瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

地上十センチ  7号  (2014/06)  東京

2014-06-27 18:50:01 | 「た行」で始まる詩誌
 和田まさ子の個人誌。今号のゲスト作品は杉本真維子「道祖神」。
泥団子をつくって「嘘のように喰らっている、」というのだが、そんなわたしの、

   供え物を疑う
   やせたこころを
   犬が喰う

 泥団子は道祖神への嘘の供え物なのか、喰らう真似は何かの罪なのか。幼い日のことを詩っているような、時を越えてなおうねっている不安定な感情がある。それが生じる理由や状況は不明のままに、そこに渦巻いている感情にうたれる。
 次の連はさらに不明な状況となっていく。

   シャツを破かれ
   歯形のついた腹で
   門を叩くとやさしい祖父の銃口が光った
   おまえのため、は慟哭となって
   わたしも喰うよ
   犬を喰うよ

 言葉のひとつひとつがきりりと突き刺さってくる。それほどに言葉が鋭く研ぎ済まされている。「やせたこころ」と共に肉体的にもわたしは犬に襲われ、傷ついたのだろうか。今度は、やせたこころを喰った犬を喰うと、祖父が決意してくれている。それは「おまえのため」なのだ。ここには針の上に乗っているかのような緊迫感がある。
 わたしは薄暮にふるえており、「ならばわたしが祖父を喰う」と、作品は終わっていく。この今度は「祖父を喰う」という理解が困難な決意。どこか自虐的にすら思える、しかし切羽詰まった思いが安穏とした私(瀬崎)をはっとさせる。
 説明するための言葉は作品には要らない。余分なものをすべてそぎ落とした言葉の使い方はこうでなければいけないと思わされた。
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詩集「木洩陽日蝕」  八重洋一郎  (2014/06)  土曜美術社出版販売

2014-06-24 19:13:01 | 詩集
 第7詩集。123頁に24編を収める。
 作者は沖縄生まれで、現在も沖縄在住のようだ。収められていた作品のいたるところに沖縄の海がひろがり、風が吹き、光が満ちている。そんな南の島と海には、どこまでも開放的な時間が流れているようだ。もちろんそこには沖縄の歴史もあるわけだが、それを超越した風とか光とかによる時間の流れがあるようだ。
 それを端的にあらわしているのが「骨」という作品。石垣島で発見された頭蓋骨は国内最古の二万年前のものだと解明されて、作者の驚きが「胸に刺さった」のだ。それは二万年前からの何かを伝えてきたのだ。

   そうだ! 漂流者は漂流死すればいいのだ この世はほかなら
   ぬ漂流ではないか だれかが投げ壜を拾ったとしても その拾
   った者もまた漂流者でしかあり得ない

   だがしかし通信はやってくる まるで何かの事件のように
   そして思いがけない事実を照らしてくれるのだ

 作者は「1000世代続くあの人たちの呼びかけ」を聞いているのだ。この二万年前の骨は作品「通信」、「漂流」でも詩われている。
 「器(うつわ)」もゆっくりとしたときの流れを感じさせる美しい作品。夜行貝の殻を砕いて混ぜた赤い粘土をこね、生命をつないだ水を入れた器。それも今はそこに小さな穴があけられ、

   闇の中 カラカラと
   カラカラと
   洗骨の後の骨を抱きしめ 自(みずか)らかわいた
   おおらかな虚空となって 島に生き島に果てた人々の
   その骨に 永遠のやすらぎを与えている
   風の器(うつわ)
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あん  40号  (2014/06)  福岡

2014-06-23 18:29:29 | 「あ行」で始まる詩誌
 鷹取美保子の個人誌。B5版4頁の瀟洒な詩誌。詩誌の題字は犬塚堯氏とのこと。
 「こんぺいとう」はどこかしみじみとしてくる作品。「金平糖をそなえると」「暗がりの仏間が/明るくなる」のである。金平糖の甘さと、あの先端が丸みを帯びた独特の形を思い浮かべると、たしかにお供え物には最もふさわしいもののような気がしてくる。
 「ぱりっとした語感」に「父が、母が/おおぜいの父祖をつれて還ってくる」のである。このような死者との交流は切ない。哀しみとも違うし、おそらくは喜びでもない。ただただ今さらながらにどうしようもない死者との距離を感じているわけだ。

   父祖たちの
   金平糖を かりりと噛む音が
   座敷にもあふれ
   私は 無防備に
   幼い日の みほこちゃん に戻る
   父のおしゃれな中折れ帽を見あげ
   母の白い割烹着の裾をつかむ

 そして「金平糖は死者のために/金平糖は生者のために」と両者のためにある。金平糖は決して死者のためにだけお供えをしているのではない。お供えの金平糖は死者と私をつないでくれる大事なものであり、生者である私にとっては、捧げる祈りの言葉にもひとしいものなのだろう。 
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空の魚  1号  (2014/02)  埼玉

2014-06-22 17:24:59 | 「さ行」で始まる詩誌
 「空の魚」藍川外内美。
 童話のような面持ちの散文詩。むかしは「太陽は沈まずいつまでも明るい昼が続いていた」のだが、ある日、太陽がカリブ海に沈むようになり、互いに恋い焦がれていた太陽と海はむすばれる。

   海は、その大きな懐に太陽をかき抱き、炎のような情熱も石のよう
   な頑迷さも深く迎え入れた。そして太陽は、潜って潜り、安堵を得
   て毬藻のように眠った。(略)空の蒼と海の蒼が交わる水平線の辺
   りに、太陽は毎日沈み、海の底で眠り、朝になると空へ帰されるよ
   うになった。

 誰もが目にしている夕陽、朝日を見て、こんな物語に入っていくことの出来た作者に、まず感心する。何にでも物語は孕まれているのだろうけれども、それを自分だけのものとして引き出すためには、やはり感性を磨いておかなくてはいけないのだろう。
 さて。ある日、年老いた女の魚が一生を終える日に、太陽に空に連れて行ってくれと頼む。太陽の背に乗って空へ昇った魚は、

   ここには、経度も緯度もない。赤道も国境も日付変更線もないなん
   て!争う必要がない。雲の上はからりと晴れているばかりだわ。

 老婆の魚はやがて魚座になったという。意味などこじつけずに、ただ物語を楽しむ。ただ、物語が、太陽と海の恋の部分と、空の魚の生命の部分の2つに分かれてしまっているので、やや散漫な感じもするのが残念だった。
 「空の魚」というタイトルで私が物語を考えるとしたら・・・。
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詩集「魚がきている」  塩嵜緑  (2014/05)  ふらんす堂

2014-06-18 17:31:07 | 詩集
 91頁に27編を収める。
 作者は短歌と詩の両方をされているらしい。そのためか、言葉づかいに独特の軽いリズム感を味わうことができる。
 そして、どこか、はっきりと名指しすることを避けているような感覚がある。相手との向き合い方が曖昧で、自分の感情も最後のところまでは削っていないようなのである。
 肌触りが少し頼りないような気もするのだが、ただそれだけに、個人的な状況にとらわれずに普遍的な広がりを持つことに成功している(と言ったら、やや大げさに褒めすぎてしまうか)。しかし、この曖昧さは心地よいものを孕んでいる。
 「火」という作品は、昔に起こった火事のことを詩っているようなのだが、登場人物も出来事もやはり曖昧で、悲惨な出来事のようなのにお伽噺のようにも思えてくる。

   ある日の朝 台所で何かを探しているような 何かを
   片付けているような姿があった
   慌てている風なのは
   小さな婦人
   孫たちは教室で国語を学んでいる

   火事はその日のうちにおきたが 小さな人は火事の日の
   何年も前からとうにこの世界にいない

  「橙黄つよく」に詩われているのは夕焼け色の坂道の光景。

   坂は急に折れ曲がる
   人が突然あらわれる先に
   何があるのだろう
   不意に犬が消えてしまう角に
   やさしい主が待っているだろうか

 見えるはずのものは本当に見えるようになるのか、その先に見えていないものは本当にあるのか、人が生きていく道すじにあるいくつもの坂の手前で、誰もが感じる事柄を風景として詩っている。
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