(おことわり:詩誌名の「Z」の次の文字は「o」の上に「∧」が付いています)
「バス停」吉井淑。
山の奥地にある村のバス停が詩われている。バスが来ることもない過疎の村のようで、なぜバス停がそこにあるのかは不明である。ただ、「山を下ってくるバスのブレーキ音が聞こえてくること」があったり、「腰の曲がったおばあさんが下ばかり向いて」バス停へ向かっていくこともある。作品世界は音が失われているように静かで、見えるものだけが説明もなく伝えられてくる。そこがこの作品のおもむきとなっている。バス停の場所から「遠い町に出勤した姉」も「パンを買いに行った妹も帰って」こないのだ。そんなバス停なのである。
最終連になり、描かれていたバス停が変容する。
バス停には名前もありません もうバス停ではない
ものになってバスを待っています そろそろ出立す
る時 山も野も村でさえ もう行っていいよおと言
ってくれるので バス停は旅支度をしているのです
(最終部分)
頑なにその任務を遂行したものが、周りのものにもその努力を認められながら引退していく、という物語の結び方になっている。存在することの意味を謎として描いてきたバス停が、急に人間くさくなってしまっている。これは惜しいのではないかと思う。バス停の意味を突き放したままで終えた方が、個人的には作品の深みが出たのではないかと思うのだが、どうだったろう?
「バス停」吉井淑。
山の奥地にある村のバス停が詩われている。バスが来ることもない過疎の村のようで、なぜバス停がそこにあるのかは不明である。ただ、「山を下ってくるバスのブレーキ音が聞こえてくること」があったり、「腰の曲がったおばあさんが下ばかり向いて」バス停へ向かっていくこともある。作品世界は音が失われているように静かで、見えるものだけが説明もなく伝えられてくる。そこがこの作品のおもむきとなっている。バス停の場所から「遠い町に出勤した姉」も「パンを買いに行った妹も帰って」こないのだ。そんなバス停なのである。
最終連になり、描かれていたバス停が変容する。
バス停には名前もありません もうバス停ではない
ものになってバスを待っています そろそろ出立す
る時 山も野も村でさえ もう行っていいよおと言
ってくれるので バス停は旅支度をしているのです
(最終部分)
頑なにその任務を遂行したものが、周りのものにもその努力を認められながら引退していく、という物語の結び方になっている。存在することの意味を謎として描いてきたバス停が、急に人間くさくなってしまっている。これは惜しいのではないかと思う。バス停の意味を突き放したままで終えた方が、個人的には作品の深みが出たのではないかと思うのだが、どうだったろう?