瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

Zo  29号  2010/06)  大阪

2010-06-30 22:08:19 | ローマ字で始まる詩誌
(おことわり:詩誌名の「Z」の次の文字は「o」の上に「∧」が付いています)

 「バス停」吉井淑。
 山の奥地にある村のバス停が詩われている。バスが来ることもない過疎の村のようで、なぜバス停がそこにあるのかは不明である。ただ、「山を下ってくるバスのブレーキ音が聞こえてくること」があったり、「腰の曲がったおばあさんが下ばかり向いて」バス停へ向かっていくこともある。作品世界は音が失われているように静かで、見えるものだけが説明もなく伝えられてくる。そこがこの作品のおもむきとなっている。バス停の場所から「遠い町に出勤した姉」も「パンを買いに行った妹も帰って」こないのだ。そんなバス停なのである。
 最終連になり、描かれていたバス停が変容する。

   バス停には名前もありません もうバス停ではない
   ものになってバスを待っています そろそろ出立す
   る時 山も野も村でさえ もう行っていいよおと言
   ってくれるので バス停は旅支度をしているのです
                                  (最終部分)

 頑なにその任務を遂行したものが、周りのものにもその努力を認められながら引退していく、という物語の結び方になっている。存在することの意味を謎として描いてきたバス停が、急に人間くさくなってしまっている。これは惜しいのではないかと思う。バス停の意味を突き放したままで終えた方が、個人的には作品の深みが出たのではないかと思うのだが、どうだったろう?
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タルタ  13号  (2010/05)  坂戸

2010-06-29 19:20:10 | 「た行」で始まる詩誌
 「泉水」田中裕子。

   深緑の水面にふいに浮き上がる
   丸い口
   その奥も濁り
   何がどれだけ潜んでいるのか
                                   (第1連)

 父が庭に池を作り、できあがったばかりの池に入り私は弟と一緒に遊んだりもしたのだ。そのときは水も澄んでいて、すべては見えるものだったわけだ。その池で父が鯉を飼っているうちに、水は濁り、鯉は大きくなっていったのだろう。
 父が不在になってから、「母は一度もえさをやらない」のだが、鯉は赤い口で藻を食べながら生きている。もう、池は中が見える場所ではなくなったわけだ。そこで何が棲息しているのかも私にも確かめることはできない場所になってしまったわけだ。

   茂った庭木が影を落とす水の奥に
   父が仰向く
                                   (最終連)

 不在になった父は何処にいるのだろうか。鯉に混じって父の顔が水の中に浮き上がってくる情景が、すさまじい情念を感じさせる。最後の2行で、この作品がすーっと日常的な世界から遠ざかり、そこでくっきりと静止した。触れられないものい変容して、容易に消えないものになった。
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ぶーわー  24号  (2010/06)  大阪

2010-06-28 14:40:16 | 「は行」で始まる詩誌
 近藤久也の個人誌。A4の用紙を2つ折りにした体裁で、一人の寄稿者を迎えている。同じような個人誌発行をしている身としては親しみが持てる。
 「梅田」近藤久也。
 おそらくは二日酔いの朝のような、なにか後悔感のある目覚めである。意識は鈍く沈殿しているようだ。

   つま先は
   だるい欲望うずまく梅田へ
   踵は
   南の海に沿って今しがた顔をしかめて
   ベッドから起きあがろうとする母の紀州へ
   後ずさっていく

 卑俗な街・梅田に対するものとして、無垢の原点である紀州があるのだろう。その紀州からの距離を測るように、昨夜の梅田の情景が脈絡もなく浮かんできている。というか、紀州があることによって、はじめて梅田が孕んでいる危険な魅力を認識することができている。梅田の地下街には「物乞いする年老いた男たち」や「年老いた売春婦たち」がたむろしているのだ。梅田では男も女も醜く年老いていき、生活の糧を得るのも醜くなっていくのだ。そんな梅田は、

   地上の高層ビルをまぶしい時空にむかって
   のぼっていくことはあるのだろうか

 そんなことがないことはよく判っているのだろう。だから、いずれかの日の自分の姿が年老いた物乞いや買収婦に重なってくるかすかな予感に怯えているのだろう。
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詩集「B・Bに乗って」  小林Y節子  (2010/05)  思潮社

2010-06-25 19:23:42 | 詩集
 緑地の表紙カバー全面に著者の装画が載せられ、イラスト風の星や月が流れている。94頁に26編を収める。
  行わけ詩の多くの作品で、連ごとに段差がつけられている。その使い分けは、発語が向かう先が他者なのか、それとも自らの内部なのか、その意識の勢いの違いなのではないかと思われた。語りかけと自問自答が絡みあって混沌とした宙を飛んでいこうとしている。タイトルにある”B・B”はブラック・バードの頭文字のようだ。ただ、このブラック・バードが何を指しているのかはよく判らない。

   カオスの洞窟から軽やかに飛び立ち
   いつも景色を逆さまに見ながら
   誰も見ない真実を見る
   ブラック・バードに乗って
   闇の中を 暁に向かって
   苦悩の崖から羽ばたく
                            (「B・Bに乗って」より)

 求めるものを探しあてようとする意識の混沌は、宙を埋める言葉の乱舞をまねく。焦りのように言葉もまた不規則に存在していて、その背後にはなにも抱えていないようなのだ。だから、宙に浮かんだ言葉だけが、言葉だけのものとして投げつけられてくる。

   分かち持つ未知への鍵を握りしめて
   色や数の増えたパズルは
   どれから組んでも良いのだけれど
   残るひとつのピースだけは
   最後の扉の前で嵌め込み 完成させる
                             (「F」最終部分)

 この混沌が詰まった詩集を編みあげたからといって、それほど容易に著者のパズルが完成されたとは思えない。だから、さらに書き続けていくのだろう。
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エッセイ集「汽水の蟹」  小見山輝  (2010/05)  潮汐社

2010-06-24 19:30:16 | 詩集
 「歌の話Ⅱ」という副題が付いている。短歌結社誌「龍」の1997年から2009年にいたる13年間の巻頭言を集めたもので、第2集となる。「龍」は月刊である。約1000字の短い原稿とはいえ、毎月の期日までに欠かさずに書くということは並大抵のことではない。
 歌人が趣を覚えるところいうのは、詩を書く者とのそれとはかなり異なっており、興味深い。語弊を怖れずに言えば、感情の発露が抑制されていて、優雅である。詩人のようにどろどろとしたところが少ない。
 題材は、斎藤茂吉や釈超空など先達歌人についてや、歌誌に載っていた作品について、時事問題についてなど多岐にわたっている。もちろん永田和宏や河野裕子、小池光などについても書かれていて、彼らの歌の「おそるべし」と思われる所以を興味深く読んだ。オバマ大統領が誕生したときには、塚本邦雄と寺山修司がそれぞれ黒人を詠んだ歌を紹介している。もちろん、これらの文章の根底には短歌そのものについての思いが常にある。そのあたりが一番面白かった。

 「歌において、背後の事実などはどうでもいいことだ。」(「釈超空の正月の歌」)

 「歌が事実ばかりを追いかけるようになって、論もその表面ばかりにこだわるようになって、歌はだんだんとつまらないものになって行く。我々は、もっと幻を見なければならない。」(「幻を」)
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