瀬崎祐の本棚

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「林継夫詩選集」  (2013/04)  ふたば工房

2013-04-30 20:55:33 | 詩集
 著者は16冊の詩集を出しており、すでに「花」「泉」「風」という3冊の自選詩集も出している。今回の詩選集は340頁という大冊に、16冊の詩集からの作品79編と長編詩1編を収めている。圧巻というほかはない。
 私事になるが、私(瀬崎)は昭和46年の第4詩集「教室詩編」を持っている。おそらく「現代詩手帳」年鑑に掲載された詩集の中の作品を読んで、詩集がほしくなり購入したのだろうと思う。同誌集は私家版となっているので、(記憶にはないのだが)林氏に手紙を書いて送ってもらったのかも知れない。それから30年が経ち、再び詩を書き始めた私は10年前ほどにはじめて林氏にお会いした。ああ、この方が「教室詩編」の林嗣夫氏かと思ったものだった。
作品はどれも少し怖ろしい物語を伝えてくる。しかし作品は、単に異界を提示するだけではなく、それとともにやわらかな抒情性をも伝えてくる。そこが独特の魅力となっている。詩集「教室詩編」から「試験期」の最終部分を紹介しておく。

    試験の当日になると、少女たちの出血は、まるで潮が引くようにいつの間にかやんでい
   る。時に長びいてとまどっている少女を見うけることもあるが、それはまれだ。(略)そ
   うして答案を書きあげた順に、少女は堅く変色して死んでいくのである。試験を受けてい
   姿勢のままで、あるいは立ち上がろうとしてついよろけ、腰掛けにもたれて息絶える。や
   っとのことで教室を走り出た少女は、手洗いの横の廊下に倒れていたり、ネコのように行
   方不明になったりする。
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詩集「雑草と時計と廃墟」  山本博道  (2013/03)  思潮社

2013-04-26 21:13:55 | 詩集
 これはなんとも読んでいて身につまされる詩集。108頁に、アルツハイマー型認知症となった母との日々を綴った23編の散文詩を収める。
 暴君だった父が亡くなったあとに北海道でひとりで暮らしていた母に変化が現れ、東京へ引き取り同居生活をはじめて5年が経っているようだ。 母との生活の日々に、「ぼくの歳月と引き換えに母の毎日があるのではないかと」と思い、自分のことを雑草の生えたプランターに思えるという。その日々は時間を失って時計は意味をなさなくなっているし、朝になると書斎のぼくの屑物入れには黄色い水が溜まるようになっている。

   母の脳にはもう響く心がなく少年のぼくが雨の音を聞きながら窓の
   外を見ていたことも父に対して見て見ぬふりばかりしてきたじぶん
   自身のこともすっかり忘れてゴミを捨てにいっただけのぼくにも日
   が沈んで勤めから帰ってきたぼくにも壊れた時計のような母はいつ
   もきまって早かったねと言う
                      (「母といて**」より)

 もちろん母が悪いわけではない。母に罪があるわけではない。それでも、母のことを”雑草”のようだと思ってしまうぼくがいて、母の心を”廃墟”だと考えてしまうぼくがいる。母のことを詩いながら、ここには母を見つめている自分自身が詩われている。
 私事になるが、私(瀬崎)の母も父が亡くなったあとに離れた地でひとり暮らしをしていて次第に言動がおかしくなった。引き取った母と一緒に暮らした日々は、私の場合は3年間だった。
 あとがきには、北海道にあったかっての我が家を訪ねていた旅路のことが記されている。今の母との日々を思うとき、遙かに遠いけれどもほろ苦く懐かしい記憶なのだろう。
 最後に「いまの母の毎日は、この詩集に載せたどの詩よりも、症状が進んでいる」とある。感想の言葉など無力だろう。付け加えることは、何もない。
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詩集「岬」  武西良和  (2013/04)  コールサック社

2013-04-25 15:05:03 | 詩集
 第7詩集。95頁に27編を収める。鈴木比佐雄の栞が付く。
 作品は「子どもの海」「海沿いに」「港町」「岬」「そして沖へ」の5章に分けられているのだが、すべてが海につながる題材となっている。これは並の力量でできる技ではない。
 「魚と少年」は、作品のタイトル通りに釣った少年と釣られた魚の動きを、映像を語るように描写していく。あっという間に魚は解体され、

   魚は焼かれ
   食いちぎられ
   日焼けした少年になる

   手のひらに魚の
   形
   と白い
   動きを残して岩陰に
   かえっていく
             (終2連)

 食物連鎖による生命連鎖があるわけで、食べられた魚が少年になるという一足飛びの表現が小気味よい。そして命を与えられた少年には魚の形が刻印されて、少年がまるで魚のように岩陰にかえっていく姿が印象的だ。
 「入り江の乳母車」は点景を描いた作品。乳母車のなかで「身体をよじって愚図っていた」幼子がいつしか眠りに落ちていく。おだやかな浜風が吹き、波の音も眠りへと誘ったのだろう。そして寝入ってしまった幼子の終連の描写が、このささやかな作品を微笑ましく余韻のあるものとしている。

   傾いた首のかたちが
   眠ってわけを考えている
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詩集「翻訳」 大家正志  (2013/05)  ふたば工房

2013-04-20 13:16:15 | 詩集
 詩誌「SPACE」を精力的に編集発行し、最近はエッセイ集を出していた著者の詩集で、21編を収める。
 作品は、日常生活の事物からふうわりと浮かび上がっている。理屈に束縛されない想念が自由に広がっている。しかし、あくまでも踏み切った地点が日常にあるので、浮遊しながらも現実感を伴っている。
 作品「ほら」では「生きている息と/死んでいる息の/違いがわからない」という。それに、おんなは次のようなことを平気でいったりする。

   きのう
   右の眼球と左の眼球を入れ替えました
   先生はそんなことなんの意味もないとひどく怒りながら手術をしてくれましたが
   ほんとうはわたし
   両方とも右の眼球にしたかったんです
   だって
   右の眼球のほうが世界を正しく受けとっているような気がしているんです

 ここでは話者が向き合っている世界と、話者が向き合っているきみと、きみが向き合っている世界が絡みあって提示されている。きみの世界にも向き合ってしまうことで、ぼくは「死ぬことのない無理心中」へ”ほら”と突き進んでしまうのだろう。
 作品「わたしは」では、「わたしは内乱である」とはじまり、「わたしは記憶である」となり、ついに「わたしはひもである」との認識に至る。しかも「わたしはなにも結ばない/ただ振動するだけのひもである」のだ。世界との結びつきを確かめようとしながら実感できない不安感があるようだ。最終連は、

   だから
   ひとりで立っていようとするが
   ひとりとはどういう状態なのか
   混乱してはいけないと思いながら
   混乱している
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詩集「明るい遺書」  八柳李花  (2013/03)  七月堂

2013-04-18 19:07:25 | 詩集
 先年亡くなった安川奈緒氏へ捧げられた詩集であることが巻頭に記されており、巻末には彼女の妹である安川有果の解説が付く。
 全文横書きで、95頁。1頁ごとの作品となっているが、個々の作品にタイトルは与えられていない。
 ”追悼詩集”であるからには、ある特定の人物にまつわる、あるいはその人物との関係にまつわる世界が構築されているわけで、安易には入り込めないようなものとなっている。
 作品では絶えず”僕”が”君”に語りかけている。すべての事柄は僕の語る僕らの中に在る。タイトルとなっている”明るい遺書”という言葉は33頁の作品にあらわれる。

   踝を傷めた常世の罪過に安逸な生活を僕は生活するの
   だが忘れやすい書きかけの手紙を焼いてもらうために
   も今も手紙を書いている、明るい遺書をかいているただ
   今日が何曜日なのかわからなくなるまで不思議な心臓
   のなかで待ち続けていると鼓動のリズムを刻む燻る押
   韻はゆるやかにロマン派詩人の戯言となり雑踏のざわ
   めきへ転換してゆく、

 世界の仕組みに対する苛立たしさがあちらこちらで尖っている。それは書かれている事柄を棘のように突き破って、傷をつけながら(あるいは傷をつけられながら)どこまでも転がっていく。そんな行為が追悼のためには必要だったのだろう。
 そして最終作は、「(略)まるで/夕立だね。(ことばは、/世界だった、未来だった、君/だった」と、美しく終わっていく(この作品は中央揃えで印刷されている)。
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