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旧武徳殿の歴史

2021年08月29日 | Weblog

 旧武徳殿の歴史

 かつて武徳殿の正門とされていた門は、いまは開かずの門となっているが会津藩京都守護職屋敷から移築されたものである。(写真)

 武徳殿は、桓武天皇が延暦13年(794)に平安宮大極殿(現在の中京区千本丸太町付近)の西北に建てられ、諸国に令して、武芸に秀でたものを者を集めてその技を競わせ、これを御覧になった。その後は、騎射、撃剣などの武技修練の場にあてられて、歴代天皇がしばしば演武を御覧になった。
 かかる古例に倣って、平安神宮が平安建都1100年を記念して明治28年(1895)に京都岡崎に建立されたのを期に、その隣接地に大日本武徳会本部、武徳殿、武道専門学校の諸施設ができた。
 しかし、第二次世界大戦の敗戦により、大日本武徳会は解散し、武道専門学校は廃校となった。諸施設は進駐軍が接収して占領軍施設として管理使用された。昭和26年の米軍接収解除後は京都市の所有となり、京都市警察学局警察学校が開設されて、武徳殿は再び演武場として陽の目をみることとなった。この時、植芝盛平先生が招かれて武徳殿で合気道の演武、講習会をされた。植芝先生のお供をされていたのが斉藤守弘先生である。
 昭和30年の警察法改正により自治体警察が京都府警察となったため、京都市芸術大学の所管となり同大学の音楽部が設置されて武徳殿は自由に使用することができなくなってしまったが、昭和28年以来、剣道京都大会に使用されるようになり僅かにその面目を保っていた。

 武徳殿は米軍占有当時より補修らしい補修もなされず、使い放しの結果、天井四隅より雨漏りがはげしく梁の一部が腐食し、壁の一部が脱落する等、見る陰もない有様となりつつあった。ここに、京都府剣道連盟(木戸高保理事長)を中心に武道四団体による熱心な武徳殿修復運動と武道団体への返還運動が盛んに行われることとなった。
 当時、武徳会本部及び武道専門学校校舎跡地は国有地であったが、武徳殿南地域は京都市有地であった。昭和55年、京都市は市有地の国立近代美術館と武徳会の国有地部分を交換することとなった。この武徳殿保存問題には、国会武道連盟、文部省、京都府、京都市の間を早川崇、谷垣専一、伊吹文明、奥田幹生の議員諸氏が調整、尽力されたと聞く。

【駒札】
 京都市指定有形文化財
 旧武徳殿
 この建物はとおく平安の都 ときの桓武天皇が武技を奨励し、宮西に武徳殿を建立し、日本民族全盛発展の礎石とされた故事にならい、平安遷都1100年記念行事の一環として明治32年 全国の有志浄財を結集し往時の平安宮の大極殿を模して建設されたものである。
 その後、大正13年には この地に大日本武道専門学校が開設されて以来、わが国の武道の中心的殿堂であった。
 しかしながら戦後の一時期に進駐軍に接収されていたが、昭和26年にようやく接収が解除され京都市の所有となり、京都市警察学校を開設するなど、幾多の変遷を経てきた。
 そして昭和58年6月、明治期の大規模木造建築で我が国武道史における貴重な建造物であるとして京都市指定有形文化財に指定された。
 なおこの建物は全国有志の浄財により、昭和60年度から全面的に修復し、その保存に努めることとなった。
 平成8年7月には国の重要文化財の指定を受けるに至り、今後も武道の殿堂としての地位を保ち続けていくものである。  京都市

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