瀬崎祐の本棚

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地上十センチ 20号  (2018/11)  東京

2019-01-31 16:47:39 | 「た行」で始まる詩誌
 和田まさ子の個人誌。14頁。表紙絵は軽快でおとぎ話のような雰囲気のフィリップ・ジョルダーノの作品。毎号楽しい。

 「イヴの抽斗」はゲストの井坂洋子の作品。それぞれ「ある日、」ではじまる4連から成る。抽斗の中には4つの日の出来事が入っていて、それは亡くなった人の詩を読むことだったり、覚醒と睡眠の間にいることだったりする。ある日、ゆで栗の甘皮をむいて食べると、

   絹雲のセロファンがはがされ
   何くわぬ顔の
   充益した無があらわれる
   うすあおい空は
   無辺際の柩のようだ

 何気なく生活しているようで、実は自分はこんなにも切実なものを抱えていたのだと思わされる。感覚を研ぎ澄ませれば、自分が主人公になった物語で毎日が紡がれていることがわかる。

 和田は3編を載せているがその中から「窓を増やす」。読書をしていた部屋には陽が差し込み、「からだはあやうい川を渡るのを免れたが/薄いシーツにつまず」くのだ。言葉だけではない実生活では、いろいろなことが起きるのだ。

   耳の迷路で歩きまわり
   手を熱くしながら
   窓という窓に石を投げる
   割って割って、どんどん家に穴を開ける
   灰汁のような夜の水があふれ出てきた

 この作品でも、自分がこの世界で生活しているということを見つめ直せばこんなにも物語が溢れているのだということに気づかせてくれる。そのためには、その日の出来事とただ向き合うのではなく、それが自分に突きつけてくるものを見つめなければならない。しかし、その物語が自分にとって大切なものなのか、それとも気づかない方がよかったものなのかは、誰にもわからないことではあるのだが。
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詩集「ASAPさみしくないよ」 尾久守侑 (2018/11) 思潮社

2019-01-29 17:27:43 | 詩集
 第2詩集。100頁に17編を収める。
 都会である。東京である。スカイツリーを思わせるイラストの表紙にかけられている半透明のカバーには東京地下鉄の路線図が描かれている。
 そして都会の詩である。洒落ていて、軽くて、不特定多数で、対象を識別するための名前は符丁でしかない世界が展開される。

 「ドラマタイゼーション」では、「それがないものねだりと知っていて/明日にうそをついた」と始まる。流れていく大勢の人がいるのに、その人たちは話者にとってはまったくの無名の存在のままで、ただ目の前にいる。そんな場所では、わかれるほどの出会いもないのだろう。

   自分をたいせつにしない人
   へんだよって、君が去っていく
   普通かよ
   普通の言葉でおわかれかよ

 最終部分は「バタンと車のとびらがしまって/また君が去っていく」。君とはまた明日会うのかもしれないが、それはいつも同じ運賃の距離をタクシーに乗るようなことかもしれない。

  詩集なかほどに饒舌独白体の2編がある。行頭をずらし、表記にもリズム感を作っている。この饒舌から生まれてくるものは何なのだろうかと考えてしまう。それは読み手である私(瀬崎)にとって意味のあるものだろうか。当然のことながら、作者が求めたものと、読み手が受け取るものは乖離する。いや、生まれてくるものがあるのか。いや、生まれるものを望んでいるのか。そんなこととはまったく無縁の地点で発語しているのだろう。

このブログでの表記の関係で、後半の作品「空からなにも降ってこない」の最終部分を引いておく。前詩集に比べると、気持ちのひだの陰影が濃くなっている。

   夢ならば
   記憶のなかならば
   連続ドラマがはじまるよかんのなか
   全力疾走でたどりついたグラウンド
   人工芝に大の字にねころがって
   青空を見上げれば
   空からなにも降ってこない

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詩集「三日月をけづる」 服部誕 (2018/09) 書肆山田

2019-01-22 22:05:01 | 詩集
 このところ毎年詩集を編んでいる作者の第5詩集。123頁に27編を収める。

 「大空高く凧揚げて」。独り暮らしをしていた母の遺品を整理していると、納戸からは、「またなんぞの折りに使えるさかい」が口癖だった母がきちんととっておいた紙袋、包装紙、紐の束が大量に出てきたのだ。わたしは、いっそこれらを使って大きな凧を作って空に揚げることを夢想する。それは「大空高く 母よ 舞い上がれ」ということであり、すると「おお これこそがなんぞの折だわな」という母の嬌笑も降ってくるのだ。

   わたしは納戸の前に座りこみ
   色とりどりの美しい紙と紐を片付ける
   何の役にも立たなかったその几帳面さを思いだしながら
   母を片付ける

 素直な哀しみが伝わってくる。独居していた老親をおくった者であれば、この作品にはいっそう容易に感情移入できるだろう。最終行の「母を片付ける」という言葉が切ない。
この他にもこの詩集には亡くなった母にまつわる作品を多く収めている。母は今もわたしのところへやってきて、一緒に町を歩き、橋を渡るのだ。

 作者の視線は身の丈にある。背伸びをすることもないし、卑下や自虐もない。自然体で対象と向き合い、自然体で言葉を発している。奥底に一貫する優しさがなければそのような言葉を発することはできないだろう。

 「踏切の音が追いかけてくる」は、相当の年齢になった話者が時間と競争していた人生を詩った作品。それは高校通学や通勤時の電車に間に合うためのもので、遮断機の警報に追われるように生活してきたのだ。退職した今は、

   間に合わせなくてはならない今日は
   とっくにわたしを追い越してしまった
   夜を越えてやってくる明日も
   やすやすとわたしを追い抜くだろう

 そしていずれは「その向こうにひそんでいる/しずかな死の闇」がわたしに追いついてくるのだ。これまでを振り返り、残されたこれからの時間を思っているのだが、そこにあるのは決して諦観ではなく、受容であるだろう。対象にだけではなく、自身にも優しい心根がある。
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詩集「虫を飼い慣らす男の告白」 新延拳 (2018/10) 思潮社

2019-01-20 10:46:09 | 詩集
 第9詩集。125頁に27編を収める。
 詩はあぶない夢なのか、それとも吐瀉物なのか。そして詩を書くことは呪縛なのか戦慄なのか。こんなことを醒めた意識で自問しているような作品が冒頭にある。

   私は過去と地図を見失い
   詩のようなものを嘔吐し続ける
                   (「わが嘔吐」最終部分)

 詩を書く自分をこうして客観的に見る視点があるからこそ、話者は変幻自在に作品世界を構築できるわけだ。

寓意のある作品も少なくない。そこでは鐘や鏡が人々の生活を精神的に支配していたりする。「鐘の音」では、町の時計塔の示す時刻が見る人によって違うのである。鐘の音も聞く人によって時刻が違う。

   鐘の音が聞こえる時ここの住民はよく鏡を見る
   自分にとって一番大事なものが映るからだという
   夭折した子や懐かしい親の顔などが・・・・
   そして何を憶い出すべきなのかを再確認する
   人々は本当の哀しみは時間が経ってからこそ
   やって来るものだということを悟るのだ

 人はその人の気持ちによって長い人生や短い人生を送っているのだろうし、鏡に映る自分の中にこれまでのすべてが堆積しているのだろう。

 夢の中で砂漠を歩く者もいる。朝起きると枕元には砂がこぼれているのだ。そして砂漠の男も高層住宅に住んでいる夢を見るのだ。どちらが現実で、どちらが夢なのだろうか(「バベルの掟」)。

「集められて」は、何の列で何のために並んでいるかもわからずに、「私も順番の後に来る何かを待っている」のだ。話者は蝶の博物館やこけしの博物館で夢を見る。そして最終連では、やはり、

   私は立っている
   いや並んでいるといったほうが正確なのだろう
   何の列なのだろう
   なぜ並んでいるのだろう

 目的も、行為の意味も知らされないままに、とにかく他の人との間に埋没している。いつか順番がやってきたときに自分は自分になれるのだろうが、そんな順番は果たしてやって来るのだろうか。

 詩集の後半には鉄道に関連した作品が収められていた。
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詩集「水平線はここにある」 松川穂波 (2018/09) 思潮社

2019-01-18 21:18:22 | 詩集
 第3詩集。125頁に20編を収める。
 冒頭の「岩場で」は3つの章からなる。「母」は、危ない岩場を一人で行くことを決めた子を見送る作品。おそらく子は振りかえることもしないのだろう。「背中を若い帆のように光らせて」海の方へ行ってしまうのだ。

   放てば欠けていくだけの真昼の月でいい わたしは 淋しさは別のところから
   吹く 一羽の鳥が肌寒い春の風に乗り 彼方へ渡っていく

 いつの日にか子に取りのこされる宿命の母親の姿がここにはある。そんな場に来てしまった母親の心情が簡潔に沁みてくる。「青年」では、親の存在などは意識の外に置いた”僕”が水平線と対峙している。誰でもが、自分が主人公となるそれぞれの物語を持っているのだろう。

 「日向灘」。この浜には「金色の目をしたひと/いっぽん足のひと/ツノのあるひと」などがいて、それぞれ松林の彼方に消えたり、記紀のなかに迷い込んだりしたのだ。話者は流木に火を放って記憶を焚いてしまうのだが、

   浜で拾ったちいさな木片は
   てのひらほどのひとを
   運んだものである
   火にくべるまでもない
   からり
   骨の明るみに届いている

 風景の中に積み重なっている歴史を感じているのだろう。逝く人を見送る淋しさもあるのだろうが、それを諦観を持って受け入れようともしているようだ。

「足りない夢」「陰沼」「雨の川」といった散文詩は寓話的な趣のものとなっていて印象的だった。
 そしてⅱには長編の散文詩が3編収められている。「崖下の家」は幼いころからの家族の記憶、「おまえは歌うな」は小咄のように書かれた断章集、そして「並木 翠のラビリンス」は、かつての日にわたしが殺して埋めたあなたに並木道で遭遇する物語。物語が長さを必要としたのだろうが、やや冗長となってしまった。

コメント (1)
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