瀬崎祐の本棚

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詩集「球形の卵」  大塚欽一  (2011/02)  土曜美術社出版販売

2011-03-30 18:04:14 | 詩集
 115頁に25編を収める。
 詩集タイトルの「球形の卵」とは地球のこと。巻頭の「母」では宇宙から見た地球の美しさを詩っており、詩集最後には「母なるガイア」という作品を置いている。小児科医でもある著者は、地球が育んだ生命への畏怖をこの詩集の作品に込めている。

   この硬い殻に包まれた卵という存在は
   ぼくたちに深い哲理を思わせる
   殻のなかで分裂し成長しかすかに動き
   やがてひとつの生命が生まれてくる神秘
   鳥の卵であれ 昆虫の卵であれ
   微生物の卵であれ 人間の卵であれ
   すべての卵が同一の形態を取っている不思議
                        (「球形の卵」より)

 一つの生命は一つの卵から生まれる。いいかえれば、一つの卵の中に生命として誕生してくるあらゆる要素が入っている(人間の場合は胎生なので、厳密には母体からの栄養をとって発育するわけだが)。そして地球という卵の中にわれわれの生命がすべて含まれているわけだ。個々の生命が集合した一つの生命体としてのイメージがここにはある。それを著者は”巨大な生命”と捉えている。

   黎明の寒気のなかで
   生まれたばかりの卵を掌に包みながら
   巨大な生命に思いを馳せている
                        (最終連)

 詩集の中頃に、美味と隣り合わせの毒をもった河豚をたとえに原子力を詩った「河豚」、また、より直接的にチェルノブイリを詩った「石棺」という作品がある。これらの作品を読み、現在の我が国が置かれた状況をあらためて思ってしまう。
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no-no-me  12号  (2011/04)  岐阜

2011-03-29 22:55:12 | ローマ字で始まる詩誌
 「花田さんのお財布」早矢仕典子。
 電話で、花田さんのおばあちゃんがどこかへ財布をなくしてしまった、と言う。わたしはあわてて花田さんのお宅へ駆けつける。呆然と考えているおばあちゃんは「ちょっと前まで あんなにしっかりしてたのに。まるで別人みたい」だし、台所はまだ夕方でもないのに薄暗いのだ。
 散文体でことの顛末が綴られている。軽い読み物風なのに、普段なら入らないようなおばあちゃんの寝室で財布を捜す行為が、他人の隠しているもの暴こうとしているように思えてくるあたりは、巧みな心理描写となっている。
 警察にも届け、街じゅうの道をおばあちゃんが探したあげくに、財布は寝室の箪笥の奥から見つかる。「だれがそんなところに隠しておいたんだろう」と訝しくなるのだが、おばあちゃんの大事な一人息子も、

   その息子の話題になるとおばあちゃんの話はとたんに噛み合わな
   くなる。巧妙に、とても巧妙に、かくしてしまったんだ。自分じ
   しんにもわからないように。一番だいじなものは 一番奥へそっ
   と隠しておく。誰の目にもけっしてふれないように。自分さえ 
   かんぜんに欺いてしまうくらいに。
                           (最終部分)

 無意識のうちに自分の心からも隠してしまうような事柄は、たぶん誰にもあるのだろう。それは自分にとっては、覚えていると辛すぎてしようのないほどに大きな意味を持つことなので、それで自分の心から隠してしまうのだろう。財布の中に、まさかそんな意味を持つものが入っていたはずはないだろうけれど、身近な話題に重ね合わせるようにして、人の心の機微をついている作品。
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橄欖  90号  (2011/03)  東京

2011-03-25 20:18:32 | 「か行」で始まる詩誌
 「訪ねる」日原正彦は、「久しぶりに生家を訪ねる」話し。
 裏庭で干し物をしていた母はが、おや、という顔をする。父のことを聞くと、「あそこじゃないか/と 奥の仏壇を指さす」のだ。すべてを無条件に許してくれる母親は、何歳になっても甘えたくなる存在であるし、おそらくは裏庭にはうらうらとした陽がさしていたのだろう。懐かしくなるような情景がひろがっている(日原は「なつかしい日があたっている」と表現している。巧みだなあ)。でも、父は川の方へ行っているのかもしれないのだ。
 そして、振り向いた母は「あれおまえどうしてここに/と おどろ」くのだ。なにか甘えたい気持ちになって訪ねたのだろうが、母がいる場所は、本当は、未だ私が訪ねていける場所ではなかったようなのだ。だから懐かしいのだろう。

   あれはどっかへいってしまったので
   ここに
   あらしめられているんだ と
   ぬぐう
   目は
   まだ 生えている

   空に
   母の空色の声が
   まだ おどろいていて
                   (後半部分)

 私も、書斎に入ったときに私の机に向かって座っている父を見つけて、おやどうしたの、と訊ねたことがある。いや、ちょっとね、と答えて父はいなくなったのだった。人はこうして、本当は訊ねていけない場所を訊ねるときがあるのだろう。ほんの少しの間だけなのだが。そして、そんなときのいなくなった人の声は、いつまでも耳に残っている。
 この作品の余韻もいつまでも残る。
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詩集「愛しい球体」  鈴切幸子  (2011/02)  土曜美術社出版販売

2011-03-22 23:28:12 | 詩集
 およそ10年ぶりの第6詩集とのこと。157頁に36編を収める。
 ドラマのようなこれまでの人生の断片が作品には捉えられている。男女の愛憎や、生死を伴った別れなど。それらを経験しての今の自分がいて、その自分が今の世界と向きあっている。これまでが必死だったから、今も必死なのだろう。タイトルの”愛しい球体”とは、そんな自分が生きている地球のこと。
 「坂の途中で」は、薄墨いろの空がひろがるひとときのことを詩っている。おそらくは逢魔が時なのであり、「鬼の手まねく時刻」なのだ。

   遊び疲れたブランコの
   さよならしたあとの淋しい静止
   花蔭から出てきて
   足音も立てずに遠ざかっていく
   うしろ向きの人影
   あれは
   もう一人のわたし
   鬼に従いていこうとしている
                     (第3連)

 ふっと、自分はこれからどうしたらよいのかと迷っている。というよりも、自分がどうするつもりだったのかを見失っている。ブランコは止まってしまっているし、もう一人のわたしも抜けて行ってしまったようなのだ。「淋しい静止」という表現が、とても良く伝えてくるものがある作品。
 すれちがった女性がつけていた香水の香りから、その香水をつけていた女性と一人の男性を争った夜を思いだしている作品「驟雨」は、映画の一場面を観るような感じだった。
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repure  11号  (2010/10)

2011-03-21 14:21:29 | ローマ字で始まる詩誌
「午後の電車」小川三郎。
 小川の作品の記述はとても平明だ。言葉の意味が判らない箇所はどこにもない。この作品も「午後の電車の一番うしろで/続く線路をながめている。」とはじまる。とても判りやすい。
 窓から見ている風景には「家々がしんしんと降り積もってい」く。しかし、電車は無頓着に走る続け、その電車に乗っている私にも何事もなかったようなのだ。この、周りの世界との不連続感のようなものが、小川の作品にはいつも漂う。この不連続感を説明するために言葉はどこまでも平明である。

   午後の電車に乗るひとは
   本を読んだり携帯を見たり
   静かに眠っていたりする。
   飛び去る風景の中でたくさんの私が
   静かに音もたてず
   なにを疑うこともなく死んでいく。
   その上に家々はしんしんと降り積もり
   すべてをなかったことにする。

 私は千年も生きてきたと言うのだが、なにも覚えていないとも言う。それは、千年というときの経過が、周りの世界から隔絶された者には何の意味も持たないからだろう。その寂寥感が伝わってくる。たとえ見えている世界が私の目の前で崩壊したとしても、それは私には何も伝えてこないのだ。その寂寥感である。
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