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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

Aikido of Kyoto Prefectural International Center

2011年10月30日 | Weblog
★Japanese Cultual Experience Classes

Aikido Class

Dates:The first Sunday of every month 10:30-11:30

Place:Kyoto Prefectural International Center(Kyoto Station Building 9F)

Contents:Aikido does not awaken the fighting spirit, it prepares the spirit.
In this class, through the repeated practice of breathing and basic techniques, one could learn about the proper state of the heart and body and acquire the fundamentals of traditional aikido. Prior experience is not needed.

1. Explanations about Aikido
2. Practice basic breathing method and meditation
3. Practice Waza (techniques) of Aiki ,Sabaki (body-management), Ukemi (act of receiving a technique)
4. Breathing training
5. Repeat the basic trainings (2~4) and learn aikido

Participants:International residents of Kyoto Prefecture   *Interpretation is available in English

Fee:300 yen per class

What to bring:Sportswear

Application: Application necessary. The class is open to the first 10 arrivals.
※Please apply by E-mail at least 3 days in advance.

Aikido Takemusu Kai  Grand master Higuchi Takanari

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『古文書』にみる新選組(4)

2011年10月27日 | Weblog
★禁門の変

 蛤御門の変ともいう。この兵火による「どんどん焼き」は京都の町を焼き尽くした。

 『御所表戦之事』 中路家文書

はまくり御門会津様 伊予松山様 山城淀様御固
下立売御門を伊予うは島様 ゑちぜん
中立売ニハ壬生浪人百人組 会津固

蛤御門は会津藩、伊予松山藩、山城淀藩が警固。下立売御門を伊予宇和島藩、越前藩。中立売御門は壬生浪人(新選組)の百人組、会津藩の警固です。

 中路家は京都近郊の下桂村の庄屋。中立売御門の警固は実際は筑前藩であった。


 『幕末風聞書留』 大國家文書

新撰組浪士より当地富家鴻池初二十四家江 金五千両借用
頼ニ相成候処 三十軒ニ而三千両 次ニ十四軒ニ而二千両調達
頼之割 例之押付借ニ而無余儀 夫々共承知ニ相成候由 会津
より賄相渡り不申ニ付借用之趣意也 公辺御用令被仰付候
とも歎願いたし幾何度トナク願出、中々急速ニ御請
不申候へ共 公之威光より浪士ノ威ハ盛ナルカ速ニ調談 一日内ニ
相整候との趣 なんと歎息之到ニハ無之候哉

新撰組の浪士より当地(大坂)金持ちの鴻池家はじめ二十四家に対して五千両(計、十二万両)、三十軒に三千両(計、九万両)、十四軒に二千両(計、二万八千両)の借金(合計、二十三万八千両)の割り当ての依頼がありました。いつもの通りの押し付け借り(無理矢理)に他なりませんが、それぞれ承知したということです。会津藩よりの費用が新撰組に渡らないので、借用したとのことです。(鴻池家など)は公辺御用(幕府の資金援助)を仰せ付けられていると何度も嘆願し、直ぐに(借金を)受けることができないと言いましたが、公(幕府)の威光より浪士の威(脅かし)の方が強いのか直ぐに話を付け、一日のうちに整えろ(お金を準備)ということ、これほど溜め息が出ることはないです。

 新選組が大坂で鴻池等の豪商を集めて金策したという風聞の書留。元治元年11月頃のものではないかと推測される。 (史料:京都府立綜合資料館所蔵)

写真:近藤勇着用 ドクロ刺繍稽古着

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こころに沁みる歌

2011年10月23日 | Weblog
   たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか     河野裕子


   何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋ぢやない

   今ならばまつすぐに言う夫ならば庇つてほしかつた医学書閉ぢて

   あの時の壊れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて

   何年もかかりて死ぬのがきつといいあなたのご飯と歌だけ作つて

   さいさいと包丁研ぎてゐたる日よ病気する前の心身一如

   死ぬな 男の友に言ふやうにあなたが言へり白いほうせん花

   このひとの寝相の悪きは子供のやう一回ころがして布団かけやる

   死なないでとわが膝に来てきみは泣くきみがその頸子供のやうに

   今日夫は三度泣きたり死なないでと三度泣き死なないでと言ひて学校へ行けり

   手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
      

   きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり      永田和宏


 糺の森に雷鳴とどろき 雨がはげしく屋根をうつ 静かな朗読 歌を耳で聴く こころに沁みる歌

             (京都学問所設立式典・記念講演 永田和宏『歌を読む喜び』/下鴨神社)

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合気道技法(79)

2011年10月20日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

七十九、 後業  肩

受  両手で相手の両肩掴む

仕  左手頭上に振りかぶり頭を覆ふ様にし同時に左足半ば進む
    腰をさげて右に廻転した左足相手の後へ進め同時に左肘
    又は両手を充分伸ばして相手を左後方へ投げとばす

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『古文書』にみる新選組(3)

2011年10月11日 | Weblog
★池田屋事件

 『若杉家日記』 元治元年六月五日 若杉家文書

一 市中何歟大変之事御座候ニ付、会津藩壬生浪士所司代
藩加州藩多人数抜身鎗抜身刀等ニ而固之様子 風聞ニ者水戸浪士
或者長州浪士等と申候事ニ而 京都へ入込乱謀いたし候趣承ル
右ニ付壬生浪士乱謀もの召取相成 アレコレト怪我人者 多分御座候也

一、市中で何か大変なことが起きたということで、会津藩や壬生浪士、所司代の藩(桑名藩)、加賀藩など多人数が抜身の鎗や抜身の刀を持って警護している様子です。噂では水戸や長州の浪士京都にやってきて乱暴をするというように聞いていたので、壬生浪士が乱暴者を召し捕り、色々と多くの怪我人が出たということです。

 公家の土御門家(つちみかどけ)の家司(公家の家政を担う用人)である若杉氏が、池田屋事件の顛末について簡潔に記す。池田屋事件は、京都に潜入していた長州、土佐、肥後藩の尊皇攘夷派弾圧事件。三条小橋の旅館池田屋を新選組が襲撃、禁門の変のきっかけとなったといわれる。


 『幕末風聞書留』 元治元年六月五日 大國家文書

六月五日
昨昼頃 四条真町江向ケ壬生浪士様之者八人 下部三人罷越
枡屋喜右衛門方ニ而土蔵に有之候左之品
      武着類
  兜 桑方 壱ツ  桃成形 壱ツ  
  鎧 弐ツ  陣笠取合 五ツ計
  長持 弐棹  両掛 片シ
  竹筒凡壱尺計 三四本計 焔硝入有之 
  鎗 弐筋  巻物取合 八本計
  絹幡様之者 壱ツ 
  鉄砲玉様之物 但し紙色ニ致し数不分
  焔硝入 八升樽ニ七八分目計
  凡壱間計松之木四本 ほりぬき凡八貫目計
右之外色々有之候へとも 車ニ而壬生江持帰候よし

六月五日、昨日昼過ぎ、四条真町に向って壬生浪士らしき者八人と部下三人がやって来ました。枡屋喜右衛門の土蔵にあったのは左に記した品々です。
      武具類
  桑方の兜 一ツ  桃成形の兜 一ツ
  鎧 二ツ  陣笠取り合わせて 計五ツ
  長持 二棹  (以下、品物略)
右の他に色々ありましたが、車で壬生へ持ち帰ったということです。

 大國家は尊皇攘夷派の公家たちと交流があった地下官人。これは池田屋事件の発端となった枡屋喜右衛門(古高俊太郎)宅の捜索に関する風説書。古高俊太郎は逮捕される。 (史料:京都府立綜合資料館所蔵)

資料:池田屋二階

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卑弥呼の謎を探る

2011年10月09日 | Weblog
★古田武彦講演会『俾弥呼とは誰か』

 開演30分前の会場はほぼ満席、熱気に溢れる。座れない人のために、若い社員たちが汗だくで補助椅子を用意するために走り回っている。学生のときにミネルヴァ書房さんでアルバイトをさせてもらった、とはいっても仕事は倉庫整理である。社員さんに怒られながら・・・、それでも真剣に業務に携わっておられる姿に感銘をうけたことを懐かしく思い出す。

     倭人は帶方の東南大海の中に在り、山島に依りて國邑を為す。

     始めて一海を渡る、千余里、對馬國に至る。
           
     又、南に一海を渡る。千余里、名づけて瀚海と曰う。一支國に至る。

     又、一海を渡る千余里、末盧國に至る。四千余戸有り。山海に浜うて居る。

     東南陸行五百里にして、伊都國に至る。

     世々王有るも、皆女王國に統属す。郡使の往来、常に駐まる所なり。

     その南に狗奴國有り。男子を王となす。その官に狗古智卑狗有り。女王に属せず。

     郡より女王國に至る萬二千余里。

     其の國、本亦男子を以つて王と為し、住まること七、八十年。

     倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。

     名づけて卑彌呼と曰う。          (『魏志倭人伝』)

 古代史家で元昭和薬科大学教授の古田武彦先生の「よみがえる俾弥呼」が始まる。俾弥呼は「ひみか」と読む。
 邪馬台国それは幻の国である。『魏志倭人伝』に帯方郡より萬二千余里といわれるその国は果たしてどこにあったのか。

 邪馬台国への道程。距離を表す里数「里単位」は見逃せない。帯方郡より女王国まで、一万二千余里と書かれている。ところが各部分の里程を足しても、一万三百~四百里にしかならない。すなわち部分里程の総和が総里程にならなかったのである。だが三国志の書かれた魏・晋朝時代は「短里」(一里=約76メートル)である。とすると、部分里程の総和は総里程である。

 邪馬台国の名称。三世紀に陳寿が撰んだ『三国志』原本にはその国名はなく、「邪馬壹国」であった。五世紀に斐松之が注した『三国志』の、今日見ることのできる刊本は、十二世紀の紹興本・紹煕本、十七世紀の汲古閣本、十八世紀の武英殿本などであるが、それらにはすべて「邪馬壹国」になっている。だが例外なく「壹」は「臺」の誤りとみられてきたが、斐松之の厳正な校訂・注記の方針・態度からして、五世紀段階の諸異本はすべて「壹」であったこと、それは上記刊本に例外がないところからも明らかである。また漢代から宋代まで両字形が特にまぎらわしいほど近接した形跡はなく、紹煕本『三国志』全体を通じて「壹」と「臺」との錯乱は一例もない。のみならず「臺」は「天子の宮殿」といった意味をもつから、「邪馬臺国」などと用いる可能性はない。それは、『魏志』東夷伝編纂の政治的・思想的意図によるものであり、日本の天皇制の特殊具体的な形成史を中心に据えた古代国家成立の問題であろうと思われる。

 邪馬壱国はどこか。邪馬壱国は、博多湾沿岸の博多駅から大宰府にいたる地帯が中心地である。古代日本には、関西を中心とする近畿天皇家だけではなく、九州王朝、出雲王朝、関東王朝、東北王朝などが各地にあった。中国史書に描かれている「倭国」は北部九州を中心とする九州王朝である。九州王朝は663年(日本書紀)の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れ急速に勢力を失い、701年に近畿天皇家に併合された。これより近畿天皇家は日本国を名乗る。

 『魏志倭人伝』に鬼道に事え、能く衆を惑わす、見る有る者少なしと記された俾弥呼は、九州の博多湾岸にいた。

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合気道技法(78)

2011年10月07日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

七十八、 後業  後衿

受  右手で相手の後衿を掴む

仕  左で胴を打ちながら左足引いて左へまわり
    右足更に踏みこんで右手で顎を押す

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『古文書』にみる新選組(2)

2011年10月03日 | Weblog
 京都町奉行所の触書。京都守護職より新選組が京都の市中警備にあたることを正式に知らされた。

 『御触書』 町頭南町文書

松平肥後守殿御預浪士 市中昼夜見廻り候様 
肥後守殿より被仰付候条 為心得持場限相達シ置候様可致事
亥八月

松平肥後守殿(会津藩主、京都守護職)の御預り浪士に対して、市中昼夜見廻りをするように肥後守殿が仰せ付けたという事を、心得のためにその持ち場に知らせるよう(町奉行が)仰せになりました。


★八・一八の政変

 文久三年(1863)八月一八日、公武合体派の会津藩と薩摩藩が、尊皇攘夷派の長州藩を京都から追放した事件。いわゆる七卿落ちである。

 『役中日記』 文久三年八月一八日 千吉西村家文書

文久三癸亥八月廿二日迄別帳へ相控御座候
八月十八日早暁より禁裏御所前代未聞之大騒動 何之故歟ハ
不知 前夜四ツ時より 守護職松平肥後守殿多人数ヲ召連 俄ニ内参
中川宮様ヲ奉供禁中へ罷出 諸々江触有之候歟 在京之諸大名ハ
素より諸屋敷方留主居等ニ到迄 一家も不残追々守護ニ被出候 尤も
鎧甲携へ手鑓持 又ハ陣羽織ニ腹巻 六具とも具足致候も有之
候得共 多分ハ甲冑持参火事装束ニ候 手鑓長刀抜身も有之 鉄砲ハ
沢山ニ持参 上杉藤堂始其外大名方ニより 大筒ヲ車ニのせ馳行 中ニも
壬生浪士中但し肥後守殿御預り分四五十人ヲ何れも手ニ手ニ白刃鑓長刀
所持致 身ハ錣襦袢或ハ同頭巾等着し 大将分両人甲冑ニ而当方表
通行被致候 且又十八日十九日廿日追々連日右之仕合近国之諸侯何れも何れも内裏之
宮中如雲霞軍兵相詰り 其余ハ御廊外ニ罷在 御六門尤も諸大名之
之御囲メ厳重ニして 中立売御門ヲ出入吟味上有之 猥りニ出入不許厳重事
申上も無之 廿三日四ツ時藤堂新助ト申方寔ニ立派之御行粧釼付鉄砲
二百五十丁余 幟イロイロ馬印片はみ上白毛中丸ニ片喰金波金馬れん小口口
鉄砲ノ先キニ鎧ヲ引かけ 或ハ風呂しきニ包有もアリ 足軽迄も皆々鎧持参
寔ニ以前代未聞の義ニ候 到今日如何之訳合歟頓ト相分り不申後風説待而已

文久三年八月二十二日迄は別の帳面に控えています。
八月十八日の明け方より禁裏御所で前代未聞の大騒動がありました。なぜ起こったかは知りませんが、前夜四ツ時(9~11時頃)より守護職松平肥後守殿が多人数を引き連れて急に参内され、中川宮様を伴って宮中にお出でになりました。色々なところへ知らせていたのか、在京の大名はもとより留守居(京屋敷詰の家臣)などにいたるまで残らず順々に御所の守りに出てきました。もっとも鎧兜に手槍持ち、陣羽織に腹巻、六具(甲冑に附属する六種の武具)を揃えているけれども、多くは火事装束でした。手槍、長刀、鉄砲をたくさん持参。上杉家、藤堂家はじめ大名方は大砲を車にのせて駈けていきました。
中でも壬生浪士達、これは肥後守殿(会津藩御預り)の四・五十人は、いずれも手に手に刀、槍、長刀を持ち、シコロ襦袢(鎖帷子)やシコロ頭巾を着け、大将格の二人は甲冑姿で、わが家の家の表を通っていきました。
十八日、十九日、二十日は連日右のような様子で近国の諸侯達はいずれも内裏に軍兵を詰め、内裏に詰めない他の者は通路におり、御所の六門(南門、公卿門、御台所門、准后御門、朔平門、日之御門)は諸大名の警備が厳重で、中立売御門の出入は取調べを行い、猥に出入させず厳重な事この上ないことでした。二十三日四ツ時に藤堂新助という人は立派に飾った拵えの刀と鉄砲二百五十丁余り、幟色々、カタバミ家紋の馬印、鉄砲の先に鎧を引っかけ、或いは風呂敷包み、足軽までも皆々鎧を持参し、誠に前代未聞ことでした。今日までどういう訳かまるで分かりません。これからの情報を待つのみです。

 西村家は三条衣棚で法衣商を営む大店の商人。家の表の三条通りを禁裏御所に向けて進む隊列。新選組の出陣の様子をリアルに記す。大将格の甲冑姿の二人は、おそらく近藤勇と芹沢鴨であろう。


 『町代日記』 文久三年九月二一日 古久保家文書

廿一日雨
   
一 過日壬生旅宿之浪士頭弐人と妾之趣 
  油小路辺女壱人同所ニ而浪士之内より切殺し候由
  女ハ其儘宅江相送候へ共 検使等ハ無之

二十一日雨、先日、壬生浪士の頭分の二人と、油小路辺に住まいする女一人が、同所(壬生旅宿)で浪士内の者により斬殺されたとのことですが、女(の遺体)はそのまま自宅に送りましたが、検使等はありませんでした。

 古久保家は西陣に住む町代。壬生浪士組局長芹沢鴨等の暗殺の一件と推測される。すでに町奉行所では事件直後から浪士組内部の犯行であることが了解されており、変死があった場合に行なう検使を省略していたことがわかる。 (史料:京都府立綜合資料館所蔵)

写真:新選組袖章

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