★京都市考古資料館文化財講座『織田信長の遺跡』
1、序
永禄11年(1568)に足利義昭を擁立して入京して以降、天正10年(1582)の本能寺の変まで、織田信長は頻繁に京都を訪れ、上京を焼き討ちするなど大きな影響を与えた。しかしながら、一貫して京都を政治的拠点とすることがなかったことから、思いのほか信長に関わる遺跡は残っていない。
2、旧二条城
旧二条城は、織田信長が15代将軍足利義昭のために、足利義輝の御所跡を拡張して造営したものである。しかし義昭追放の後は、解体移築が進み廃墟となる。解体された資材は、築城中の近江の安土城へ運ばれた。因みに、「二条城」の名称は平安条坊二条に由来するものと考えられる。烏丸通丸太町の交差点の北方、現在の平安女学院付近に位置した。当時は「公方様御構」、「公方之御城」、「武家御城」と呼ばれていたようである。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、二条城が僅か70日で完成したこと。城の面積は三街を占め、石材の不足を補うために石仏や石塔をも利用したこと。建設作業には1万5千人~2万5千人が従事したこと。吊り上げ橋のある濠をもつこと。この濠には3箇所の入口が設けられていたことなどが記されている。
1569(永禄12)年 彼(信長)は吊り上げ橋がある非常に大きく美しい濠を造りその中に種々の多数の大小の鳥を入れた。彼はそこ(濠)に三つの広大でよくしつらえた入口を設け、その見張所と砦を築いた。そして内部には第二のより狭い濠があり、その後ろにははなはだ完全に作られた非常に美しく広い中庭があった。(「フロイス日本史 五畿内篇」中央公論社)
昭和39年の地下鉄烏丸線敷設に伴う調査では、石垣を備えた濠跡が4ヶ所で見つかった。その石垣は、現在の二条城本丸御殿の西側と、京都御苑の南西角に移築されている。
また平成24年の古代文化調査会の発掘調査により、南北方向の大規模な濠が発見された。位置的に見ると旧二条城の内郭の濠と考えられる。その規模は東西約230メートル、南北約160メートルで、発掘された濠は幅約5メートル、深さ約2.4メートル、犬走は約1.5メートルある。濠は空堀ではなく、水の痕跡がみられ木組みの跡がないので、石垣ではなく土塁だったろうと思われる。このあたりは昭和13年の鴨川改修工事により水脈が変わったが、当時は自然の湧水もあったと考えられる。また濠の最上層からは土師器皿、緑釉単弁四葉蓮華文軒丸瓦が、井戸からは平安時代の土師器皿、輸入白磁碗などが出土した。
3、二条新御所
織田信長が、上洛の際の御座所とするために造営、資材は松永久秀の奈良の多聞城から運ばれた。
二条新御所は元は摂関家の二条家の邸宅で、烏丸通御池の交差点の北西側、現在の京都国際マンガミュージアム付近に位置した。その庭園は名園「龍躍池」として知られており、『洛中洛外図屏風』にも池を眺める貴族の姿が描かれている。現在の学区名「龍池学区」にその名残りをみることができる。
二条家が別の邸宅に移った後、織田信長は天正5年(1577)から京都で滞在するときの宿舎として利用したが、天正7年(1579)には正親町天皇の皇太子であった誠仁親王に献上した。「二条新御所」あるいは、御所に対して「下御所」と呼ばれていたようである。
また本能寺の変では嫡男の織田信忠が二条新御所に立て籠もって明智光秀の軍勢に抗戦するが、衆寡適せず、家臣たちと共に自刃した。この時、二条新御所も焼失した。
平成13年の発掘調査では、鎌倉時代から戦国時代にかけて整備が続けられた池の洲浜や庭石が見つかった。織田信長もこの庭園を眺めたであろう。
また平成22年の発掘調査で、蒸し風呂形式の浴室遺構が見つかった。この風呂は庭園を眺めながら入浴するためのものであったと考えられる。信長は「淋汗茶湯」を楽しんだのではあるまいか。淋汗(りんかん)とは、汗を流す程度の軽い入浴のことで、風呂上がりの客に茶を勧めるという趣向のものでである。
本能寺の変で信忠が自刃した二条新御所の様子はわからないが、江戸時代初頭には池を埋め立て、複雑な形に組み合わせた用途不明の石垣が作られた。
4、本能寺 所在地の変遷/油小路高辻⇒大宮六角⇒油小路六角(本能寺の変)⇒寺町御池(現在)
天正10年(1582)6月2日の早朝、明智光秀が本能寺に織田信長を急襲した本能寺の変。
現在の本能寺は寺町通御池交差点の南東側にあるが、これは天正19年(1591)に豊臣秀吉の命令で移転したもので、本能寺の変の時には北を六角通、東を西洞院通、南を四条坊門小路(現在の蛸薬師通)、西を油小路通に囲まれた場所、現在の堀川高校の東側に位置した。
最近まで本能寺の実態についてはほとんどわかっていなかった。しかし、平成19年に行われた3回の発掘調査により、周囲が堀で囲まれ、内部も石垣を備えた堀により区画されること、境内中央部には礎石をもつ建物があること、瓦葺きの建物があり火災で焼失したことなどが明らかになってきている。出土遺物には輪りんぽう宝を額に戴いた鬼面や龍が巻き付く意匠の鬼瓦、本能寺の寺号「能」の異体字である「(去/写真)」の文字を刻んだ軒丸瓦、掛け軸の琥珀製の軸端のほか、火災の激しさを物語る熱を受けて赤く変色した瓦や焼けた壁土などがある。
5、南蛮寺
南蛮寺とはキリスト教の教会堂のことで、京都には室町通と新町通に挟まれた四条坊門小路(現在の蛸薬師通)北側、現在の京都逓信病院付近に位置した。
イエズス会宣教師オルガンティーノが信長の信任を受けて、キリシタン武将として有名な高山右近らの協力を得て天正4年(1576)に建立したものである。『洛中洛外名所図扇面』には鐘楼を備えた3階建ての建物が描かれている。天正15年(1587)、豊臣秀吉によるバテレン追放令によって破却された。
昭和48年の同志社大学による発掘調査で、大きな礎石が見つかった。また、ズボンを穿いた人物を描いた線彫りがある石製硯が出土している。出土した礎石は同志社大学今出川キャンパス構内に移設されている。
また平成24年の関西文化財調査会の調査で、南蛮寺の敷地北端を示す可能性がある溝が見つかっている。
【参考文献】
上村憲章『平安京左京一条三坊六町・旧二条城跡』古代文化調査会
柏田有香『平安京左京四条二坊十五町・烏丸御池遺跡・二条殿御池城跡』京都市埋蔵文化財研究所
家崎孝治『本能寺跡・平安京左京四条二坊十五町』古代文化調査会
吉川義彦『本能寺発掘調査報告・平安京左京四条二坊十五町』関西文化財調査会
山本雅和『織田信長と京都』京都市埋蔵文化財研究所
1、序
永禄11年(1568)に足利義昭を擁立して入京して以降、天正10年(1582)の本能寺の変まで、織田信長は頻繁に京都を訪れ、上京を焼き討ちするなど大きな影響を与えた。しかしながら、一貫して京都を政治的拠点とすることがなかったことから、思いのほか信長に関わる遺跡は残っていない。
2、旧二条城
旧二条城は、織田信長が15代将軍足利義昭のために、足利義輝の御所跡を拡張して造営したものである。しかし義昭追放の後は、解体移築が進み廃墟となる。解体された資材は、築城中の近江の安土城へ運ばれた。因みに、「二条城」の名称は平安条坊二条に由来するものと考えられる。烏丸通丸太町の交差点の北方、現在の平安女学院付近に位置した。当時は「公方様御構」、「公方之御城」、「武家御城」と呼ばれていたようである。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、二条城が僅か70日で完成したこと。城の面積は三街を占め、石材の不足を補うために石仏や石塔をも利用したこと。建設作業には1万5千人~2万5千人が従事したこと。吊り上げ橋のある濠をもつこと。この濠には3箇所の入口が設けられていたことなどが記されている。
1569(永禄12)年 彼(信長)は吊り上げ橋がある非常に大きく美しい濠を造りその中に種々の多数の大小の鳥を入れた。彼はそこ(濠)に三つの広大でよくしつらえた入口を設け、その見張所と砦を築いた。そして内部には第二のより狭い濠があり、その後ろにははなはだ完全に作られた非常に美しく広い中庭があった。(「フロイス日本史 五畿内篇」中央公論社)
昭和39年の地下鉄烏丸線敷設に伴う調査では、石垣を備えた濠跡が4ヶ所で見つかった。その石垣は、現在の二条城本丸御殿の西側と、京都御苑の南西角に移築されている。
また平成24年の古代文化調査会の発掘調査により、南北方向の大規模な濠が発見された。位置的に見ると旧二条城の内郭の濠と考えられる。その規模は東西約230メートル、南北約160メートルで、発掘された濠は幅約5メートル、深さ約2.4メートル、犬走は約1.5メートルある。濠は空堀ではなく、水の痕跡がみられ木組みの跡がないので、石垣ではなく土塁だったろうと思われる。このあたりは昭和13年の鴨川改修工事により水脈が変わったが、当時は自然の湧水もあったと考えられる。また濠の最上層からは土師器皿、緑釉単弁四葉蓮華文軒丸瓦が、井戸からは平安時代の土師器皿、輸入白磁碗などが出土した。
3、二条新御所
織田信長が、上洛の際の御座所とするために造営、資材は松永久秀の奈良の多聞城から運ばれた。
二条新御所は元は摂関家の二条家の邸宅で、烏丸通御池の交差点の北西側、現在の京都国際マンガミュージアム付近に位置した。その庭園は名園「龍躍池」として知られており、『洛中洛外図屏風』にも池を眺める貴族の姿が描かれている。現在の学区名「龍池学区」にその名残りをみることができる。
二条家が別の邸宅に移った後、織田信長は天正5年(1577)から京都で滞在するときの宿舎として利用したが、天正7年(1579)には正親町天皇の皇太子であった誠仁親王に献上した。「二条新御所」あるいは、御所に対して「下御所」と呼ばれていたようである。
また本能寺の変では嫡男の織田信忠が二条新御所に立て籠もって明智光秀の軍勢に抗戦するが、衆寡適せず、家臣たちと共に自刃した。この時、二条新御所も焼失した。
平成13年の発掘調査では、鎌倉時代から戦国時代にかけて整備が続けられた池の洲浜や庭石が見つかった。織田信長もこの庭園を眺めたであろう。
また平成22年の発掘調査で、蒸し風呂形式の浴室遺構が見つかった。この風呂は庭園を眺めながら入浴するためのものであったと考えられる。信長は「淋汗茶湯」を楽しんだのではあるまいか。淋汗(りんかん)とは、汗を流す程度の軽い入浴のことで、風呂上がりの客に茶を勧めるという趣向のものでである。
本能寺の変で信忠が自刃した二条新御所の様子はわからないが、江戸時代初頭には池を埋め立て、複雑な形に組み合わせた用途不明の石垣が作られた。
4、本能寺 所在地の変遷/油小路高辻⇒大宮六角⇒油小路六角(本能寺の変)⇒寺町御池(現在)
天正10年(1582)6月2日の早朝、明智光秀が本能寺に織田信長を急襲した本能寺の変。
現在の本能寺は寺町通御池交差点の南東側にあるが、これは天正19年(1591)に豊臣秀吉の命令で移転したもので、本能寺の変の時には北を六角通、東を西洞院通、南を四条坊門小路(現在の蛸薬師通)、西を油小路通に囲まれた場所、現在の堀川高校の東側に位置した。
最近まで本能寺の実態についてはほとんどわかっていなかった。しかし、平成19年に行われた3回の発掘調査により、周囲が堀で囲まれ、内部も石垣を備えた堀により区画されること、境内中央部には礎石をもつ建物があること、瓦葺きの建物があり火災で焼失したことなどが明らかになってきている。出土遺物には輪りんぽう宝を額に戴いた鬼面や龍が巻き付く意匠の鬼瓦、本能寺の寺号「能」の異体字である「(去/写真)」の文字を刻んだ軒丸瓦、掛け軸の琥珀製の軸端のほか、火災の激しさを物語る熱を受けて赤く変色した瓦や焼けた壁土などがある。
5、南蛮寺
南蛮寺とはキリスト教の教会堂のことで、京都には室町通と新町通に挟まれた四条坊門小路(現在の蛸薬師通)北側、現在の京都逓信病院付近に位置した。
イエズス会宣教師オルガンティーノが信長の信任を受けて、キリシタン武将として有名な高山右近らの協力を得て天正4年(1576)に建立したものである。『洛中洛外名所図扇面』には鐘楼を備えた3階建ての建物が描かれている。天正15年(1587)、豊臣秀吉によるバテレン追放令によって破却された。
昭和48年の同志社大学による発掘調査で、大きな礎石が見つかった。また、ズボンを穿いた人物を描いた線彫りがある石製硯が出土している。出土した礎石は同志社大学今出川キャンパス構内に移設されている。
また平成24年の関西文化財調査会の調査で、南蛮寺の敷地北端を示す可能性がある溝が見つかっている。
【参考文献】
上村憲章『平安京左京一条三坊六町・旧二条城跡』古代文化調査会
柏田有香『平安京左京四条二坊十五町・烏丸御池遺跡・二条殿御池城跡』京都市埋蔵文化財研究所
家崎孝治『本能寺跡・平安京左京四条二坊十五町』古代文化調査会
吉川義彦『本能寺発掘調査報告・平安京左京四条二坊十五町』関西文化財調査会
山本雅和『織田信長と京都』京都市埋蔵文化財研究所