武産通信

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阿部謙四郎と合気道

2013年09月17日 | Weblog
★ブログ拝見『阿部謙四郎と合気道』

 本日は、気に入った本さんのブログ「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」です。柔道の鬼と謳われた木村政彦が武道専門学校助教の阿部謙四郎と対戦したこと、その阿部謙四郎が合気道を学んでいたことなどが書かれています。それでは最後までじっくりとお読みください。

 柔術から柔道へ
 まず、木村政彦が活躍した戦前は、柔道といっても現在のように講道館だけでなく、「講道館」、「武徳会」、「高専柔道」の三つの流派がしのぎを削っていました。明治十五年に加納治五郎が講道館という新興柔術流派を作りましたが、最初は町道場の一つにすぎませんでした。それが、富田常雄の小説「姿三四郎」によって、一挙に有名になり、現在の世界の講道館になっていったのです。これは、池袋の少し大きな町道場であった極真会館が梶原一騎先生の「空手バカ一代」で世界の極真カラテになったのと似ていますね。
 それらの大本は古流の柔術なのですが、講道館柔道は当て身を禁止とし、当初は寝技がなく立ち技を中心とした技の体系を作りあげました。それに対して武徳会は半官半民の全国的な組織で、立ち技と寝技を両方取り入れていました。そして、もう一つの勢力がいわゆる「高専柔道」です。高専と言っても、現在の高専ではなく、戦前の旧制高校と旧専門学校による高専大会の柔道のことです。そしてこの「高専柔道」は、寝技が中心の柔道で、木村政彦をして「柔道の最盛期は高専柔道にはじまり高専柔道の消滅とともに終わった」と言わしめたほどでした。

 阿部謙四郎と合気道
 師匠の牛島辰熊に毎日のようにしごかれていた拓大予科時代の木村政彦は、どんな大会でも無敵でした。しかし、唯一、予科二年生の時に出場した全国の若手五段から強い選手を選んで行われた「済寧館武道大会」で大きな敗北を味わいました。
 その相手は、武専助教の阿部謙四郎という選手です。

 『彼と組み合ってまず驚かされたのは、ふんわりとしか感じられない組み手の力と柔軟さだった。(中略) 文字通り掴みどころのない感触で、どんな技でも簡単に吹っ飛びそうな気さえした。これはたやすい、私は思い切って得意の大内刈り、大外刈りを放った。次いで一本背負い。しかしどうだろう。まるで真綿に技をかけたようにフワリと受けられ、全然効き目がない。(中略) これではまるで一人相撲ではないか・・・。(中略) 相手の技に対して戦々恐々、防戦一方で試合は終わった。結果はもちろん、私の判定負けである。』(増田俊也「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」)

 木村政彦を翻弄した阿部謙四郎の柔道の秘密は、なんと、柔道と並行して植芝盛平に合気道を学んでいたことだったのです。これには驚きました。しかし、阿部が合気道を学んでいた件は、木村政彦は知らなかったようです。木村はこの阿部に完膚無きまでに敗れたことで奮起し、更なる研鑽を重ね、本当の無敵の王者への道をたどることになります。つまり、無敵の木村を生んだのは合気道であったとも言えるわけです。
 そして、実は合気道の植芝盛平と木村政彦が立ち会う可能性があったそうですが、木村の親友であり、植芝の弟子であった塩田剛三の機転で、実現しなかったそうです。格闘技ファンとしては、是非とも実現して欲しかったですね。残念です。


※阿部謙四郎(あべ けんしろう)は、昭和11年、宮内省が主催する柔道の「五段選抜試合」で、柔道の鬼として知られる木村政彦に払い釣り込み足から大外刈りで勝利する。寝技の強さでも知られた。昭和9年頃、武専時代に阿部謙四郎は植芝盛平と汽車内で出会う。植芝は阿部に小指を握らせると、瞬時に阿部をその場に組み伏せたという。阿部はこれに感動し、以後、植芝について10年間合気道を学ぶ。戦後は、京都市警の柔道師範を務めた。
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