去る9月23日に酒井雄哉大阿闍梨がお亡くなりになりました。享年88歳。
2度目の千日回峰行を達成されたころに、酒井大阿闍梨の間近にお話を伺わせていただいたことが思い出されます。
出棺のときの挨拶で、藤波源信師の「お亡くなりになった日に、庭に出ると季節はずれの多数の白い蝶々が飛んでいた。飛ぶように山を歩いた酒井大阿闍梨の姿に思えた」とのお言葉が心に残ります。 合掌
幻冬舎ルネッサンス新書の生前最後のインタビューを完全収録『この世に命を授かりもうして』を読みました。
病と向き合い、命をかけて伝えたかった「生きること」の本当の意味。厳格な行道、千日回峰行を二度満行、「稀代の行者」が遺した最後のメッセージ。 考え方ひとつで、「死」も「苦」も、「楽」になる。千日回峰行を二度満行後も、国内外各地を歩き続けた酒井大阿闍梨が語る、足の裏で地面を踏みしめて「歩く」ことの大切さ。通りすぎてしまう大事な「縁」を結ぶための実践力。 誰もが何かの役割を持って授かった「命」の尊さ。「稀代の行者」が自らの命と向き合って体得した人生の知恵を、生前最後のインタビューで語り尽くした。 (幻冬舎ルネッサンス新書)
<目次>
一、ガンを知る、おのれの不始末を知る
二、病と向き合う
三、死は怖いものではない
四、結縁
五、歩くことが生きること
六、「苦」を「楽」にする知恵
七、いま、この瞬間を大切に
八、夢と現実の狭間で見たもの
九、愛別離苦
十、この世に命を授かりもうして
【著者紹介】
1926年大阪府生まれ。太平洋戦争時、予科練へ志願し、特攻隊基地・鹿屋にて終戦。戦後、職を転々とするがうまくいかず、比叡山へ上がり、40歳で得度。約7年かけて4万キロを歩く荒行「千日回峰行」を80年、87年の二度満行。その後も国内外各地への巡礼を行った。98年より比叡山飯室谷不動堂長寿院住職。2013年9月23日死去。著書に『一日一生』(朝日新書)、『ムダなことなどひとつもない』(PHP研究所)ほか多数。
写真:酒井雄哉大阿闍梨
2度目の千日回峰行を達成されたころに、酒井大阿闍梨の間近にお話を伺わせていただいたことが思い出されます。
出棺のときの挨拶で、藤波源信師の「お亡くなりになった日に、庭に出ると季節はずれの多数の白い蝶々が飛んでいた。飛ぶように山を歩いた酒井大阿闍梨の姿に思えた」とのお言葉が心に残ります。 合掌
幻冬舎ルネッサンス新書の生前最後のインタビューを完全収録『この世に命を授かりもうして』を読みました。
病と向き合い、命をかけて伝えたかった「生きること」の本当の意味。厳格な行道、千日回峰行を二度満行、「稀代の行者」が遺した最後のメッセージ。 考え方ひとつで、「死」も「苦」も、「楽」になる。千日回峰行を二度満行後も、国内外各地を歩き続けた酒井大阿闍梨が語る、足の裏で地面を踏みしめて「歩く」ことの大切さ。通りすぎてしまう大事な「縁」を結ぶための実践力。 誰もが何かの役割を持って授かった「命」の尊さ。「稀代の行者」が自らの命と向き合って体得した人生の知恵を、生前最後のインタビューで語り尽くした。 (幻冬舎ルネッサンス新書)
<目次>
一、ガンを知る、おのれの不始末を知る
二、病と向き合う
三、死は怖いものではない
四、結縁
五、歩くことが生きること
六、「苦」を「楽」にする知恵
七、いま、この瞬間を大切に
八、夢と現実の狭間で見たもの
九、愛別離苦
十、この世に命を授かりもうして
【著者紹介】
1926年大阪府生まれ。太平洋戦争時、予科練へ志願し、特攻隊基地・鹿屋にて終戦。戦後、職を転々とするがうまくいかず、比叡山へ上がり、40歳で得度。約7年かけて4万キロを歩く荒行「千日回峰行」を80年、87年の二度満行。その後も国内外各地への巡礼を行った。98年より比叡山飯室谷不動堂長寿院住職。2013年9月23日死去。著書に『一日一生』(朝日新書)、『ムダなことなどひとつもない』(PHP研究所)ほか多数。
写真:酒井雄哉大阿闍梨