肥後の河上彦斎
幕末の京都で『人斬り彦斎』と呼ばれた肥後の河上彦斎。身長は五尺ほど(約150cm)の小男だったという。佐久間象山を斬った刀は無銘の古刀である。
象山先生遭難之碑 (京都市中京区木屋町通御池上る西側)
嘉永以後外舶叩關 国論沸騰挙主鎖攘 当是時佐久間象山 先生以絶特之識独 排群議而唱開国竟 以此取禍実元治元 年七月十一日也後 五十餘年有志胥謀 立石以表其終焉之 地距此正東五十二 尺乃先生遭難処
碑文 : 嘉永以後(ぺりー来航以降)、外国船がやってきて開国を迫り、国論は二分したが、鎖国攘夷の論を唱える者が主であった。この時に佐久間象山先生は高い識見により攘夷論を排し開国を唱え、ついに暗殺されるに至った。元治元年(1864)7月11日のことである。50年後、有志によって石碑を建立し、終焉の地を記念するものである。この碑の場所から東へ五十二尺(約15m)が先生の暗殺された現場である。
河上彦斎は明治4年、斬罪の判決を受け斬首された。享年38歳。
辞世の句
君が為め死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらん
幕末の京都で『人斬り彦斎』と呼ばれた肥後の河上彦斎。身長は五尺ほど(約150cm)の小男だったという。佐久間象山を斬った刀は無銘の古刀である。
象山先生遭難之碑 (京都市中京区木屋町通御池上る西側)
嘉永以後外舶叩關 国論沸騰挙主鎖攘 当是時佐久間象山 先生以絶特之識独 排群議而唱開国竟 以此取禍実元治元 年七月十一日也後 五十餘年有志胥謀 立石以表其終焉之 地距此正東五十二 尺乃先生遭難処
碑文 : 嘉永以後(ぺりー来航以降)、外国船がやってきて開国を迫り、国論は二分したが、鎖国攘夷の論を唱える者が主であった。この時に佐久間象山先生は高い識見により攘夷論を排し開国を唱え、ついに暗殺されるに至った。元治元年(1864)7月11日のことである。50年後、有志によって石碑を建立し、終焉の地を記念するものである。この碑の場所から東へ五十二尺(約15m)が先生の暗殺された現場である。
河上彦斎は明治4年、斬罪の判決を受け斬首された。享年38歳。
辞世の句
君が為め死ぬる骸に草むさば赤き心の花や咲くらん