武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

河上彦斎の佩刀

2018年07月29日 | Weblog
                                               肥後の河上彦斎

 幕末の京都で『人斬り彦斎』と呼ばれた肥後の河上彦斎。身長は五尺ほど(約150cm)の小男だったという。佐久間象山を斬った刀は無銘の古刀である。

 象山先生遭難之碑 (京都市中京区木屋町通御池上る西側)
 嘉永以後外舶叩關 国論沸騰挙主鎖攘 当是時佐久間象山 先生以絶特之識独 排群議而唱開国竟 以此取禍実元治元 年七月十一日也後 五十餘年有志胥謀 立石以表其終焉之 地距此正東五十二 尺乃先生遭難処

 碑文 : 嘉永以後(ぺりー来航以降)、外国船がやってきて開国を迫り、国論は二分したが、鎖国攘夷の論を唱える者が主であった。この時に佐久間象山先生は高い識見により攘夷論を排し開国を唱え、ついに暗殺されるに至った。元治元年(1864)7月11日のことである。50年後、有志によって石碑を建立し、終焉の地を記念するものである。この碑の場所から東へ五十二尺(約15m)が先生の暗殺された現場である。

 河上彦斎は明治4年、斬罪の判決を受け斬首された。享年38歳。

 辞世の句

 君が為め死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらん

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡田以蔵の佩刀

2018年07月24日 | Weblog

 幕末の京都で『人斬り以蔵』と呼ばれた土佐の岡田以蔵。本間精一郎を斬った刀はニ尺三寸(約69.7㎝)の肥前忠広。刀身は姿よく中直刃の肥前肌で、朱鞘に紺糸の柄巻、鍔は薄鉄の土佐拵えである。

 文久三年の三月に家茂公がご上洛なさるについて、その頃京都は実に物騒で、いやしくも多少議論のある人はことごとくここへ集まっていたのだから、将軍もなかなか厳重に警戒しておられた。このときおれ(勝海舟)も船でもって上京したけれど、宿屋がどこもかしこも詰まっているので、しかたなしにその夜は市中を歩いていたら、ちょうど寺町通りで三人の壮士がいきなりおれの前に現れて、ものもいわず切りつけた。驚いておれは後へ避けたところが、おれの側にいた土州の岡田以蔵がにわかに長刀を引き抜いて、一人の壮士を真っ二つに斬った。「弱虫どもが、何をするか」と一喝したので、後の二人はその勢いに辟易して、どこともなく逃げていった。おれもやっとのことで虎の口を逃れたが、なにぶん岡田の早業には感心したよ。
 後日、おれは岡田に向かって、君は人を殺すことを嗜んではいけない。先日のような挙動は改めたがよかろうと忠告したら、先生、それでもあのとき私がいなかったら、先生の首は既に飛んでしまっていましょうと言ったが、これにはおれも一言もなかったよ。 (勝海舟『氷川清話』)

 岡田以蔵は慶応元年(1865)、土佐藩に捕縛され、斬首のうえ梟首となる。享年28歳。
 
 辞世の句

 君がため尽くす心は水の泡消えにし後は澄み渡る空


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中村半次郎の佩刀(2)

2018年07月17日 | Weblog
                                                 故正五位 桐野利秋
                                                   Kirino

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中村半次郎の佩刀

2018年07月16日 | Weblog
                                                中村半次郎

 幕末の京都で『人斬り半次郎』と呼ばれた薩摩の中村半次郎。この写真の半次郎は、椅子に腰掛け傍に立つ和服の子供の肩を右手で抱いている。子供は半次郎が馴染みの四条小橋の煙管店「村田屋」の忠次郎(大正六年没)である。
 半次郎の服装は、黒の羽織に黒ズボン、皮手袋に先の尖った革靴姿。腰に帯びている大刀は、刀身二尺五寸(約75.8㎝)の関和泉守兼定(之定)。拵えは、黒鞘に赤銅の鍔で茶糸の柄巻、刀身は大乱れの刃紋に大切先で身幅広く、相州伝風の姿の大業物である。

 同月三日 晴
一、小野清右エ門、田代五郎左エ門、中島建彦、片岡矢之助、僕より同行、東山辺散歩、夫より四条ヲ烏丸通迄帰り掛候処、幕逆賊信州上田藩赤松小三郎、此者洋学ヲ得候者ニて、去春より御屋敷へ御頼に相成り、今出川、烏丸通西へ入町へ旅宿致し、諸生も肥後、大垣、会津、壬生浪士内より壱人居弟子、其外ニも諸藩より入込も多し。然処、此度帰国之暇申出候ニ付、段々探索方ニ及候処、弥幕奸之由分明にて、尤当春も新将軍へ拝謁等も致し、此此も同断之由、慥ニ相分、折柄今日東洞院四条通西へ入町ニて出合候ニ付、不可捨置之者ニて、夫より小野、中島、片岡の三士は、烏丸四条南角ニまんぢう屋在り。此の処ニ為待置、田代と僕右赤松の跡ヲ追ひ附候処、四条より東洞院ヲ伏見之様下り候ニ付、追ひ候処、仏光寺通ニて屋敷者野津七次外ニ弐人在、赤松と相角致し、おひてを通り、我々は五条下る迄越し、跡へ引返し候処、魚棚上ル所ニて出合、我前に立ちふさかい、刀を抜候処、短筒に手ヲ掛候得共、左のかたより右のはらへ打通候処、直ニたおるる所ヲ、田代士後よりはろふ、壱余り歩ミたおる也。直ニ留ヲ打ツ、合て弐ツ刀、田代も合て弐ツ刀にておわる。打果置者也、夫より直ニ引返し、右の三士の居る処まで来る、五士同行ニて帰邸営也。 (桐野利秋『京在日記』)

 慶応三年(1867)九月三日 晴れ
一、小野清右衛門、田代五郎左衛門、中島健彦、片岡矢之助と一緒に東山辺りを散歩して、四条を烏丸通りまで帰ってきたところ、幕府の逆賊である信州上田藩の赤松小三郎と出会う。この者は洋学を学んだ者で、去年の春より薩摩藩屋敷に招聘され、今出川通り烏丸を西に入った所に旅宿していたが、その書生には、肥後藩や大垣藩、会津藩、新撰組などから一人ずつ弟子が居り、その他にも諸藩士の出入りも多くあった。このような状態の中、赤松から帰国したいとの暇乞いの申し出があったので、色々と探索したところ、やはり幕府に肩入れする奸佞の者であることが明らかになった。また、今年の春には新将軍の徳川慶喜にも拝謁していたので、その疑いはますます確かとなったのである。
丁度今日、四条通り東洞院を西に入ったところで、その赤松と遭遇した。赤松はそのまま放っては置けない存在であるので、それより小野、中島、片岡君の三人を四条烏丸南角に饅頭屋があったので、そこで待たせて置き、田代君と僕が赤松の後を追った。四条から東洞院通りを伏見の方向に下って追っていくと、仏光寺通りにて、同藩の野津七次ら他二名と会った。二人は赤松とそこの角で会ったと言ったので、自分達は追って通りを五条まで下って先回りし、赤松が歩いている道を後へと戻って引き返した。すると、魚棚通りを上がった所で赤松と出会った。僕は赤松の前に立ちふさがり、刀を抜いたところ、赤松は短筒(短銃)に手をかけようとしたが、左の肩から右の腹にかけて斬りつけたところ、すぐに赤松は倒れかかった。そこを田代君が背後から横に斬り払ったので、赤松は一歩ほど歩こうとしたがそのまま倒れた。僕は直に留めを刺すこと二太刀、田代君も留めを二太刀浴びせて、討ち果たしたのである。そこから僕らはすぐに引返し、三人の居る饅頭屋まで戻り、五人で藩邸に戻った。

 明治10年(1877)、中村半次郎(桐野利秋)は西南戦争で討死した。享年40歳。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都外大西 第二戦勝利

2018年07月14日 | Weblog
 第100回 全国高校野球選手権京都大会

 平成30年7月14日の試合

 京都外大西 11 ー 0 須知

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸内寂聴の俳句

2018年07月01日 | Weblog
 瀬戸内寂聴の俳句

 生ぜしも死するもひとり柚子湯かな

 湯豆腐や天変地異は鍋の外

 釈迦の腑の極彩色に時雨けり

 天地にいのちはひとつ灌仏会

 仮の世の修羅書きすすむ霜夜かな

 おもひ出せぬ夢もどかしく蕗の薹

 落飾ののち茫茫と雛飾る

 子を捨てしわれに母の日喪のごとく

 もろ乳にほたる放たれし夜も杳く

 御山のひとりに深き花の闇

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする