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武産通信

東山三十六峰 月を賞で 雪を楽しみ 花に酔う

合気道技法(37)

2010年07月27日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

三十七、 立業 袖

受  左手で相手の右袖を持ち右手で打ち出す

仕  左足左方へ出で右手で受け指頭に力を入れ首の前からのばし
    掌外へ向けて巻き込み左手で後衿掴んで引く右足更に相手の後へ踏み込む
    打って来るのを右手で受けて右足踏み込めない時は
    左手で相手の左袖掴んで右足後へ引く

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合気道技法(36)

2010年07月20日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

三十六、 立業 袖

受  左手で相手の右袖を持ち右手で打ち出す

仕  右手で受けそのまま巻き込んで左で相手の左袖引き
    右足引いて膝つき引き落す

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言 霊 (ことたま)

2010年07月15日 | Weblog
 「気」は「氣」の略字である。「氣」は米を炊くときに蓋の間からもれてくる湯気を意味するが、これが「气」となった。「氣」の以前には、火を神聖なものとして「气」に「火」の字が用いられていたが、米を大切にする時代に変るにしたがって「气」に「米」の字が一般に広まったと考えられる。

 気持ち、気力、気抜け、天気・・・・・など、日本語には気に関する言葉が実に多い。「恥」や「甘え」と並んで、気は日本人の生き方と密接不可分の重要概念である。「いき」「け」「き」といった日本的起源をもつものと、中国に起源をもつものとがからみ合って、しだいに「気」を意識するようになったと考えてよいと思う。

 天保時代にまとめられた清原道旧(きよはら どうきゅう)の『言霊音義解(ことだまおんぎかい)』によると、中国から文字が導入される以前から、日本には独自の言葉があり、それは「単音一意」であり、ひとつの声にひとつの心があるとする。

 「あ」行の五音は感動の義として、驚きの叫び、笑い声などがこの行に含まれている。
 「あ」は、古事記の阿那邇夜志(あなにやし)、阿那尊、穴賢(あなかしこ)、「あやにかしこし」などの「あ」で、天(あめ)の「あ」、主(あるじ)の「あ」もこれだとする。

 「い」は発言で、日本書紀にみえる伊縁立之(いよりたたし)の「伊」、万葉集の奈良能山乃山際伊隠万代(いかくるるまで)の「伊」のように発する意があり、鈴川を「いすずがわ」と読むのもこれである。「い」は射る、鋳るでもあり、弓を射るは弓発(ゆみいる)とも書かれ、金盥(かなだらい)を鋳るとは鎋(いがた)に金湯を放つ意味である。

 「う」は、次の「え」とともに得の意味がある喜悦あらわす。売るは利を得るであり、受く、浮く、移る、写すもみな得るという意味がある。

 「え」は、愛袁登袁古(えおとこを)のように喜悦をあらわし、日本書紀では「可愛」の二文字で「え」と読ませている。吉(よき)はエキで、吉野はかつて延斯野(えしの)といった。吉も喜悦を意味する。

 「お」は、上をむいて「おお」と叫ぶ感じで、秀越を意味する。古事記や万葉集では、於夜(おや)ー親、於暮(おも)ー母、於地(おじ)ー祖父、於波(おば)ー祖母、あるいは於保太加良(おほだから)ー人民などと書かれており、王も大もみな秀越を表わしているとする。 (赤塚行雄「気の構造」講談社現代新書)

写真:古事記原本

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合気道技法(35)

2010年07月13日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

三十五、 立業 袖

受  左手で相手の右袖を持ち引く

仕  引かれるまま両手刀で肘を押し上げながら進み
    左手で相手の左手掴み右足相手の前へ進んで右手で肘へ切り下す

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合気道技法(34)

2010年07月06日 | Weblog
 植芝盛平翁 伝書

三十四、 立業 肩

受  左手で相手の右肩を持ち右手で横面打ち出す

仕  右で面を打ち左で相手の右手掴み左足引いて後へ廻る

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合気神社と合気道

2010年07月04日 | Weblog
★斉藤守弘 茨城道場長に聞く 『岩間の開祖の技をまもって』

昭和21年に植芝盛平翁に入門、それから23年間盛平翁に仕え、翁の合気道完成に多大な貢献を果たした斉藤守弘茨城道場長。
開祖の技を忠実に引き継ぎ、その技を消滅させないために茨城県岩間の道場を中心に、また海外諸国でも、後進の指導に余念のない斉藤師範にお話をうかがった。


◆ わしについてくればいいんじゃ

斉藤 入門した頃(昭和21年、斉藤師範18歳)はこの辺りは神秘的というか、ほとんど家がなくてね、雑木林で したね。大阪から来ていた田中万川先生の弟さんがお伴をしていて途中で迷子になっちゃうくらいだった。途中に桐畑があったりくぬぎ林があったり、人っ子一人いなかった。

――そんな場所に武道のすごい先生がいるという噂がたったのですね。

斉藤 そう。その頃は合気なんて名前も知らなかった。その頃習っていた柔道の先生に聞いたら植芝流柔道だと言ってました。

――当時盛平先生は62歳ですからまだバリバリですね。その頃の開祖のビデオを見るとすごい動きですよね。

斉藤 開祖がもっとも体力に自信があったのが60代っていうからね。
 農作業だってね、稲束を天秤で担ぎ上げるんだけど、内弟子で大山という力の強い人(のちに力道山の弟子になった)がいましたが、大先生ほど担げなかった。

――その頃は戦前の先生方が出入りされていたのですか。

斉藤 そうですね。望月稔さん、阿部正さん、石原産業の石原さんとか、何人もいなかった。稽古生はぜんぜん募集してませんでしたね。ただ大本教の信者の人たちがいくらか来ていた。大本の関係で開祖は岩間に縁を結んだのですからね。 
 その頃の大本の噂は信者以外の地元の人たちにはあまり良いものではなく、そういうのを聞いて育ってきたから私は大本にはぜんぜんはいる気はなかった。道場にはいってまもなく大先生に「私も大本にはいらなきゃいけないでしょうか」と聞いたら、「その必要はない、わしについてくればいいんじゃ」とおっしゃって。ほっとしたよ、感動したよ。
 はじめは大先生の弟子は大本の人が大部分だったけど、だんだん宗教に関係なく大先生は立派な人だという噂がひろまって、町の有志の人たちも訪ねてくるようになりました。

――最初は先輩方に稽古をつけていただいたのですね。

斉藤 まず阿部さん。阿部さんは私がはいったときは内弟子で住んでいました。それから藤平光一さんが戦争から帰ってくる、吉祥丸先生が早稲田を卒業して帰ってくる。そういう人たちと一緒に稽古しました。戦時中は若松町道場に内弟子が住んでいましたが、終戦後は東京の道場が復活するまでは内弟子は岩間に住んでいたのですよ。

――当時、盛平先生は、お弟子さんの稽古ももちろんですが、ご自身の稽古もされていたわけですよね、斉藤先生を受けにして。

斉藤 夜の稽古生はけっこういたけど、昼間は朝からお仕えする人は私しかいないわけです。だから朝稽古をしてくれるのです。国鉄から徹夜勤務して帰ってくると、「おお、来たか」と言ってね。時間は決まってませんでした。稽古のあと一日野良仕事を手伝いました。
 なんせ終戦直後は米を作らなくちゃ食えなかった。先生には田んぼと畑があったから配給米はもらえなかったのですね。稽古ばっかりやってるんだもの、米がなるわけない(笑)。だから私は隣村に行って友達13人集めて合気道を農家の納屋で教えましたよ。それで神様にあげろと言って13人から米2升ずつもらって先生に差し上げたりしました。


◆ あとからあとから技が湧いてきて…武産合気

斉藤 当時、先生は今までの合気道は駄目だと言って、新しい、開祖の理想とした合気道の集大成にむかって稽古されていたのです。その頃の大先生の頭はコンピューターみたいに動いていたんだな、夜の稽古だって両手取りで始まったら毎日毎日両手取りなんです。座りで始まったら膝がむけようと、血が出ようと座り技ばかりやらせる。ひととおりばあーっとやるんだよね。

――それは弟子に覚えこまそうと……。

斉藤 開祖自身のおさらいだと思うよ。だから私は恵まれたんですよ。そのくらい習ってるからね。  
 イタリヤで岩間の技をプロに3日間ビデオに撮ってもらったら420以上の技が出てきました、これも開祖から本棚にきちっと本を整理するみたいに教えられたからね。夜中でも必要な本がすぐ取り出せるように整理されてあった。だから一つの技にも関連した技がぱっと出てくるわけです。

――盛平先生の整理の仕方なんですけど、攻撃の仕方で整理されていたのですか。

斉藤 技の種類だろうね。だって同じ手を掴まえるんだって、内、外、上、下がある、前、後ろがある、そういうふうに技が変化している。だから開祖は一教、二教、三教ばかりでなく、形から無限の技を出してるわけですよ。
 藤平さんや吉祥丸先生がいる頃、朝稽古のときだけど、だいたい合気道の稽古というのはどっちも右左やったら右左受身を取るんですよ、先輩であっても。だから先輩の受身を右左受けて、こんど俺の番だなと思うと、“はいっ、つぎ”(笑) また右左受身を取って今度俺の番だなと思うと“つぎ”(笑)。
 大先生は待ってられないの。あとからあとから技が湧いてきてね。そして武産合気って言うようになったのです。無限の技を産み出すものだということでね。

――先生が技を見せてみんながやるのですね。

斉藤 そう。ひっぱりだして見せてくれる。それを真似して弟子がやる。先輩がまず右左投げる、それから後輩。でもさっき言ったように後輩のときはもう次の技になっちゃう。だから後輩同士で帰り道、月夜の晩に(道場でできないから)、畑の道で長いときは2時間くらいああだった、こうだったと復習したものです。

――武産という言葉は盛平先生が言われたのですか。

斉藤 そう、“たけむすあいき”とこの頃から言われてました。でも技の具体的な名前がほとんどない。手をこうまわすでしょ、さわる場所で技が発生するっていうんだからね。


◆ おまえらの稽古は足音でわかる

斉藤 昔はね、道場で大先生が来る前に稽古をしたら怒られました。そんなことをすると大先生は稽古をしないで帰っちゃった。師匠が来ない前に無断で稽古をしたっていうんでね。今みたいに道場で勝手にお願いしますなんて言ってできなかった。今はそうしないと伸びないからやらせているけどね、昔はもっと厳しいものだった。
 後ろ技で胸を掴んで呼吸投げで投げるのは、向こうへ投げるのと、開いて投げるのがある。開いて投げるのは気の流れなんだ。先生に投げられたからそれを真似てやったら怒られてね、「バカモノ、気の流れの技は3段以上だ!」と。教えてくれたんだけど勝手にやってはいけないということなんですね。
 開祖がたまにはご気分の悪いときもあって、「先生、おかげんが悪いようでしたら、私どもは両手取りの四方投げ、座り技の一教、二教をやらせていただきます」と。基本技だと先生のご機嫌がいいんですね。「ああそうか、そうしてくれるか」。先生を休ませて我々がやると、「おまえらが何をやってるかは足音でわかる」と言われるんですよ(笑)。戒めみたいなものです。
 大先生はいつも道場の廊下のつきあたりからはいってくるわけです、だから今もその廊下は弟子にはぜったいに通らせない、あれは大先生が出て来るところですからね。部屋は内弟子の部屋に使ったり着替えの部屋に使っても、あの廊下からは大先生だけです。それから玄関の靴脱ぎ石も道主だけに使ってもらっています。


◆ 懸命にお仕えして、必死で習った剣と杖

――当時の開祖の剣と杖というのは、今の武器技と同じですか。

斉藤 かなり今の武器技にちかいものだったね、夢中で相手をしていました。戦前の先輩に聞くと武器技は指導してもらってないようですが、しかし『武道』(昭和13年発刊の植芝盛平著の技術書 下の囲み記事参照)ではすでに基本的なものを発表していますよね。

――盛平先生のビデオを見ますと、剣とか杖の演武が実に多いですからね。武器技はずいぶんやっていらっしゃる。

斉藤 私はこう思うんです。当時東京の先生方は忙しくて岩間に来られないから武器技を教えてもらえなかったんだと。師匠というのは弟子のところに通って教えないよ、弟子が先生のところに通って教えてもらうのですから。武器技が“ない”のではなく、習う機会がなかったのですね。かといって岩間に来れば畑の仕事をさせられるし、習いに来るのもたいへんですよ。地元でも専業農夫の人は、毎日野良仕事を手伝ってくれと言われるのですから、家はたいへんだし、続けるのもたいへんです。そうやって、一人辞め二人辞めしていくしかなかった。
 私は国鉄という勤務があったから、職場へ行くことができましたからね。それでも、師匠に仕えて、師匠の機嫌のいいときに少しでも教えてもらおうと、待って、待ってお仕えして、そして教えてもらったのですから。朝から晩まで、懸命にお仕えして必死で習ったのです。

――そうやって開祖じきじきの個人稽古をしていただいたわけですね。

斉藤 合気道の先生になるんだったらもっと真剣にやっとくんだった(笑)。当時まだ20そこそこで将来のことなんかわからなかったからね。
――とことん大先生についていく覚悟を決めたのは、結婚されたときですか。

斉藤 結婚だって先生が決めたんだよ(笑)、この男は傍におくと重宝だと思ったんだと思うよ。私は百姓を手伝うし、国鉄に勤めていたからどこへ行くにも金はかからないし、なんでも言うことをきくし、だからどこへ行くんでもおまえついてこい、ついてこい、と言われてました。


◆ 『武道』が証明した岩間合気道

――さきほどの『武道』という盛平翁の技術書ですが、この本と先生との出合いは。

斉藤 私が8段になってから、はじめて『武道』をプラニン合気ニュース編集長に見せてもらったのです。嬉しかったですよ。プラニンさんは、「これ、斉藤先生の技と同じだ!」と震えていた(笑)。
 大先生はね、「演武は、技を盗まれるからわしは嫌いだ」と言われていましたから、技を盗まれないようにぱーっとやってるわけです。そういう大先生の映画しか普段見ていないと、「斉藤のやっている技は大先生の映画とは違う」ということになる。でも『武道』という本が、私の技が間違いでなかった、大先生の技であったことを証明してくれたんです。嬉しかったね。

――でもその後の岩間の技は、この昭和13年の『武道』の技そのものというより、その後大先生が岩間に来られてから修行されていかれた技ですね。

斉藤 そうね。でも岩間には『武道』に載っている技に関連した技がたくさんあるんです。たとえば片手取りの入身投げは、昭和13年当時は、一つしかないけど、その後岩間でそれを上中下に直したとか。そういうことは、ぜんぶ『武道』の本を見て説明がつくわけなんです。私にはどう変わってきたのかがよくわかるんです。

――斉藤先生がよく口伝ということを言われますが、これは書き残してあるのですか。

斉藤 当時は合気道の先生になるとも思ってないから筆記なんかしてなかったけど、肝心なところは結構頭にはいってますよ。


◆ ふらふらになるまで打って打って

――武器技の当時の稽古につきましてもうすこし詳しくうかがいたいのですが。

斉藤 先生と二人っきりの稽古です。二人なのでほとんど道場のなかでした。最初はね、剣ですよね。一の組太刀。あれは打ち込むだけ、毎日、ふらふらになるまで。大先生はそれを受けとって、それからこっちはわーっと押し返される。それから打っていってまた押し返されて、その繰り返しです。

――どのくらいの時間ですか。

斉藤 うーん、30分か40分、こっちがひっくりかえっちまうもの(笑)。「今日はこのくらいにしといてやる」ってね。

――それは大先生の練習でもあるわけですね。

斉藤 教えてくれるのでもあるし、ご自分の研究でもある。それから気結びの太刀、二の太刀、三の太刀、四、五、、、、、合気道の剣は半身の剣でしょ、私の剣には剣道の影響があったからね、なかなかできなくて怒られましたよ。

――気結びとか一の太刀というのは、名前は斉藤先生がつけたのですか。

斉藤 気結びは私らが勝手につけたんだけど、一の組太刀、二の組太刀は大先生です。

――素振り7本とか気結び7本とかは。

斉藤 それは組太刀からひっぱりだして作ったの。
 それから組太刀になると、あまりできないから先生は、「こういうふうに振ってみぃ」と言われて、部分的に振らされた経験があるんですよ。それを思い出して組太刀の中から7本の素振りをひっぱりだし、それをまず基本にした。
 杖もね、大先生の教え方というのは「つまりこうだ。な、よう見てればようわかる」(笑)。それを学生たちに教えるわけにはいかないから、それで考えたあげく、突きの部とか、打ち込みの部とか、片手の部とか、八相の形があるから八相返し、そして流れ返しとか名前をつけて練習方法を作った。それでだいぶみんなの理解も早くなってね、教えやすくなったのです。


◆ まず形と順序をしっかり覚える

斉藤 ところがスイスへ行ったら年配の人にいくら組太刀を教えてもだめなんだ。それで一、一、二、二と分解してやる武器技を教え始めたら、2、3日ですぐ覚えてくれた。そうすれば形と順序を覚えられるんですよ。やっぱり形と順序が決まらないと何をやっても技はだめですからね。武器技でも体術でもきちっとした形、技の順序を覚えるまでは無理しちゃいけない。速くやったり力を入れたり、重い木剣を持ったりしてはいけないのです。
順序を間違うと相手に反撃のチャンスを与えてしまう。順序をきちっとやっていけば相手に反撃を許さない形になるんですよね。それがみんなわかってない。いちばん情けないのは、素人が見るとみんな同じに見えるんですよ。だけどまるっきり違うんです。
 たとえば正面打ち一教で、ぐっと相手を崩すときの、その体勢がぜんぜんちがうんだ。この体勢(抑えている腕の角度が甘い)と、こうやって抑える(右上 開祖の写真参照)のと、同じに見えても、前者は、相手に歩いていかれちゃうんだよ。そしてくるっと背中を向けられちゃう。ところが写真のようにやれば、開祖は前下方に引き落とす。こうなると相手は歩けないし、背中も向けられないんだ。ところが素人にはこの二つが同じに見えるんだね。

――それは先生に手をとってもらって初めて気付くことですね。


◆ とにかく大先生の技を知ることが第一

斉藤 合気道の技にはそういうところが無数にあるんですよ。ところがよその人はその形がわからない。だから開祖は言ったのです、「一分一厘狂ったら技にならない」と。

――それは斉藤先生がご自身が体得されたものにつまっているわけですよね。

斉藤 だから私としてはなんとしても開祖の技を消滅させるわけにはいかないのです。ほとんどの人がそういう大先生の技を知らないでしょ、大先生の内弟子でも岩間で稽古をやった人は一人もいない。大先生の技の形を忠実にやっているのは私一人しかいないんですよ。
 たしかに立派な先生がたくさんでてきてますよ、でも大先生の技とは違うんです。いろんな先生の技を見て自分の納得できる技を見いだすのは大切ですよ。だけど合気道は大先生から始まったのですから、大先生の技を参考にしなければいけないと思うんです。だから、私の講習会などでは、大先生の技を体験しなさい、と言ってるんです。


◆ 大先生の技をありがとう

――先生は海外で多く講習会をされていますが、現在海外でお弟子さんは何人くらいいるのですか。

斉藤 道場を持っている人でも何百人でしょうね。フランスの、ある弟子に45~6人の弟子がいたんだけど、岩間スタイルにきりかえたら、弟子たちが去っていっちゃって5、6人になった。私は笑って言った、「心配ないよ、すぐ集まるから」と。2年間で600人になりましたよ。外国人はいいとなると抵抗なく集まるね。日本人は師匠に気をつかうから、むずかしいね。
 海外の講習会は、去年のカリフォルニアでも376人来ました。海外では最初、「斉藤の技は、いい講習会だった」と言っていたのが、最近は、「大先生の技をありがとう」と言ってくれるようになりました。それまでには30年の年月がかかりました。

――最後に岩間について先生の思いをひとこと。

斉藤 大先生が病気で倒れて、そのときは私はまだ本部道場に稽古に行っていたのです。「斉藤さん、悪いが大先生に会わないでくれ、岩間に帰ると言ってきかないから」と言われました。そのくらい大先生は岩間、岩間と言われていたんです。ご自分が理想とした合気道を、神を祀って朝に夕べに祈りながらここで完成させたのだから当然でしょう。
 私はその開祖の技、開祖の道場、合気神社をおまもりする立場です。開祖が岩間で拓いた技を忠実に受け継ぎ、あとの人に渡していきたいと思っています。

――ありがとうございました。     

2001年7月18日茨城道場にて  
聞き手:合気ニュース編集長 スタンレー・プラニン  (「合気ニュース 130号」2001年 より転載)

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