瀬崎祐の本棚

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兆  139号(2008/08)  高知

2008-08-29 21:44:07 | 「た行」で始まる詩誌
 「冷ややっこを食べながら」林継夫。軽いリズムで機知に富んだフレーズがつづく。

   冷ややっこを食べながら
   あしたのことを考えていたら
   あしたがちょっと
   四角に見えた

   冷ややっこを食べながら
   あの女(ひと)のことを思っていたら
   あのひとも
   四角に見えた

 さっぱりとした清涼感で、ちょっと気持ちがきりっとしているのだろう。四角だからといって、あしたやあのひとが角張っているわけではない。なにしろお豆腐の四角なのだから、柔らかい肌触りのものが同時にそこにはあるのだ。

   白いさっぱりとした宇宙の中で
   太陽は四角
   わたしも四角

思わずクレヨンで絵を描きたくなるような光景が浮かぶ。太陽は何色なのだろう、わたしは何色なのだろう?
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衣  14号  (2008/07)  栃木

2008-08-27 20:22:54 | 「か行」で始まる詩誌
 「春の歌」大磯瑞己。いろいろのものにすきまができるので、適当なものを詰めていっぱいにしようとする。お弁当のすきまにはプチトマト、冷蔵庫のすきまにはゼリー、そして、

   こどもにすきまがあったので
   卵焼きを詰めた
   それでもいっぱいにならなかったので
   早口だったけど歌を歌った

 すきまは無くさないといけない、満たしていないと不安になるのは人情だ。しかし、「いろいろなものをいっぱいにしたら/わたしがどんどん軽くなった」。いっぱいにするためには、わたしの中のなにかを失わなければならなかったのだ。そうやって世界は釣り合いをとっているわけだ。では、わたしの中のすきまは何で埋めたらよいのだろうか。最終連は、

   あの朝 飲み込んでしまった鳥が
   そっと心臓をついばむ夜がある

 すきまを埋めたために利用したものに、不意に逆襲される感覚が鋭い。脈不整、あるいは心悸亢進、そんな身体的な感覚が適切で、なんの解釈も不要にしている。
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タルタ  6号  (2008/08)  千葉

2008-08-25 21:21:55 | 「た行」で始まる詩誌
 千木貢が「日常性を越えることば」という詩論を書いている。そこで千木は「メッセージを発したとたんに表現はトートロジィの罠に陥ってしまう」として、表現にメッセージを込める危険性を指摘している。

   メッセージだけを伝える表現、ことばの意味の伝達という一義的な行為とし
   てことばが完結してしまうとき、表現のことばは現実の世界にとどまり、日
   常のことばの枠から抜けられない。

 これは非常にうなずけることである。表現は論理や哲学などではなく、ましてや意見などではあり得ない。極端に言えば私も、現実世界で意味をもつ表現など、それこそ意味がないと考えている。次の一節の最後の一文、ここに私の賛意のほとんどすべてがある。

   『(外界に触れて発する)作者の側の発見の驚異』とは表現者の感性の働き
   であり、感性の働きにはそれ以上付け加えるべきメッセージは必要ないので
   ある。感性によって作品化された風景は風景それ自体が思想である。
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孔雀船  72号  (2008/07)  東京

2008-08-21 20:46:06 | 「か行」で始まる詩誌
 「鹿しかとその道中の」福間明子。思い思いの気持ちで雪の中を奈良へ向かう。あちらこちらで鹿に囲まれる。気持ちは軽いのか、重いのか、鹿のせいで千々に乱れる。作品だって駄洒落のような「鹿と」から生まれている。全く関係ないのだけれども、オリンピックの女子レスリング選手の父親が「気合いだっ、気合いだっ」と叫んでいた風景が重なる。「気分だっ、気分だっ」と叫んでいるように思える(前詩集のタイトルの影響か)。

   物語はこう始まる
   出だしで何故か鹿が鳴くのだった
   ずうっと昔に読んだのか
   最近また読んだのか
   悲しくなって放り出した本だ

 しかと確認などしなかったのだろうけれども、どこかで確かなものを求めているのだろう。最終部分はこうだ。

   悲しみを確認することなど愚かなことだ
   鬱々と蝕まれるだけだ
   確かなことなどなんにも欲しくない
   確認などするものではないのだ
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きょうは詩人  11号  (2008/07)  東京

2008-08-10 22:08:43 | 「か行」で始まる詩誌
 もうじき出来あがるので要らないと言っても送りますからね、と小柳玲子氏が冗談交じりに言っていた詩誌が届いた。要らないなんてとんでもない、毎号楽しみにしています。

 「奥の部屋」小柳玲子。マリコさんが奥の部屋で待っているという。二部屋しかない家の奥はどこになるのか、そんなところで待っているマリコさんは誰なのか。

   しかしほとんど話をしたことのない
   マリコさんの前で
   私はだんだん小さくなり
   私はこの世に用のない
   影法師のようなものになり

 マリコさんは私に寄付を強要しているのだ。だから時間が巻き戻されて、私はもういちど奥の部屋へたどり着かなくてはならない。こうして、他人は自分でも知らなかったわが家の奥の部屋へ入り込んでくる。そしてお仕着せがましく善意を強要してくるのだ。私は結局のところ、そんな他人に逆らえないのである。
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