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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

続 塩田剛三と合気道

2021年06月27日 | Weblog

 続 塩田剛三と合気道

 夜も更け、多分午前二時を廻った頃、ヒタヒタという音が聞えて来ました。それも複数で四、五人のようです。私はドアのところにへばりつき身構えました。 その時体中が震えてきて、止めようとしても、どうしても止まりませんでした。 いわゆる武者震いというのとはどこか違うようです。私はドアを少し開けて、機先を制しようと考えました。相手がドアのノブに手をかけた瞬間、こちらからドアを中に引き、転がり入ってくるところを殴り倒す作戦でした。
 浦岡は薄暗くした部屋の中でピストルを構え、ドアの正面を狙っていました。
 やがて足音は一時ドアの外でピタッと止まりました。
 ドアの隙間から外を窺うと、足音をしのばせて次第に近寄ってきます。頃を見計らって、間髪を入れずドアをパッと中に開きますと、相手は予期していなかったと見えて、ツッと前のめりに一人が部屋の中に入って来ました。そこでいきな りビールビンで頭を殴りつけました。ビンは割れ、握っている部分の割れロがギザギザになり、まるで鮫の歯のようになっていました。すかさずそれを相手の顔めがけて突き出すと、顔の真ん中に当たり、それをさらに一ひねりしたからたま りません。鮮血がほとばしると同時にのけぞりました。逃してはならないと部屋の中深く引きずり込みました。この間の出来事はほんの一瞬のことでした。
 まだ三人います。一人の大きな中国人がいきなり蹴り上げて来ました。それを左横に体を開き、蹴り上げて来た男の足を、後ろ向きになりざま右手で叩きまし た。それもごく自然に、さほど力は入れなかったのですが、男はヘタヘタと坐り 込んでしまいました。後でわかったことですが、その足の膝関節と骨が折れていました。
 私は簡単に二人を打ちとってやっと気が落ちつき、心にゆとりができたとき、 もう一人が私の前面目がけてく突いてきました。それを内側によけ、四方投げの変形で手を逆にして、相手の肘を肩に当てて、グッと極め、投げ飛ばしました。 男の腕は意外なほどもろく肘が折れて前方に飛んでいきました。これで三人を片づけたのですが、この間の時間は何分とってはいなかったと思います。
 のびている三人をベルトと紐で縛って、悠々とした気分で一服しながら見ると、最後の一人を相手に浦岡は闘争中でした。
 浦岡は柔道四段で格闘技はなかなか強く、とくに彼のけんかぶりは大したもの でした。たしかに、残りの一人をきれいな跳ね腰や内股などで投げるのですが、 最後のきめ手がないため、投げられても投げられてもまた起き上がってかかって くるといった具合で、なかなか結着がつかず、力戦をつづけている最中でした。
 私は合気道の当て身というのはどの程度きくのか試してやろうと思い、
「僕に一度やらせろ」と言って、浦岡に投げられて男が起き上がってくるところを、肋骨に当て身を一発喰わせました。男はウウウウとうめきながらのけぞり、 泡を吹いて倒れてしまいました。

 以上はたまたま私自身が、求めずして生きるか死ぬかの実戦の場に立たされる機会に遭遇したから、やむを得ず戦い、日頃の修練の結果を見ることができたのです。自らの力を試すために人にけんかを売ったり、そうした機会を自ら求めて 作ったりすることは絶対に避けるのがむしろ合気道の修行者の道です。
 そんなことをしなくても、合気道の理合いにかなった稽古をひたすら素直な心でつづけていれば、その人の実力は高まり、その姿、形、動きの中にバランスの美がにじみ出て来ます。私どもは一見ればすぐ分かります。  (塩田剛三「合気道人生」)


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塩田剛三と合気道

2021年06月20日 | Weblog

 真夏の太陽が照りつける暑い日だった。明治神宮の森近くの白亜の道場、合気道養神館に塩田剛三先生を訪ねる。
 「当身七分に投げ三分」が合気道だという。塩田先生の多人数掛けは見る者を魅了する。掛かってくる相手の呼吸に合わせて、起こるところを飛び込み、入身!。決して後ろに下がったりはしない。常に動いている、止まらない。気迫で前に出る、一瞬の勝負である。当身は拳の威力で相手を倒すのではない。当身で相手を崩して重心を奪い、自然のちからで相手を前に転がし、頭から後ろに倒す。当身で相手を崩してから投げるのではない、当身で相手を投げるのである。
 そして今、合気道養神館に塩田家の姿はない。
 

 塩田剛三と合気道

 合気道は試合形式をとらず、常に互いに仕手となり、受け手となり、技の反復練習を行います。そのために、よく若い人の中には、試合がないから、自分が強くなったのかどうかよく分からないので物足りないという人がいます。ことにこの頃のようにスポーツが盛んで、試合により勝負を決める場面に常に接していと、なおそう思うのでしょう。
 スポーツは一定のルールを決めてあるから、その範囲で試合もでき、勝ち負けを判定することもできるわけです。しかし合気道はスポーツではなく武道です。 当然相手を倒すか、自分がやられるかです。
 その時あれはルール違反だからけしからんなどと言ってはおられません。
 その場に即応した方法でとにかく相手を制しなければなりません。私も若頃、稽古や演武では自分の力はある程度分かっていましたが、ただ己を信じ、己の稽古の中から自然に力を養うことに努めていたので、実戦の場合果たしてうまくいくのだろうかと、疑問を抱いたことがありました。
 しかしある時、自分が修得した合気道がこんなに威力があったのかとわれながら驚き、合気道を習っておいてほんとによかったとつくづく思い、自信が湧いてきたときの実例をご紹介しましょう。

 それは昭和十六年(一九四一年)七月、日本が米国に対して宣戦布告する約五ヶ月前で、当時私は二十六歳でした。父と親しく、私も可愛がられた陸軍大将・畑俊六閣下が支那派遣軍総司命官で、私をその秘書官として北京に呼んで下さった時のことです。閣下の命令で飛行機でハノイへ行く途中、上海で一休止のため飛行場に下り、ぶらぶらしていたところ、拓大時代の浦岡という後輩にばったり会い、肩を抱き合って再会を喜びました。この辺の経緯は第二部に述べておりますから詳細は省略しますが、これからが本題です。
 浦岡が「フランス租界の粋なところへ今夜ご案内します」というわけで、私も胸をふくらませて夜八時頃ある店の中までついて行きました。部屋に通されてから、浦岡が客引きのような男と值段の交渉をしているうちにけんかとなってしまい、いきなりその男の顔にパンチを食わしました。男は唇から血をたらし、何かわめきながら逃げて行きました。私は意味が分からず、ポカンとしていますと、
浦岡は真剣な顔で、
「先輩、もはや命は二、三分しかありません。必ず仲間を呼んで仕返しに来ますから、早く用意して下さい」と叫びました。
「逃げたらどうだ」 と私が言いますと、
「とんでもない。途中で殺されますよ。明日の朝までは動けません」と死を覚悟しているような硬い表情で言うのです。
 私も二十六歳で、上海のこんなところで生命を捨てるのかと、はかない気持になった反面、こんなところで犬死してたまるかと、生きるファイトが湧き上るのを覚えました。
 正に絶体絶命の立場です。浦岡は職務上ピストルを持っていましたが、私には身を守る武器はなにもありません。周囲を見回すとビールビンがあったので、よし、ドアが開いたらこのビンで一撃のもとに殴り倒してやろうと心にきめ、構えていました。息をころした緊迫の時がつづきます。
 実際はどれくらい時が経ったのか分かりませんが、馬鹿に長く感じ、しびれを切らして浦岡に
「来ないじゃないか」 と言いますと、
「いや必ず来ます」と彼は断言します。  (塩田剛三「合気道人生」)


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続 写楽

2021年06月17日 | Weblog

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写楽

2021年06月17日 | Weblog

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中倉清と合気道

2021年06月13日 | Weblog

 「夢想神伝流 範士八段 中倉清先生」、場内アナウンスの声が旧武徳殿に響き渡る。静かな場内が一瞬騒めき「一人演武じゃないのか」の呟きが漏れる。剣道界の第一人者である中倉先生が剣道京都大会(全日本剣道連盟)で初めて居合を披露されるのである。観客の多くが一人演武は当然と思っていたに違いない。
 昭和62年5月、剣道京都大会居合道の部。ところは京都岡崎の京都市武道センター「旧武徳殿」。演武場に一礼し平然と西側前列の所定の位置に進む中倉先生、ピーンと張りつめた空気が場内に満ちている。役員席の後ろに陣取り、中倉先生を真正面にとらえてカメラを構える。演武が始まり、絶妙の間合いと鋭い打ち下ろしの剣が他の演武者を圧倒する。これが剣聖と謳われた中山博道直伝の居合なのか。
 その時、カメラは回っていた。

 中倉清と合気道

 皇武館では柔術の稽古をされていたのですか。

 剣道と合気道をやっていました。植芝(盛平)さんはとても人間離れした人でしょ。ああいう技は私にはとてもできない、跡は継げないと思いました。大変な責任がある、できないのに植芝さんの跡継ぎとしてれんれんとしていられないと思い、中山(博道)先生の所に行って、「私はとてもあの技は継げない。私は植芝さんと離縁したい」と相談したわけです。そうしたら、「わかった。そのうち植芝さんの所に行って話をするから、待て」ということだった。私が植芝家を出る直前のことでした。私が出たのは昭和十二年です。

 先生の剣道に合気道が役立っているところがありますか。

 直接技にこういうところが役立ったというようなことは意識しないけれども、植芝先生の足捌きは非常に役立ったと思います。それから、立ち合った時の腹構えというか動揺しないところは、合気道のおかげだと思います。どんなに強力な人にかかっても、おれは負けないぞというひとつの力を持ったということは、合気道のおかげです。

 植芝先生の映画を見ると、八十歳を越えられても、ぜんぜん衰えていらっしゃらないのですね。

 あれを見て感心したのですが、あれだけ長い時間、若い人をかからせて投げていくでしょ。一時間やっても、一度も体勢が崩れたということがない。剣道でもあれができるかというと、ちょっと疑問です。

 内弟子にどういう方がいらっしゃいましたか。

 常時五、六人いました。赤沢善三郎、米川成美、白田林二郎、湯川勉、橋本正博、船橋薫とか。この連中は勤めていなかったから、植芝さんが全部まかなっていたのです。湯川さんは満州に行く前に大阪で兵隊に刺されて死んだのです。彼は植芝先生に可愛がられていました。和歌山の中学を出ると同時に植芝家に来ていた。

 湯川さんの中学時代の柔道の先生で、星愛記という人がいたのですが、やはり合気道をやるために教師をやめて東京へ出て来ました。柔道六段だったのですが、結局講道館六段を講道館に返しにいっています。彼は一年志願の将校だったのですが、どういうわけか戦後戦犯に問われて絞首刑になりました。

 彼とはこういう話があるのです。ある日皇武館道場で、彼が私に、「先生がいくら剣道が強くても、私は真剣白刃取りの術を知っているから大丈夫だ」というのです。それならやってみようということで、私は刀を持って、彼は素手で構えたのです。彼は、私が打ってくれば、ぱっと体を躱してその刀を押さえるか、あるいは上から押さえるつもりだったのでしょう。しかし、私は打っていかないで、刀の刃を上に向けずーっと進み、彼の体すれすれまで刀をつけた。彼はじりじりと後ろへ下がって窓際にへばりつき、
「参った。助けてくれ」

 船橋さんは非常におとなしく真面目な人でした。植芝先生のたいへんなお気に入りでした。村重さんはなかなかの豪傑で、植芝さんと一緒に蒙古へ行った人ではないかと思います。あまり大きい人ではなく、ちょび髭を生やしていました。居合を少しやっていましたね。 (中倉清先生口述「剣道とは人間形成への道」を理念により )

※中倉 清
明治43年(1910)~平成12年(2000)、鹿児島県出身。少年の頃より剣道を始める。
17歳の時、剣道で身をたてるため大道館に入門。昭和5年(1930)に上京し、中山博道の有信館に入門。植芝盛平の娘松子との婚姻で植芝の養子となり、将来の後継者と目されたが5年後婚姻を解消し、植芝道場を去り剣道界へ戻った。
剣道および居合道において、70歳代まで長くそのキャリアを誇る。剣道範士九段、居合道範士九段、日本剣道界の第一人者である。逝去まで一橋大学において剣道指導を行なった。 


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