『柔道日本一だった頃』 木村政彦
妙な質問だが、と前置いて、人からよくきかれる。
「現役時代のあなたなら、ヘーシンクとやって勝てたろうか」
と。 勝てる、と私は答える。 自信をもってそう答える。 単なる強がりではない。 私はいろいろな柔道家をみてきた。 彼らと戦ってもきた。 その系列にヘーシンクをはめこんでみる。
見切るという言葉がある。 相手の実力を、戦う前に見てはかる。 私の物差しではかってみたとき、ヘーシンクはどうか。
なるほど戦後に現れたどの柔道家より、おそらく彼は強い。 しかし戦前には、その彼を優に上まわると考えられる猛者が何人かいた。 古くは栗原民雄、野上智賀雄、牛島辰熊、私と同時代では中島正行、広瀬巌、くだっては平野時男……。
ヘーシンクを最強にしている現在のレベルそのものが、昔にくらべて落ちている。 いまの大将、副将クラスは昔の先鉾とどっこい、いや下手をするとそれよりも劣るのではないか。 それほど水準が落ちている。 いたずらに"昔はよかった"式のことを、私はいっているのではない。 昔はそれだけのことをした。 稽古量においても精神のもち方においても、柔道の打ちこみ方がいまとはまるで違っていた。
日本柔道の危機が叫ばれている。 私にいわせれば、なるべくしてそうなったのである。 いまの柔道はあまりにスポーツ化しすぎている。 たとえば一流と称される選手のからだつきをみてみよう。 ほとんどがデブデブに肥満している。 彼らに一日の稽古量をたずねてみるといい。 大抵が二時間前後と答える。 適度の運動である。 レクリエーションである。 ふとるはずなのだ。
昔はゼイ肉なんぞつくひまもないくらい、しぼりにしぼったものだ。 デブデブに肥満した一流選手のからだつき――それがいまの柔道のあり方を象徴している。 からだつきだけではない。 精神のもちようにおいても弛んでいる。
さきごろ日本選手権をとった岡野が、世界選手権試合でソ連のサンボ上りの初段に逆手をとられ、"参った"をした。 肩胛骨を痛めたという。 なんというザマであるか。 なぜ折れるまで頑張らないのか。 絶対に負けない、ましてや弱音を吐かない――それこそがチャンピオンというものである。
過日、柔道七段で評論家の長沼弘毅氏が、朝日新聞のコラムで私のことをこう書いておられた。
「(木村は)昭和十二年に優勝してから十二年間、立ってよし寝てよし、完全不敗の常勝将軍で押し通していた。 ぼくは、こんにちまで、木村君のような柔軟で変り身が早く、一瞬の隙をも見のがさず、大技小技をぶつけていく選手を見たことがない」
過褒のお言葉である。 これを見た編集部の求めに応じて、日ごろ感じていることの一端を述べてみる気になったのも、いまの柔道があまりに歯がゆいからである。 昔の柔道はどうだったのか。 少しく思い出話を許していただきたい。
小学四年のとき、ふとしたいたずらがもとで、教師から折檻を受けた。 散々に殴られ、柔道で十五、六回も投げ飛ばされた。 全身アザだらけ、フラフラになって家へ帰った。 自分も柔道をおぼえて、その教師を投げ返してやりたいと思った。 それが私が柔道を始めたきっかけである。
翌日、木村又蔵という人がやっていた道場に入門した。 海軍上りの柔道三段とかいう人だった。 この人が私をつかまえて、
「手初めにカッポイうってやろう」
という。 いきなり和つぃの上に馬乗りになって首を絞める。 たちまち私は仮死状態におちこんだ。 気がついて立ち上ると、目がまわってフラフラする。 咳が出る。 この咳が一週間ぐらい止まらない。 頸動脈を絞めるべきところを、どうやら又蔵先生、気管を絞めたらしい。 私の根性を試したにしても、実に荒っぽい入門テストだった。
私が育った熊本は柔道の盛んなところで、中でも鎮西中学の柔道がつよかった。 私はその鎮西中学にひっぱられた。 学校で稽古したあとは町道場へ通い、一日に五時間くらい稽古した。 父の仕事は河川での砂利の上げ下ろしで、それを小さいときから手伝うことで私の腰は自然つよかった。
中学四年のとき、私は四段になっていた。 この年の全国中学柔道選手権で、鎮西中学は優勝した。 決勝戦の相手は京都一商。 タックルの上手な学校だった。 サッとタックルして相手に尻もちをつかせ、あとはダニのように喰いついて固めてくる。
私は講道館の本にはない腕がらみを工夫していて、飛びこんでくる奴の手を逆にとる。 ボキッと音がして、最初の相手は病院へ。 それから向うはタックルができない。 私は三人抜いて優勝をきめた。
東京の大学から私を勧誘にきた。 早稲田、慶応、明治……ほとんど全大学からきた。 鎮西中学の先輩に、牛島辰熊という人がいた。 いまの野球少年が長島、王に憧れるように、そのころの柔道少年はみなこの人を目差していた。 全日本の選手権を二度とり、警視庁、学習院の指南をしていた。 私はこの人に師事することにした。
私は牛島家の住みこみ書生になり、拓殖大学予科へ通った。 牛島先生の家は赤坂台町にあった。 毎朝一里ぐらい走らされたが、特に月の初めの日は、目黒の不動さんまで先生を先頭に書生一同十名ぐらいで走る。 そして不動の滝に打たれながら合掌する。 この行事は、四季を問わなかった。
牛島先生から、私は背負い投げ、大内刈り、寝技をひきついだ。 そのころ警視庁に大谷晃という人がいた。 中学のころ、私の評判を聞いてやってくる講道館や武専の専門家とわたり合って、私は五分の戦いをしていた。 で、上京にも相当の自信をもっていたが、この大谷先生には子供のように投げられた。 世の中には強い人もいるものだな、とただただ驚かされた。 五尺二、三寸で二六、七貫。 肥満体にみえるが、鍛えに鍛えてゼイ肉はない。 背が低いから重心が安定している。 岩のような人だった。 この人から背負い投げ、足払い両方、左右釣りなどを習得した。
拓大予科一年のとき、全国五段選抜リーグがあった。 これに出場した私は、警視庁の猛者・大沢貫一郎に投げ飛ばされ、脳震盪をおこした。 ついで武専四年で当時は東京で敵う者がないといわれた阿部謙四郎に、思うようにふりまわされて敗れた。
翌日、私は荷物をまとめていた。 故郷へ帰ろうと思ったのである。 そこを牛島先生の知人に諫められた。 これからやらなくてどうする、というわけだ。 発奮した私は、その日から稽古量を倍にした。
六時に起床。 庭掃除をすませてから空手の稽古。 麦わらの束を相手に手刀で突いたり叩いたり、手首打ち、ひじ打ち……左右それぞれ三十分間やる。 これで指、手首、ひじを強くする。 朝食をとったあとは警視庁の稽古に参加。 これが午前十一時ぐらいまで続く。
ついで学校へいき、授業を夢うつつに聞いたあと、午後二時ごろから学校の道場で稽古をする。 これが約三時間。 つぎに町道場――満豪開拓義勇道場にいき、ここで二時間。 帰宅して夕食をとり、腹が落ちついたところで腕立て伏せ連続千回やる。
汗みどろになったところで風呂屋へいく。 途中の坂道を利して、ウサギとびで何度も登ったり下りたりする。 風呂に入る前に一日の稽古を反省してみる。 部屋に帰ってから、今度は鉄亜鈴を一時間。 そこで床に入り、午前一時ごろに起きる。
真夜中は精神統一ができる。 そこで庭の松の木に打ちこみを千回。 つまり松の木を仮想の敵として、これに技をかけるのである。 幹に巻いた麻縄をつかみ、木に向って背負い、釣りこみ腰、大外刈り、足払い……得意の技をかけてみる。 人間が相手なら、それなりの実力しかでない。 根をはった木を投げる気持の技なら、人間なんぞ軽いものになる道理だ。
幹に、裸の腰をもっていくと、すり傷がつく。 この傷をみれば、腰が下から入ったのか上から押したのかがわかる。 上から腰をもっていったのでは、技がきかない。 下から入って押し上げるようにしなくてはいけない。 傷をみながら、自分の技を固めていく。 幹にチョークで線をひき、その下を狙って腰を入れていく。 腰にチョークがつくようでは、まだいけない。
大外刈りの刈り足は、木を相手ではそのスピードがわからない。 で、後方にローソクを十本ほど並べておき、刈り足の巻き起す風がローソクの火を何本目まで消すか。 そんなテストを重ねて、刈り足にスピードをつけていく。 相当にスピードがついたと思うころ、講道館にいって試してみる。
かかるわ、かかるわ。 面白いように相手が倒れる。 それも足を真上に頭から落ちる。 受身ができない。 で、一日に脳震盪をおこすのが五、六人でる。 のちに日本選手権の決勝戦で、相手に大外刈りの予告しておき、その通り大外刈りできめたことがある。 それも真夜中にやった努力と工夫のおかげだった。
柔道家にはガニ股がつきものである。 しかし、これでは重心の移動が完全ではない。 真直ぐに足がでない。 それに気付いてから約四ヶ月、日常生活の最中にも注意をし、とうとう私は自分のガニ股を矯正した。 いまでも私は真直ぐに、いく分すり足で歩く。 妙な歩き方だが、柔道にはこれが一番いい。
大事な試合が近づくと、三ヵ月前から酒と煙草を断つ。 セックス・コントロールにも意をくばる。 禁欲がすぎると夢精をする。 これはどうにも精神を萎えさせる。 意気すこぶるあがらなくなる。 で、試合の十日前に、玉ノ井か亀戸にいって、心いくまで放出する。 次の日から新たなる精力を貯めていくわけだ。 ちなみに当時の吉原は、玉ノ井や亀戸の倍のお金がかかり、貧乏書生には無縁だった。
帰郷を思い止まってから一年、私は拓大対警視庁の試合で、大沢貫一郎を今度は逆に思うさまあしらった。 ついで講道館へ稽古にきていた阿部謙四郎をとらえ、羽目板に十数回叩きつけて溜飲を下げた。 このときの稽古は両者とも熱して、喧嘩みたいだった。 私が公式戦で負けたのはこの二人だけ。 あとは何百試合とやったが、負けを知らない。
昭和十二年に最初の日本選手権をとった。 このときに当った中島正行、これはつよかった。 生涯の相手のうち、一番手ごわかったと思う。 互いに壮絶な技の応酬となり、数段低い場外に落ちること数度。 頭はコブだらけ、体はアザだらけの凄い試合だった。 もっとも印象の深い試合である。
十五年の天覧試合での優勝は、学生生活の最後を飾るものだった。 このときに当った広瀬巌、これもつよかった。 彼は戦後に醍醐を投げている。
十七年に応召、内地勤務の防諜隊だった。 軍隊生活にはこんな思い出がある。 同僚をかばったのが古兵にみつかり、腕立て伏せをやれといわれた。 これなら得意だ。 一時間やれといわれた。 これなら得意だ。 一時間やれといわれたのを一時間半やった。 さすがに床が汗で濡れた。 生意気だと思ったのだろう。 古兵が木銃で私の尻を打った。 瞬間、尻の筋肉を固くしたので、木銃がはねかえった。
「この野郎、立て」
立ったところへムチが飛んできた。 とっさに空手の構えで防いだ。 それを見た古兵が逃げ出した。 本気で手向かうとみたのであろう。
戦後は熊本でしばらく石炭商をした。 ある日のこと、私が橋の上で立ち小便をしているところへ、六人アメリカ海兵隊員が通りかかり、私を咎めた。
「何が悪い」
と口答えする私に、彼らは殴りかかってきた。 得たりやろう、六人をことごとくノックアウトしてやった。 それが縁でアメリカ海兵隊に柔道を教えることになった。 MPが私のことを調べて教授を依頼してきたのである。
私が柔道を離れた二十五年ごろから、柔道界は石川彦、ついで醍醐敏郎―吉松義彦の時代を迎えている。 私はすでにこの三人を破っていた。 石川を投げたのは十五年の天覧試合の決勝で、開始後四十二秒の大外刈り。 醍醐と吉松はそれぞれ二十二年と二十三年、生活に追われてロクに稽古も出来ないまま試合に臨み、問題にしなかった。
こうして手前ミソを並べるのも、柔道のレベルが年々おちていく様子をいいたいからである。 私は五尺六寸で二十二貫。 決して大きくない。 最近では百九十センチで百十キロなどというのがザラにいる。
たしかに体は大きくなったが、いまの連中は関節と脊椎がよわい。 すぐに腰椎ヘルニアをおこす。 柔道にもっとも大事な握力と背筋がよわい。 見てくれはいいが、なかみがうすいのである。 加えて稽古量が足りない。 さらには精神力において欠ける。
たとえば私が教えている学生に、夜中に起きて木に打ちこみをやれとすすめる。 出来ない。 なぜか、ねむくてダメだという。 少々殴ってみても、もうひとつ気合いが入らない。 これはどういうことなのだろう。
オリンピックを前にして、ヘーシンクを倒す会とかいうのに招かれたことがる。 天理大の道場で稽古するヘーシンクを、柔道界の幹部や一流選手がとまいて見ている。
「見ているだけじゃなく、候補選手は出ていって彼とやってみたらどうか」
と私はいった。
「いや、大事な持ち駒だから、稽古でやられたとあっては希望がなくなる」
というのが幹部の答えだった。 最後まで候補選手は稽古に出なかった。
「本番に勝機をつかむための稽古じゃないか。 そんなことをいっていると、負けるぞ」
私はそういった。 結果はその通りになったのである。 このときの稽古に、八幡の古賀というのが出ていった。 内股の切れ味で鳴る選手である。 古賀は盛んに内股で攻めるが、ヘーシンクは一向に動じない。 そのうち、
「ちがう、ちがう」
といいいざま、古賀に内股の手本を教え始めた。 これが面白いようにきまる。 内股で鳴らした古賀が内股で投げられている。 次つぎに挑戦する日本選手を散々に投げとばしたヘーシンクは、鼻歌を歌いながらひきあげていく。
♪なにがなんでも勝たねばならぬ。
村田英雄の「王将」だった。 そのうしろ姿をみながら、私は口惜しいともなんともいいようのない思いにかられた。
私の考えでは、柔道はスポーツではない。 武道と心得るべきである。 小器用な技の応酬でこと足れりとするものではない。 日本刀で人を斬るには、脳天からツマ先まで斬りさげるほどの迫力がなければならない。 柔道の技も同じこと。 生死を賭けた争いと心得るべきである。 負けを考えてはならない。 そういう心構えで、日ごろの鍛練がおこなわれるべきなのだ。
いまの柔道はあまりにスポーツ化している。 さらにいえば、投げ技にかたよった講道館ルール一本やりではなく、昔の高専大会のような固め技を自由に許すルールの大会もあっていいのではないか。
いまの選手は総じて持ち技の数が少なすぎる。 内股なら内股一本やり。 これではせっかくの技も死んでしまう。 私ならヘーシンクに、いろいろ技を休みなくかけてみる。 オリンピックのヘーシンクをみながら、私はここであの技、あそこでこの技……スキをいくらでもみつけることができた。
ヘーシンクの巨体に、日本人はついにかなわないのか。 かつて私が倒した松本安市、伊藤徳治らはヘーシンクに負けない体軀の持ち主だった。 その彼らが私より小さく見えたものである。 要は気力の問題なのだ。
努力と工夫いかんで、ヘーシンクを倒すことも可能なはずである。 あの巨体の一瞬のスキを捉えて、ヘーシンクをみごとに横転させるほどに自分を鍛えてみようとする若者はいないのか。 やればやれるはずなのだ。
人間は死に臨んだとき、一生を振りかえってみるときく。 そのとき、精一杯に生きた、という確信がもてなかったら、さぞかし淋しいだろう。 私には、精一杯に柔道をやった、という思いがある。 自分のすべてを柔道に賭けてみようという若者は、当節、いなくなったのだろうか。
資料:文藝春秋 1967年11月号
妙な質問だが、と前置いて、人からよくきかれる。
「現役時代のあなたなら、ヘーシンクとやって勝てたろうか」
と。 勝てる、と私は答える。 自信をもってそう答える。 単なる強がりではない。 私はいろいろな柔道家をみてきた。 彼らと戦ってもきた。 その系列にヘーシンクをはめこんでみる。
見切るという言葉がある。 相手の実力を、戦う前に見てはかる。 私の物差しではかってみたとき、ヘーシンクはどうか。
なるほど戦後に現れたどの柔道家より、おそらく彼は強い。 しかし戦前には、その彼を優に上まわると考えられる猛者が何人かいた。 古くは栗原民雄、野上智賀雄、牛島辰熊、私と同時代では中島正行、広瀬巌、くだっては平野時男……。
ヘーシンクを最強にしている現在のレベルそのものが、昔にくらべて落ちている。 いまの大将、副将クラスは昔の先鉾とどっこい、いや下手をするとそれよりも劣るのではないか。 それほど水準が落ちている。 いたずらに"昔はよかった"式のことを、私はいっているのではない。 昔はそれだけのことをした。 稽古量においても精神のもち方においても、柔道の打ちこみ方がいまとはまるで違っていた。
日本柔道の危機が叫ばれている。 私にいわせれば、なるべくしてそうなったのである。 いまの柔道はあまりにスポーツ化しすぎている。 たとえば一流と称される選手のからだつきをみてみよう。 ほとんどがデブデブに肥満している。 彼らに一日の稽古量をたずねてみるといい。 大抵が二時間前後と答える。 適度の運動である。 レクリエーションである。 ふとるはずなのだ。
昔はゼイ肉なんぞつくひまもないくらい、しぼりにしぼったものだ。 デブデブに肥満した一流選手のからだつき――それがいまの柔道のあり方を象徴している。 からだつきだけではない。 精神のもちようにおいても弛んでいる。
さきごろ日本選手権をとった岡野が、世界選手権試合でソ連のサンボ上りの初段に逆手をとられ、"参った"をした。 肩胛骨を痛めたという。 なんというザマであるか。 なぜ折れるまで頑張らないのか。 絶対に負けない、ましてや弱音を吐かない――それこそがチャンピオンというものである。
過日、柔道七段で評論家の長沼弘毅氏が、朝日新聞のコラムで私のことをこう書いておられた。
「(木村は)昭和十二年に優勝してから十二年間、立ってよし寝てよし、完全不敗の常勝将軍で押し通していた。 ぼくは、こんにちまで、木村君のような柔軟で変り身が早く、一瞬の隙をも見のがさず、大技小技をぶつけていく選手を見たことがない」
過褒のお言葉である。 これを見た編集部の求めに応じて、日ごろ感じていることの一端を述べてみる気になったのも、いまの柔道があまりに歯がゆいからである。 昔の柔道はどうだったのか。 少しく思い出話を許していただきたい。
小学四年のとき、ふとしたいたずらがもとで、教師から折檻を受けた。 散々に殴られ、柔道で十五、六回も投げ飛ばされた。 全身アザだらけ、フラフラになって家へ帰った。 自分も柔道をおぼえて、その教師を投げ返してやりたいと思った。 それが私が柔道を始めたきっかけである。
翌日、木村又蔵という人がやっていた道場に入門した。 海軍上りの柔道三段とかいう人だった。 この人が私をつかまえて、
「手初めにカッポイうってやろう」
という。 いきなり和つぃの上に馬乗りになって首を絞める。 たちまち私は仮死状態におちこんだ。 気がついて立ち上ると、目がまわってフラフラする。 咳が出る。 この咳が一週間ぐらい止まらない。 頸動脈を絞めるべきところを、どうやら又蔵先生、気管を絞めたらしい。 私の根性を試したにしても、実に荒っぽい入門テストだった。
私が育った熊本は柔道の盛んなところで、中でも鎮西中学の柔道がつよかった。 私はその鎮西中学にひっぱられた。 学校で稽古したあとは町道場へ通い、一日に五時間くらい稽古した。 父の仕事は河川での砂利の上げ下ろしで、それを小さいときから手伝うことで私の腰は自然つよかった。
中学四年のとき、私は四段になっていた。 この年の全国中学柔道選手権で、鎮西中学は優勝した。 決勝戦の相手は京都一商。 タックルの上手な学校だった。 サッとタックルして相手に尻もちをつかせ、あとはダニのように喰いついて固めてくる。
私は講道館の本にはない腕がらみを工夫していて、飛びこんでくる奴の手を逆にとる。 ボキッと音がして、最初の相手は病院へ。 それから向うはタックルができない。 私は三人抜いて優勝をきめた。
東京の大学から私を勧誘にきた。 早稲田、慶応、明治……ほとんど全大学からきた。 鎮西中学の先輩に、牛島辰熊という人がいた。 いまの野球少年が長島、王に憧れるように、そのころの柔道少年はみなこの人を目差していた。 全日本の選手権を二度とり、警視庁、学習院の指南をしていた。 私はこの人に師事することにした。
私は牛島家の住みこみ書生になり、拓殖大学予科へ通った。 牛島先生の家は赤坂台町にあった。 毎朝一里ぐらい走らされたが、特に月の初めの日は、目黒の不動さんまで先生を先頭に書生一同十名ぐらいで走る。 そして不動の滝に打たれながら合掌する。 この行事は、四季を問わなかった。
牛島先生から、私は背負い投げ、大内刈り、寝技をひきついだ。 そのころ警視庁に大谷晃という人がいた。 中学のころ、私の評判を聞いてやってくる講道館や武専の専門家とわたり合って、私は五分の戦いをしていた。 で、上京にも相当の自信をもっていたが、この大谷先生には子供のように投げられた。 世の中には強い人もいるものだな、とただただ驚かされた。 五尺二、三寸で二六、七貫。 肥満体にみえるが、鍛えに鍛えてゼイ肉はない。 背が低いから重心が安定している。 岩のような人だった。 この人から背負い投げ、足払い両方、左右釣りなどを習得した。
拓大予科一年のとき、全国五段選抜リーグがあった。 これに出場した私は、警視庁の猛者・大沢貫一郎に投げ飛ばされ、脳震盪をおこした。 ついで武専四年で当時は東京で敵う者がないといわれた阿部謙四郎に、思うようにふりまわされて敗れた。
翌日、私は荷物をまとめていた。 故郷へ帰ろうと思ったのである。 そこを牛島先生の知人に諫められた。 これからやらなくてどうする、というわけだ。 発奮した私は、その日から稽古量を倍にした。
六時に起床。 庭掃除をすませてから空手の稽古。 麦わらの束を相手に手刀で突いたり叩いたり、手首打ち、ひじ打ち……左右それぞれ三十分間やる。 これで指、手首、ひじを強くする。 朝食をとったあとは警視庁の稽古に参加。 これが午前十一時ぐらいまで続く。
ついで学校へいき、授業を夢うつつに聞いたあと、午後二時ごろから学校の道場で稽古をする。 これが約三時間。 つぎに町道場――満豪開拓義勇道場にいき、ここで二時間。 帰宅して夕食をとり、腹が落ちついたところで腕立て伏せ連続千回やる。
汗みどろになったところで風呂屋へいく。 途中の坂道を利して、ウサギとびで何度も登ったり下りたりする。 風呂に入る前に一日の稽古を反省してみる。 部屋に帰ってから、今度は鉄亜鈴を一時間。 そこで床に入り、午前一時ごろに起きる。
真夜中は精神統一ができる。 そこで庭の松の木に打ちこみを千回。 つまり松の木を仮想の敵として、これに技をかけるのである。 幹に巻いた麻縄をつかみ、木に向って背負い、釣りこみ腰、大外刈り、足払い……得意の技をかけてみる。 人間が相手なら、それなりの実力しかでない。 根をはった木を投げる気持の技なら、人間なんぞ軽いものになる道理だ。
幹に、裸の腰をもっていくと、すり傷がつく。 この傷をみれば、腰が下から入ったのか上から押したのかがわかる。 上から腰をもっていったのでは、技がきかない。 下から入って押し上げるようにしなくてはいけない。 傷をみながら、自分の技を固めていく。 幹にチョークで線をひき、その下を狙って腰を入れていく。 腰にチョークがつくようでは、まだいけない。
大外刈りの刈り足は、木を相手ではそのスピードがわからない。 で、後方にローソクを十本ほど並べておき、刈り足の巻き起す風がローソクの火を何本目まで消すか。 そんなテストを重ねて、刈り足にスピードをつけていく。 相当にスピードがついたと思うころ、講道館にいって試してみる。
かかるわ、かかるわ。 面白いように相手が倒れる。 それも足を真上に頭から落ちる。 受身ができない。 で、一日に脳震盪をおこすのが五、六人でる。 のちに日本選手権の決勝戦で、相手に大外刈りの予告しておき、その通り大外刈りできめたことがある。 それも真夜中にやった努力と工夫のおかげだった。
柔道家にはガニ股がつきものである。 しかし、これでは重心の移動が完全ではない。 真直ぐに足がでない。 それに気付いてから約四ヶ月、日常生活の最中にも注意をし、とうとう私は自分のガニ股を矯正した。 いまでも私は真直ぐに、いく分すり足で歩く。 妙な歩き方だが、柔道にはこれが一番いい。
大事な試合が近づくと、三ヵ月前から酒と煙草を断つ。 セックス・コントロールにも意をくばる。 禁欲がすぎると夢精をする。 これはどうにも精神を萎えさせる。 意気すこぶるあがらなくなる。 で、試合の十日前に、玉ノ井か亀戸にいって、心いくまで放出する。 次の日から新たなる精力を貯めていくわけだ。 ちなみに当時の吉原は、玉ノ井や亀戸の倍のお金がかかり、貧乏書生には無縁だった。
帰郷を思い止まってから一年、私は拓大対警視庁の試合で、大沢貫一郎を今度は逆に思うさまあしらった。 ついで講道館へ稽古にきていた阿部謙四郎をとらえ、羽目板に十数回叩きつけて溜飲を下げた。 このときの稽古は両者とも熱して、喧嘩みたいだった。 私が公式戦で負けたのはこの二人だけ。 あとは何百試合とやったが、負けを知らない。
昭和十二年に最初の日本選手権をとった。 このときに当った中島正行、これはつよかった。 生涯の相手のうち、一番手ごわかったと思う。 互いに壮絶な技の応酬となり、数段低い場外に落ちること数度。 頭はコブだらけ、体はアザだらけの凄い試合だった。 もっとも印象の深い試合である。
十五年の天覧試合での優勝は、学生生活の最後を飾るものだった。 このときに当った広瀬巌、これもつよかった。 彼は戦後に醍醐を投げている。
十七年に応召、内地勤務の防諜隊だった。 軍隊生活にはこんな思い出がある。 同僚をかばったのが古兵にみつかり、腕立て伏せをやれといわれた。 これなら得意だ。 一時間やれといわれた。 これなら得意だ。 一時間やれといわれたのを一時間半やった。 さすがに床が汗で濡れた。 生意気だと思ったのだろう。 古兵が木銃で私の尻を打った。 瞬間、尻の筋肉を固くしたので、木銃がはねかえった。
「この野郎、立て」
立ったところへムチが飛んできた。 とっさに空手の構えで防いだ。 それを見た古兵が逃げ出した。 本気で手向かうとみたのであろう。
戦後は熊本でしばらく石炭商をした。 ある日のこと、私が橋の上で立ち小便をしているところへ、六人アメリカ海兵隊員が通りかかり、私を咎めた。
「何が悪い」
と口答えする私に、彼らは殴りかかってきた。 得たりやろう、六人をことごとくノックアウトしてやった。 それが縁でアメリカ海兵隊に柔道を教えることになった。 MPが私のことを調べて教授を依頼してきたのである。
私が柔道を離れた二十五年ごろから、柔道界は石川彦、ついで醍醐敏郎―吉松義彦の時代を迎えている。 私はすでにこの三人を破っていた。 石川を投げたのは十五年の天覧試合の決勝で、開始後四十二秒の大外刈り。 醍醐と吉松はそれぞれ二十二年と二十三年、生活に追われてロクに稽古も出来ないまま試合に臨み、問題にしなかった。
こうして手前ミソを並べるのも、柔道のレベルが年々おちていく様子をいいたいからである。 私は五尺六寸で二十二貫。 決して大きくない。 最近では百九十センチで百十キロなどというのがザラにいる。
たしかに体は大きくなったが、いまの連中は関節と脊椎がよわい。 すぐに腰椎ヘルニアをおこす。 柔道にもっとも大事な握力と背筋がよわい。 見てくれはいいが、なかみがうすいのである。 加えて稽古量が足りない。 さらには精神力において欠ける。
たとえば私が教えている学生に、夜中に起きて木に打ちこみをやれとすすめる。 出来ない。 なぜか、ねむくてダメだという。 少々殴ってみても、もうひとつ気合いが入らない。 これはどういうことなのだろう。
オリンピックを前にして、ヘーシンクを倒す会とかいうのに招かれたことがる。 天理大の道場で稽古するヘーシンクを、柔道界の幹部や一流選手がとまいて見ている。
「見ているだけじゃなく、候補選手は出ていって彼とやってみたらどうか」
と私はいった。
「いや、大事な持ち駒だから、稽古でやられたとあっては希望がなくなる」
というのが幹部の答えだった。 最後まで候補選手は稽古に出なかった。
「本番に勝機をつかむための稽古じゃないか。 そんなことをいっていると、負けるぞ」
私はそういった。 結果はその通りになったのである。 このときの稽古に、八幡の古賀というのが出ていった。 内股の切れ味で鳴る選手である。 古賀は盛んに内股で攻めるが、ヘーシンクは一向に動じない。 そのうち、
「ちがう、ちがう」
といいいざま、古賀に内股の手本を教え始めた。 これが面白いようにきまる。 内股で鳴らした古賀が内股で投げられている。 次つぎに挑戦する日本選手を散々に投げとばしたヘーシンクは、鼻歌を歌いながらひきあげていく。
♪なにがなんでも勝たねばならぬ。
村田英雄の「王将」だった。 そのうしろ姿をみながら、私は口惜しいともなんともいいようのない思いにかられた。
私の考えでは、柔道はスポーツではない。 武道と心得るべきである。 小器用な技の応酬でこと足れりとするものではない。 日本刀で人を斬るには、脳天からツマ先まで斬りさげるほどの迫力がなければならない。 柔道の技も同じこと。 生死を賭けた争いと心得るべきである。 負けを考えてはならない。 そういう心構えで、日ごろの鍛練がおこなわれるべきなのだ。
いまの柔道はあまりにスポーツ化している。 さらにいえば、投げ技にかたよった講道館ルール一本やりではなく、昔の高専大会のような固め技を自由に許すルールの大会もあっていいのではないか。
いまの選手は総じて持ち技の数が少なすぎる。 内股なら内股一本やり。 これではせっかくの技も死んでしまう。 私ならヘーシンクに、いろいろ技を休みなくかけてみる。 オリンピックのヘーシンクをみながら、私はここであの技、あそこでこの技……スキをいくらでもみつけることができた。
ヘーシンクの巨体に、日本人はついにかなわないのか。 かつて私が倒した松本安市、伊藤徳治らはヘーシンクに負けない体軀の持ち主だった。 その彼らが私より小さく見えたものである。 要は気力の問題なのだ。
努力と工夫いかんで、ヘーシンクを倒すことも可能なはずである。 あの巨体の一瞬のスキを捉えて、ヘーシンクをみごとに横転させるほどに自分を鍛えてみようとする若者はいないのか。 やればやれるはずなのだ。
人間は死に臨んだとき、一生を振りかえってみるときく。 そのとき、精一杯に生きた、という確信がもてなかったら、さぞかし淋しいだろう。 私には、精一杯に柔道をやった、という思いがある。 自分のすべてを柔道に賭けてみようという若者は、当節、いなくなったのだろうか。
資料:文藝春秋 1967年11月号