
三宝院庭園・名石『藤戸石』
豊臣秀吉ゆかりの庭 京都市埋蔵文化財研究所 近藤章子氏講演録
安土桃山時代を代表する庭園に、豊臣秀吉が自ら縄張りを行い作庭に関わった醍醐三宝院庭園(京都市伏見区)がある。
庭園の歴史的な流れとして、桃山時代の庭園の特徴は、豊臣秀吉による絢爛豪華な石組み護岸と景石にみられる。
近年、こうした名勝や史跡などの整備には、歴史的な造園技術が復元されて用いられるようになり、そのため造園技術を解明する手段のひとつとして、考古学が採用されている。
三宝院庭園は、東西棟の殿舎が連なる南側に造られた池泉回遊式の庭園で、豊臣秀吉が縄張りを行った庭園として名高く、醍醐寺座主・義演の義演准后日記(ぎえんじゅんごうにっき)に作庭の経過が事細かく記されている。
慶長三年二月、義演は醍醐の花見の準備中であった豊臣秀吉を三宝院に案内した。その際、秀吉が泉水を大変賞美したと義演は記している。その約一週間後、秀吉は三宝院を再度訪れ、自ら庭造りを指揮することを決め、翌年の後陽成天皇行幸予定に合わせて四月から工事を開始した。
『義演准后日記』 文禄五年(1596)~寛永三年(1626)
慶長三年四月七日 雨灘及晩属晴 金剛輸院泉水今日太閣御所ヨリ奉行新庄越前其外衆両人来ナワハリ致之、
金剛輪院庭園(三宝院庭園)、今日、太閤秀吉は庭奉行として新庄越前守直定、ほか二人を命じ縄張りを行う。
慶長三年四月八日 晴 金剛輪院池大石等引入之、三百人斗来、庭者仙来、
作庭の・仙は、三百人を指図して、金剛輪院庭園に藤戸大石を引き入れる。
慶長三年四月九日 晴 金剛輪院泉水ヘフジト大石今日居了、主人石に用之奉行新庄越前、此外大石三ツ立之、手伝三百人来、
今日、庭奉行の新庄越前守は、金剛輪院庭園に藤戸大石を主人石に用い、他の大石三つとともに立てる。人夫は三百人。
この藤戸石は室町時代から著名な名石であって、織田信長が足利義昭の二条城庭園に運搬したもの。そして豊臣秀吉の聚楽第からこの金剛輪院庭園に据えられ、慶長三年五月十九日に金剛輪院庭園(三宝院庭園)が完成し、水の満々と張られた池に鯉鮒が放たれた。
この庭園の特徴は、陸部の土が流失するのを防ぐために置かれた護岸石を池底に直接据えるのではなく、土を叩き締めながら積み上げる「版築(はんちく)」した陸部上に、最上部の護岸石「天端石(てんばいし)」底部を置き、その下部の土が露出した部分は、覆うように別の石をひな壇状に積む工法を採用している。また最下部には地滑り防止用の留石が、池底の地中に埋め込まれている。
そして、現在の池は室町時代の池跡を壊して造られたことが、発掘調査で確認された。