のもとに見渡せた。城跡の一段と高い場所に立った樋口隆成師範代は、鎮魂の行をされた。師範代の気合が、雨上がりの大気に響き渡った。


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大本訪問記

2021年04月25日 | Weblog

 大本訪問記

 合気道の開祖である植芝盛平先生は、大正七年に京都綾部の大本を尋ねられている。そして、大正12年に蒙古に渡られるまでの間、この地にて道の研鑽を重ねられたと伝えられている。
 綾部は、大本の本拠地として知られている。古くは九鬼氏二万石の城下町であった。
 開祖ゆかりの地であり、大本の聖地でもある綾部に到着。私たちは、直ちに大本を尋ねる。大本梅松苑の参事である葦原萬象氏より、当時の大先生にまつわる話を聴く。
 ご自身もかつては剣道の修行をされたという葦原氏は武道にも話を進められた。
 武道の鍛錬は精神と肉体の一致にあり、その身体は破邪顕正の剣にならなければならぬ。また気合は己が気の充実のためのもので、相手を威すためのものではない。極意は言霊である、とも葦原氏は言われた。
 その後、伊藤氏に梅松苑内を案内していただく。小高い丘の上の、教碑に「〇 にゝ」が刻まれていたのが特に印象に残った。
 温かい麦飯の昼食を御馳走になり、大本梅松苑を出発する。目指すは亀岡の大本本部である。

 大本亀岡本部に到着。本部長の森清秀氏が出迎えてくださる。綾部で受けた丁重なるもてなしはここでも変わらない。大本では芸術を高く評価しているとのこ とで、聖師出口王仁三郎作の「耀盌」を始め数々の作品を拝見させていただく。
 茶室に案内された一同は見様見真似で茶をすする。日頃の稽古の癖が出て、茶室内の移動は膝行にて行う。「座り技の公安」の面目躍如と言いたいところだ が、どうだろうか?
 稽古を受けたいとの熱意が通じて、芸術(武道)部長である奥山忠男先生より、松家博氏を紹介される、道場に案内された一同は、水を得た魚とばかりに、道着に着替える。
 「いつも通りにやってください」との松家氏の言葉に、一同柏手をうち、まずは体の転換から。基本である座り技で、一教、入身投げ、四方投げ、そして二教 と日頃の稽古振りを披露した後、松家氏の剣、及び剣の動きを発展させたという体術を拝見する。その後、松家氏に剣の呼吸、剣の捌きを指導していただく。
 松家氏が手にしておられるのは普通の、反りのある木剣ではなく、直刀である。それは、剣を模しているとのことである。充分に間合いを取って、それを双方が詰めていくこと。剣の動きに従って体が進んでいくことなどを教えられる。 精神と身体の一致を説かれたのは綾部梅松苑の葦原氏であったが、ここでは剣と身体の一致があった。「剣の動きと身体のそれの間に隙間があってはならない」 と、松家氏はそう言われた。
 稽古が終わった時には辺りはもう暗くなっていた。2時間にわたる稽古をつけてくださった松家氏に何度も礼を述べて、大本亀岡本部の道場を出る。 

 葦原萬象先生からの手紙
 昭和七年、亀岡天恩郷に植芝(盛平)先生をお迎えして、昭和青年会武道部長になっていただいた。そのお手引きをしたのが、私でありまして、続いて先生と私とで出口(王仁三郎)聖師にご面会「大日本武道宣揚会」の名称をいただいたのです。
 天恩郷内に宣揚会の事務局がありました間は、私がその総務局長、補を兼務しておりまして、東京の植芝道場へも参りました。
 後に大日本武道宣揚会の道場が竹田に移りましてからは、その役は退きましたが、招かれて竹田道場で三日間「日本精神について」の道場講座を開いたことがありました。
 終戦後も植芝先生が綾部に来られたときは、必ず旅館に招かれて色々とお話を聞かしていただきました。
 そして今日、合気道が世界的に発展しているのを非常に嬉しく思うとともに、当時の同門の友たちが、だんだんと少なくなって来たことを淋しく思っております。


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紀州田辺の旅

2021年04月22日 | Weblog

 紀州田辺の旅
 
 田辺は植芝盛平、大先生の生誕の地である。そしてまた現在、大先生はこの田辺の高山寺に眠っておられる。
 田辺駅に到着、早速その高山寺を訪ねた。当地で合気道の道場を開いておられる五味田聖二師範が私たち一行を迎えてくれた。
 私たちは大先生のお墓に案内された。大先生のお墓は正面の一番奥にあった。 お墓の右隣に「植芝盛平翁之碑」と刻まれた石碑が建っていた。それは2メート ルはあった。
 卒塔婆を立て、私たちは持参の花束を供えて、一人ひとり線香を上げた。大先生のお墓を前にして、それぞれの胸に去来したものは何だったろうか。
 その後、高山寺の境内にある道場で大先生のフィルムを観せてもらった。昭和30年頃に岩間の道場、そして旧本部道場で撮ったフィルムであるという。吉祥丸先生や田中万川先生、岩間の合気神社を守っておられる斉藤守弘先生、それに藤平光一先生の顔が見られた。何十年ほども前のフィルムであるからして、皆、 お若い。
 大先生の動きは、速い、それがまた不思議な速さである。いつ動いたのか分からないのである。いつの間にやら、剣先が相手の喉元に来ている。
 何より印象に残ったのが、大先生の目である。鋭い光が出ている。しかし、人を威圧するような鋭さではない。その光は澄んでいる。
 当時の稽古風景にも興味があった。私たちが日頃している稽古と全く同じものが映っていた。それは、何十年ほども前のフィルムであることを忘れさせた。と同時に、自分たちのやっている稽古に確信が持てた。
 フィルムを見た後、五味田先生は私たちを市の運動公園に案内してくれた。そこには「合氣道」と刻まれた碑があった。碑を囲むようにして、蘇鉄の木が植えられていた。碑に囲まれている「合氣道」の文字は大先生のそれで、その部分は白く塗られていた。その白さが和歌山の空の青さによく似合った。田辺に着いとき曇っていた空も、いつの間にか晴れていた。
 大先生の生家にも案内された。瓦屋根の二階屋で、すぐ後に山が迫っている。 何でも、吉祥丸先生の姉上が生まれたときに改修されて、それが今に残っているという。驚いたことに、現在も人が住んでいる。合気道の創始者の家であるという立札も何も立っていない。知らされなければ、誰も気付かないであろう。ごく普通の家である。それが自然で、よかった。
 一通り案内してもらった後で、五味田先生を囲んで、昼食を共にした。五味先生は「いい加減な稽古をしないように」と言われた。つまり、受けをとる者がしっかりと握り、しっかりと正確に打っていくべきであると、これは日頃の稽古でもいわれていることである。いい加減な稽古をしていると、そのいい加減さが身についてしまう。一度身についたものを後で改めるのは難しい。
 田辺の道場では週三回、稽古をしているという。そのうち一回は剣と杖をしているとのことであった。
 そして、私たちは田辺を後にした。私たちは五味田先生に対する感謝でいっぱいだった。田辺に行ってよかった。そして今度行くときは、是非道着を持って行きたいものだ、という声が誰ともなく出た。


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合気道開祖 植芝盛平語録

2021年04月18日 | Weblog

 東京の新宿駅から都電で若松町へ、旧本部道場に植芝盛平先生を訪ねる。植芝先生は大先生「おおせんせい」と呼ばれていた。
 木造平屋建ての道場は八十畳の広さがあった。道場から廊下を通って奥の間へ案内される。大先生は座敷机を前に座られていた。
 正勝吾勝勝速日について、大先生曰く、弛まず、怯まず、速きに勝つの心意気。つまり、信念を貫けということ。
 大先生のお話を伺っているとき、何となくこちらの腹の中を見透かされているような感じがした。
 「よし、演武を見せてやろう」

 合気道開祖 植芝盛平語録

 先生の仰ったことを清書されたものの中から、伊邪那岐、伊邪那美命と熊野八王子、天之村雲の九鬼さむはらの竜王の三柱が白滝神社に祀られておられるというのですが、私が調べたところ、先生が団体で白滝に入られるとき、建速須佐之男の神をお持ちになったと思うのですが。

 その通りです。天之村雲九鬼さむはらっていうのは須佐之男のご神剣やもの。それを速武産の大神と称えるのです。それは建速須佐之男の大神様やけれど、須佐之男の神様大海原を知ろしめに事依さし奉りと古事記にあるんです。大海原とも地球上のこと全部、大地のことです。それでその御厳にも形はないのです。熊野神社の域でこれをカム須佐之男の大神と顕現するのです。最初は建速須佐之男の大神であり、また治まってきて、全般に治まった折にはそれが弥勒の大神と顕現するのです。ですが、カン須佐之男とカミ須佐之男と顕れるのですよ。同じ神様です。

 全体全部を須佐之男の大神というのです。建速須佐之男の大神と最初いわれて、それで一般の方にはカミ建速須佐之男の大神と顕れているんです。それで、それを三つに分けまして、熊野三社に分けてます。天狗では速玉神社と奉って、 それから那智山ではやはり須佐之男の神様、そして本宮山ではやはりこれも 須佐之男の大神。須佐之男の大神は人気なんです。それでね、今の神主では絶対に解からんことを私知ってるから。それは大変なことですよ。本当の神様を奉るためですよ。

  「赤白玉や真澄玉 合気の道は小戸の神業」とこういう。赤玉ということは日本では豊玉姫の神様をいうてるんです。赤玉というのは呼吸の神様で、合気の道は小戸の神業です。小戸というのは禊です。禊は真の武道です。どういう訳でそういうこというかというと、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐ヶ原に、禊祓いたもうときに成りませる神の御名」というのがあるんです。 これはどういうことかというと、地球修理固成の折に神様はこの伊邪那岐、伊邪那美の神と化身して顕れた。その折に伊邪那美の大神様は、火の神を産んで黄泉つ国に神去りたもうたという歴史があるんです。

 要するに穢れの国に行かれたということです。そこで、伊邪那岐の大神様はお迎えに黄泉つ国まで、醜女つ国までお迎えに行ったところ、穢れが多くて帰ることができぬ。そこで、歴史にあるように黄泉比良坂の戦いが起こるのです。穢れを祓うために。それで、祓い、祓いに行って、最後に千引きの岩の中においてことどを渡したもう云々、というところまでやってくるんです。桃の実を三個投げてマガツイクサを追い払う、邪気を追い払う。それで千引きの岩の中において、千引きの岩のことを何というかというと大和魂の練成であります。それを中において那岐、那美二尊、黄泉津大神と伊邪那美の大神様が、産屋を建てるということを誓うんですよ。そういうようなことがあるんです、歴史にね。

 この那岐は、草薙の剣といってるものは形のある剣で、ところが天之村雲の剣は、九鬼さむはらの竜王というものは他にないんです。これは形じゃないんです。須佐之男の大神様の魂の入っている剣であり、また須佐之男の大神様をお守りしている守護の神様なんですよ。大きいんですよ。世界を守る。何故かっていうと歴史にはちょうど須佐之男の大神様がお生まれになった折にやな、禊です。つまり今でいう通り、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐ヶ原の清浄において、云々、であり、第一番がけに穢れを祓うて、禊祓うた時に生まれたのが、衝立船戸の神様である。

 衝立船戸の神というのは、杖とも柱とも神様の直々の神様のやな、御守護なさる大官のことである。今の現在の大官も同じ。また神代の時代では神様の神様である。その神様までも穢れた世界になってから間に合うから、杖を投げ捨てた。その杖を投げ捨てたお蔭で、衝立船戸の神というのが生まれた。神様の杖とも柱とも、神様のご守護の御守護神である。その御守護神も穢れが多うて間に合わんという所以が今日の時代になってきた。それが書いてあるんです。それで、その次には十二神産んでいるんですよ。衝立船戸の神より辺津甲斐弁羅の神様が産まれるまでに十二神産んでいる。

 その他に天照大御神様と須佐之男、月読の大神様、三貴子を産んで、それは禊だから産まれてき たのです。これで十五柱の神を産んだんです。これで、初めてこの宇宙、営みのための糸筋の順序が立ってきたんです。その折の神様です、須佐之男の神様は。 須佐之男の神様は大海原ですから、世界中のことです。

 小戸の神業についての説明。中身は古事記に出てくる三貴子の誕生を語っているだけだが、この説明を聞いて私は初めて意味を理解した。小戸は伊邪那岐が禊を行った地名。つまり、合気道は禊技である。 (白滝村史編纂委員取材会見)


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ノマドランド NOMADLAND

2021年04月10日 | Weblog

 ノマドランド  漂流する高齢労働者たち

 映画「ノマドランド」は、アメリカで車上生活を送る高齢貧困層の実態を取材した密着ルポ。原作はジェシカ・ブルーダー「Nmadland」、監督はクロエ・ジャオ、主演はフランシス・マクドーマンド。

 2008年のリーマン・ショック(金融危機)はアメリカ国民の日常に大きな影を落とし、老後の蓄えを失った人々が続出した。その結果、やむなく家を手放して車上生活を送る、ノマド(流浪者)と呼ばれる高齢者も急増した。原作者は、自らキャンピングカーでノマドの生活を体験し、アマゾン配送センターなどの労働現場に潜入して、車で移動しながら老後生活を送る人々を取材したという。

 主人公のファーンは、仕事を求めて国中をボロの大型ワゴン車で旅をする。同じ境遇の人々との出会い、ノマド生活の知恵や互助精神を教わり、プライドを持って生きる彼らの懐の深さも知る。本物のノマドたちが出演、随所にアメリカの広大で美しい風景をちりばめ詩情豊かに描きだす。

 No, I'm not homeless. I'm just houseless. Not the same thing, right?  ホールレスではありません。ただのハウスレスです。


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合気道武産道場 京都

2021年04月06日 | Weblog
                             開祖扁額「武産合氣」

  合気道武産道場

[道場] 京都市中京区寺町夷川角
      合気道武産道場

 CD 『天地の聲』 合気道開祖植芝盛平
 昭和36年頃の開祖77歳の肉声。植芝盛平翁が、古事記をひも解き合気道の精神を、武道とは愛なりと語る。この精神と技が結合して、強い技と、立派な人ができるのだと教える開祖の言葉がすーっと心に沁みてきます。そして、聞くだけで心を整え心が軽くなる祝詞の調べは、古きよき日本の心が聴こえてくるようです。

 DVD 『京の合気道』 樋口隆成師範
 月刊秘伝が、体技と開祖の思想が一体となった貴重な合気道の伝と評した合気の技。開祖が示す〇に・の図と△〇口の図が読み解かれ、六方の捌きと水火の結びがここに体現される。開祖を彷彿させる霊妙で柔らかい万川合気道の伝承。基本技から応用技まで全69技、134本を収録。

 DVD 『京の合気道 武器技編』 樋口隆成師範
 開祖植芝盛平が昇神したとき、樋口師範は二十二歳になっている。あの伝説的名人に接し、薫陶を受けた者は、京都にはもういない。国鉄京都駅の公安道場から鞍馬寺の修養道場を経て寺町夷川の武産道場。これは開祖から斉藤守弘師範へと伝承された合気の剣を修練する合気道武産会が、創立50周年を記念して制作した記録映像である。

 書籍 『秘伝合気道』 樋口隆成師範
 本書は合気道開祖植芝盛平の詠んだ和歌「道歌」を、樋口師範が十年にわたり続けてきた研究の集大成である。内容は、合気道草創期に開祖の記した「武道」の中の五十五首の道歌を綿密に解き明かしながら、道歌に刻まれた開祖の魂と武の世界を、道歌の躍動感そのままに生き生きと描いたものである。「宮本武蔵と植芝盛平」ほか。

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精神武道 田中万川語録

2021年04月04日 | Weblog

 精神武道 田中万川語録

植芝盛平先生は大先生「おおせんせい」と呼ばれていた。

大阪弁で、全国から師範が集まる席で大先生は「伊三郎(本名)は、これから万川を名乗るから」と皆んなの前で紹介してくれはったのや。

合気道は精神武道です。大先生は、古事記を読みなさいといわれた。

合気道は和合の気、魂の恵みがあり、気の流れがあってものが産まれる、これが武産です。

合気道の気とは、有限の意識による腕力と違って、無意識に働く無尽蔵の活力をいいます。

合気道は敵をつくらない争わない気の世界であり、この練磨によって、この禊によって現実の社会の乱れを清浄に戻すことができるのです。武は大愛であり、この大愛の精神こそ天地和合、人類大和の道といえるのです。

大先生が木剣の素振りを始められると、その気合で足がすくんで近づくことが出来なかった。

気合がない、気合を入れなあかん。大先生の気合は凄かった。気合を入れると、大先生の顔が(両掌を顔に近づけて)こんなに大きくなった。

大先生が怒ると、あの白い髭がピィーンと立った。

鞍馬山にて、大先生の禊に言霊の行と淡路之穂之狭別の行があります。

言霊の行は野外でします。まず右手に剣を持って脇に立て、左手は帯に添える。次にアーと剣を頭上高くかざす。そしてオーと剣を降ろして元の位置に戻す。次に両手で剣を持ってウと入れ、エ、イと魂の比礼振りをする。

滝川を示し、流れている水は呼吸をしている。呼吸をしている水は腐らないが、停滞したした水は腐ってしまう。そして、呼吸をしている水はその音を発する。それが即ち響きなのです。正しく呼吸をしていれば、そこに響きが生じるのです。 「イエイ」

淡路之穂之狭別の行は、天の浮橋に立たされてスーウウユームウと右旋回に螺旋に上がり、左旋回に螺旋に降りる。まず杖の真ん中を両手で握り正面に立てる。次に杖の先端を握り頭上高くスーウと螺旋に突き上げ、ウユームウと左旋回に螺旋を描いて杖を下ろし元の位置に戻す。そして再び杖の真ん中を握り反転させてイエイとさし下ろし、左、右へ回す。

スの根源なくして技は産れません。〇にゝの中心があってこそ△〇口が生れるのです。心の恵をもって統一体となり、自在の気をもって技となします。△は入身、〇と口は気の流れで、喰い入り、喰い込み、喰い止まるのです。

水火の結びは、縦と横。表三角、横三角、裏三角と法線に従って六方に捌く。極意は捌きです。

田中万川先生のご自宅に道歌の衝立があった。

       右手をば陽にあらはし左手は陰にかへして敵をみちびけ

先生曰く、この導く掌を宇気比「うけひ」という。

床の間に黒鞘の刀が置いてあった。私が「竹光ですか」と問うと、先生は「これでも人は斬れる」とお答えになった。

口髭をたくわえダブルのスーツで愛車スカGに乗られていた姿が想い出される。


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