瀬崎祐の本棚

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詩集「不可解な帽子」 小網恵子 (2023/05) 水仁舎

2023-06-27 19:05:24 | 詩集
第5詩集。正方形の瀟洒な57頁に24編を収める。「潮だまり」と題した序文のような短文を記した紙片が挟み込まれていた。

「バスを待つ」。停留所でバスを待っているのだが、乗りたいバスはなかなかやってこない。やっと来たと思ったら満員なのである。停留所にいた人は、違う行き先のバスに乗って乗り換えるといい、別の人は温泉に入ってから出直すといい、またある人は歩いて行ってしまう。そこで目が覚め、

   バスが何台もやってきて
   そうして朝にたどり着いた
   あそこからどうやって来たのだろう
   この朝でよかったのだろうか

夢の中でしばしば経験する焦燥感と、そこから解放されたときの脱力したような疲労感が作者を包んでいる。夢の中で話者は行く先の違うバスに乗ってしまったのかもしれない。本当はどこで目覚めればよかったのだろうか。

「図書館」。裏手に沼がある図書館で隅に置かれた本を開くと、沼の匂いが強くしたのだ。アンダーラインが引かれた箇所もあり、「沼の底から黒く浮かび上がったような/沼の深さが気になり書架に本を戻した」のだ。図書館の本には、個人が所有しているそれとは異なり、さまざまな人の思念が閉じこめられるのだろう。その思念が活字に積みかさなり、どこにも流れていかない匂いが染みつくのかもしれない。

   頁をめくると
   活字がぱらぱらぬけ墜ちる夢をみた
   誰かが活字を拾い
   背負って逃げていく
   沼の人だろうか

この夢の光景は秀逸だ。活字泥棒が拾いあつめた活字が堆積して、今ごろ沼はどうなってしまっているのだろうと思わされる。

「苺ジャム」ではご主人が急逝された友人を訪ねる。紅茶に入れるお砂糖の代わりに冷蔵庫から苺のジャムを取り出してくるのだ。瓶の中に詰め込まれた苺はぎゅうぎゅうに押されていて形も崩れている。そして友人は

   ジャムはいいね、
   甘くて安心する
   スプーンで大事そうに掬って微笑んだ

何でもない言葉なのだが、何か不穏なものを感じてしまう。ジャムを作っている友人を訪れる以前の作品「ジャムの木」を想い浮かべてしまった。あの作品では、どうぞと紫色のジャムをすすめてくれたスプーンが錆びていたのだった。

「笊を売る」、「山桜」については詩誌発表時に簡単な紹介記事を書いている。
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詩集「影」 井嶋りゅう (023/06) オアサギ

2023-06-25 22:51:02 | 詩集
第1詩集か。91頁に23編を収める。

作者は30年前に青森から上京してきたという。冒頭に置かれている「東京の森」「聞き分けのいい子」などは、都会の生活にすっかり馴染みながらも存在の根は他所であることを基盤にしているように思える作品だった。
「音色」は東京坂で拾ったネオンの色をした鈴を詩っている。雑踏の中で「どうせ待ち人も居」ない話者は、「かわいいもので満ちているこの日常」を橋の上から眺めている。通り過ぎる人が多ければ多いほど、自分が独りであることが意識されている。それは寂しさとも少し異なっていて、今、独りで立っている場所の確認であるだろう。

   本当は此処じゃなくてもよかったのだと 言い訳を結ん
   だり解いたり別の形にしたりしながら 私は長い間 何
   かを自分で決めたかのように振る舞って 取り繕ってき
   たのですが こんなに遠くまで来てしまって やっぱり
   此処じゃなければいけなかったのでしょう

東京坂には夕時のひりつく風が吹いている。そうはいっても、やはりいささかの迷いも残ってはいるのだろう。最終部分で話者は、「まるでこの街の善意に触れさせるかのような音色」を手放そうとするのだ。その孤独な強さがしんみりと感じられる作品。

詩集後半の作品には幼かった作者があらわれてくる。
「鶴を折る」では東京に行っていた父が帰宅する予定の日のことを詩っている。母は父の好物の鮮魚を買いに行き、私は一生懸命に鶴を折る練習をしている。扇風機の風に色とりどりの折り紙が舞い上がり、私の顔に身体に貼り付くのだ。

   鶴を上手に折れるようになったら
   父は出稼ぎに行かなくても良いのだから
   頑張って練習しなさいと母が言うので
   散らばったままの折り紙を掻き集め
   最後まで折りきれない鶴の練習を再開する

母の言葉は理屈にも何にもなっていないのだが、それでもただ鶴を折ろうとしている幼い者のひたむきさがたまらなく愛しい。

どの作品にも作者の生身を感じることのできる詩集だった。
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詩誌「Down Beat」 21号 (2023/04)  神奈川

2023-06-20 17:54:17 | 詩集
「うたの日」谷口鳥子。
老人ホーム、あるいは介護施設で、入所者たちが介護士さんの指導で「月の沙漠」をたどたどしく歌っている情景が、ゆっくりと少しずつ書かれた歌詞とあいまって、臨場感を伝えてくる。そこから作品は、父がいなくなり、今は母も不在となった家の様子を描く。話者は家の整理をしているのだろう、

   黒々としたオーブンの中に 布のかたまり
   めくって めくってほどいたら
   ラップにくるまれて千円札三枚 穴のあいた会員証 紙
   きれの束
   小さく切った紙に鉛筆で自分の名前 誕生日 住所

独り暮らしをしていたのであろう母の、退去前の様子が偲ばれて切ない。それを受けとっている作者の心情も切ない。

「水売り」廿楽順治。
「これこそが/わたしたちのたましいであります」と言って水売りが来るのだ。もしかすれば、わたしたちの肉体はすでに滅んでいるのかもしれない。それでもたましいは「まだ/うるおいをのぞむ」ようなのだ。

   差しだされたひしゃくの水に
   ぼくの声は
   決してうつらない

   そこはもう
   別の人の朝だから

どこかがねじれている光景、やりとり、感情がいささかの滑稽感とともに描かれている。これもまたなんだか切ない。

「どうぶつ(詩)」今鹿仙。
作者の作品にはいつも途惑う。でも、とても楽しく読む。書かれている事柄の何が作者の外側にあって、何が内側にあるのか、混沌としている。その混沌としたところから湧いてくるものが、もはや作者を捨てて読んでいる私に新たな混沌をもたらしてくれる。「枕を取られると/結婚できなくなるので とだけ/書いた手紙を受け取」るのだが、その手紙は「どうぶつの詩として」書かれたものらしいのだ。

   子供はせまくてもすぐ
   列になって収まるから
   香辛料のように価値が
   あってたいていの
   呪いもまぎれて届かないものだ

な、混沌としているだろ。 
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詩集「輾転反側する鱏たちへの挽歌のために」 高柳誠 (2023/04) ふらんす堂

2023-06-16 18:42:15 | 詩集
第23詩集。136頁に序詩1編につづく32編を収めている。
それぞれの作品の最終行が次の作品の第1行となっており、作品のタイトルは作品の始めの1行が便宜的に使われている。

硬いイメージをともなう言葉が連鎖して置かれている。そのイメージはその場に留まることはなく、話者は次々に視点を変えていく。海中で跋扈する巨大魚や甲殻類、軟体動物たちなどのさまざまな生命体の思念が渦巻くように綴られる。

   喪われたままの記憶は忘却の淵に沈ませておけ
   安息の時がこの深海を訪れることは束の間もない
   ダイダロスの追憶に恩寵が宿ることがないように
   数多の後悔が獰猛なサメのごとくその身を食む
   海に墜落したイカロスは自ら巨大な鱏に化身し
   永劫に逃れられない飛翔への呪縛の印として
   身体に刷りこまれた残像のままに海中を飛ぶ
                (「(慟哭に沈潜する深海魚の群れに一条の光がさして」より)

視点は流れていくのだが、どこまで言葉が移ろってもさまざまな生命は跋扈している。それは時間を越えて受け継がれてきてもいるようなのだ。
たとえば魚卵は輪廻の流れの中にあり、「未来への変身譚への契機を掴(つか)もうと身もだえする」し、「孵(かえ)らないまま放置されたコマドリの卵の表面には/澄みわたる空の影がいつまでも貼りついている」のだ(「(その影に怯える夥しい魚卵の鮮明な痕跡は」)。

海底の生命は地上へ、そして空へ。さらには宇宙へと展開されていく。

   大気圏での散乱・吸収の試練に耐えた光子は
   苦難の旅の中継点の地球にようやく辿り着き
   地表での乱舞の果てに再び宇宙へと飛び出す
   漆黒の空間に間断なく吸いこまれる光子たち
                (「(始原の闇の欠片が雲母となって紛れこんで」より)

最終作品の最終行は巻頭の作品の1行目となっている。つまりこの詩集全体で作品は円環を構成していることになる。宇宙全体で時間を越えて連環している生命をあらわしているようだ。
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詩集「あかね雲」 宮本苑生 (2023/05) 土曜美術社出版販売

2023-06-14 11:02:13 | 詩集
第8詩集。93頁に24編、および巻頭にドイツ語訳を附した序詩が載っている。

「ひぐらし」は、ひぐらしが「細々とした記憶の中で」鳴いていると始まる。特徴的なひぐらしの泣き声は、夏の終わり、日暮れ時、といった情景と結びついてどこか哀愁を帯びた感情をかき立てる。この作品はそういった時刻の終わり、季節の終わりに加えて人生の終わりを重ねている。

   ひぐらしが鳴いている
   生と死の
   せめぎあいの中で
   はやく はやく と
   鳴いている

話者はいつの日にか訪れる終わりの時、そしてその先の世界を思っているのだが、「私は抜け殻置いて/戻って来る/翳(かげ)り始めた/うつつの中へ」。残された時間で私は何をすればよいのだろうかという、途方に暮れたような思いも感じられてくる。

作者は家族や親しい方々を見送ってきたという。そして「この詩集は、それらの人々へのオマージュ」であるとのこと。
「黒揚羽」では、死んだ妹が蝶になって姉の家のその部屋に迷い込んでくる。そして「空は/過去も未来も/続いて」いて「人の想いは/もっと/続いている」ので、姉と私も「妹がすむ家の中に/黒揚羽になって迷い込」むのだ。この此岸と彼岸の交流が切なく美しい。

「占い」。一人暮らしのおばあさんが送る夜。小さな灯りをつけて倹(つま)しい食事を終えて終えて眠りにつく。)

   夢の中でおばあさんは若い女だった
   燃え盛る火の中で踊っていた
   --燃える 燃える 体が燃える 心も燃える
   未練も恨みも残さない

ろうそくの灯りはしばしば生命に例えられるが、ここでも燃え盛る炎が生命の激しさとかさなっている。しかしその激しさは灯りが消える前のひとときのもののようだ。潔く燃え尽きていこうとしているのだろう。次の日には死んでいるおばあさんが見つけられ、そしてまた新たに「遠くでひとつ灯りがともる」のである。

このようにこの詩集は、生者が亡くなった人を悼み、それによって自らの死を静かに見つめているものだった。
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