瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩誌「ERA」 3-22号 (2024/04) 東京

2024-05-31 22:41:15 | ローマ字で始まる詩誌
29人の詩作品、5編のエッセイ・詩論を載せて80頁。

「美しい魚」藤井雅人。話者は磯伝いに歩いていて「美しい魚」を見る。世界を呑み込んでいるような青い闇がその目にはあり、

   別離のあいだに
   魚はどんな混沌を見てきたのか
   黒い巨きなうねりに引きさらわれて
   海の端から端まで泳ぎわたるうちに
   水の変遷する煌めきを身に刻んだのか

その魚の目には宇宙が映されていたのだ。それゆえの美しさであり、この「美しい」という形容は使い方によっては陳腐になってしまうところだが、この作品ではよく効いていた。

「尾行」日原正彦。話者は「ここ とは はるかかなただ」と気づく。そして「ここ」に「はるかかなたのわたし」がいると感じるのだ。この感覚の発想が面白い。

   露わであるが 何気なく隠されている
   かすかに罪の匂いもする そこへ
   あるとき ひそかに向かう わたしを
   わたしは 尾行する

通常の自分の底にはもう一人の自分がいるのだろう。その自分との尾行ごっこが始まっていた。

「花あそび」藤井優子。あなたが漕ぐボートではなびらを浮かべる湖面にいる。花は饒舌で、たゆたう時が流れている。

   もう少し暖かいところを漕ぎましょうよ
   あちらに渡ったら
   手を取って岸にあげてくださいね
   日のあるうちに帰りましょう

咲きほこった花が抱える狂気のようなものが迫ってきているのだろう。

「椅子のある風景」田中眞由美。そこにはなにかを待つひとが静かにすわっているのだ。「時間がすわる」、「しずかがすわる」、そして「いのちとすわる」という捉え方が巧みである。

   すわったままいのちがみつめられている す
   わったままいのちをみつめている まえもよ
   こもむきあういのちがすわるいのちとすわる

病院の待合室風景なのだろう。最終連は「そこにはいのりもすわる/そのときがくるまで」。やがて診察の順番がくるのだが、「そのとき」がいのちの終わりのときに重なってくるようだ。

私(瀬崎)は「いちじょう」を発表している。
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詩集「福音」 玄原冬子 (2023/12) 版木舎

2024-05-28 17:35:37 | 詩集
第1詩集。93頁に19編を収める。

詩集タイトル詩の「福音」は序詩として巻頭に置かれている。くじをひいてあなたは桜になり、わたしはカタツムリとなった。そして町の川べりでともに暮らしたのだ。ひと冬をあなたは眠り、満ち足りたわたしは、

    このままゆっくりと枝を這ってゆけば
    いつか 薄い殻ごと 似た色の枝になって
    何処までも ひかる空へ伸びてゆけそうな気がした

もう一度くじをひいたあなたは声を失くし、わたしは耳を失くす。静けさだけに取り囲まれた二人の夫婦愛が詩われている。

「耳」。話者はいろいろな町に移り住んだことがあるようだ。そしてどの町でもひねもす波の音がしていたのだ。でもそれは耳が「遠い記憶ばかりをさらって/私の居場所を偽ろうとしているのかもしれない」のだが。

   それでも耳だけは今もきらめきを憶えていて
   日常に点いた錆を拭うように波音を寄せる

最終連は、「濡れた渡り廊下で耳を澄ませていると/今すぐ夏草を駈けぬけ 逢いに行きたくなる」。波音がする町に待っているのはかつての私だろうか、それとも明日の私なのだろうか。どちらの私も、今すぐにでも逢いたくなるほどに肯定して受け止められる私なのだろう。それは、おそらくは今の私が悔いのないものだからに違いない。

海しかなかった町で育った者はいつか「波のような声」になる。作品「「あの列車で」」は、そんな町から巣立とうとする娘を送る作品。娘は「あの列車で」と告げたのだが、

   「また 明日」
   そんな風にも思えた けれど

   さざ波に似た
   「さようなら」
   だった のかもしれない

娘のやわらかな手を放した一瞬は、寂しさと共にやはり誇らしい耀きの時でもあったのだろう。
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詩誌「詩素」 16号 (2024/05) 神奈川

2024-05-21 17:48:24 | 「さ行」で始まる詩誌
22人のメンバーの詩作品+ゲストの詩作品、他にエッセイや詩集評があり、75頁。毎号充実した詩誌である。

「シーソー」松下育男はゲストの作品。
ポケットの中から小さなシーソ-の音がカタンカタンと聞こえてきて、それは泣き声だと思うのだ。誰と誰が乗っているんだろうと思ったりしていたのだが、実はそれはわたしの喘息の呼吸音だったのだ。

   目がさめて
   立ち上がって
   さて人間の泣き声はどんなだっただろうって思って
   このところ泣いたことなんてないから
   大人になってからずっと我慢していたから
   なかなか思いだせなかった

ああ、そうか、そうだよな、と感じられるような日常の身近なところに在る物語をていねいにすくい上げている。普通にがさつな生活を過ごしていてはそのまま通り過ぎてしまうようなことにも、繊細な気持ちを向ければ豊かな物語があることを教えられる作品だった。(でもまさか「詩ー素ー」ではないよなあ。)

「投壜通信 漆」海埜今日子。
壜の中には文字があって、ざわめいていて、川から海へと向かっているようだ。幻想的な喩の世界が広がっている。ところどころで作者独特の話法も出てきて魅せられる。たとえば「波の音が、降りだした雨のように、かすかに、たよりだ。」主語と述語の間が微妙にずれていて、あるいは跳んでいて、読む者はその間に広がる風景を自分で創らないといけないのだ。

    はばたきが、影を落として、壜をずっと、卵のように温めていました。手紙では、文字
   ですら、ありませんでした。投げた軌跡、流すことが、それだったような気もします。

中に文字を孕んだまま、壜はどこまで行こうとしているのか。言葉を伝えようとしているのか、それとも、言葉が移動すること自体が目的だったのか・・・。

「大井貞平2516番地」坂多塋子。
人名のような地名の場所で話者の正月があって、今も泣き叫ぶじぶんの声が聞こえるのだ。

   おおまたさんが来たのよ
   おおまたさん
   獅子のはり裂けたような大きな口のなからは
   からっぽの金ぴか
   歯なんて見えなかった
   金ぴかにぱっくり噛まれて
   ゼンセカイの人が笑ったよ

おおまたさんて、何だろう? そんな風に記憶の世界はどこか甘酸っぱくて切ない。かつての自分が甦ってきているかのようだ。しかし、案外それは今の自分が昔の自分に語っている物語なのかもしれない。今の自分が必要としている物語なのかもしれない。だから切ないのかもしれない。
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詩集「死ねない魂のための音楽」 篠崎勝己 (2024/04) 龍詩社

2024-05-17 23:24:25 | 詩集
第9詩集。71頁に24編を収める。
「ノイズ」8編、「フラグメント」3編、「虚構のための試論」7編、「死ねない魂のための音楽」3編、その他の詩編3編となっている。

話者のいる世界にはさまざまなノイズが充満していて、その中での話者の言葉もまたノイズになって消えていくだけなのだろうか。おそらくは話者もそのことを知っているからこそ言葉を紡いでいるのだろう。

   見えますか 気付いてしまっても言葉にしな
   ければ存在しないことだけれど 言葉の背後
   に現実は無いのだけれど 無いということが
   存在してしまう
   見えますか 何も無いことを見ている私がい
   ることが
                   (「ノイズ2」より)

まるでこの世界をノイズで埋め尽くそうとしているかのようでもある。言葉は断片化されて、なお意味を求めようとしている。

そのような世界では当然のことのように、見えるものも虚構でしかない。「虚構のための試論」はそのような虚構を言葉で手探ることによって触れるものにしようとしている。「いくつかの言葉の連なり」は「意味を創らなければならない」ものなのだ、たとえそれが「誰もわかりはしない意味であっても」だ。(「虚構のための試論1」序より)

   その場しのぎに創り続けた記憶の集積 それ
   がまぎれもなく私の生なのは他に語るべきも
   のなぞなにも無いからで それが私に似てい
   るはずもなく いずれ無数の他者たちのなか
   にまぎれてしまうのだろうけれど
                   (「虚構のための試論4」より)

限りなく言葉を繰り出すことで自分の存在を確かめている詩集だった。「いまどのあたりにいるのだろうか 私たちの生は」(「夢の不在に」より)と呟くのだが、その言葉も発せられると同時に次の言葉を作者に要求してくきているようだった。
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一枚誌「紙で会うポエトリー2024」 (東京)

2024-05-15 11:08:03 | 「か行」で始まる詩誌
坂多瑩子、谷口鳥子、和田まさ子の3人の編集による一枚誌で、1年ぶりの発行。B7版の大きな上質紙を6つ折りにして、その両面に9人の作品が載っている。
編集の3人の他のメンバーは、暁方ミセイ、石松佳、小田原真治、神尾和寿、野村喜和夫、山田亮太である。

「LAST DATE付近」野村喜和夫。
何か決定的なものが近づいてくる予感があるのだ。それは話者の存在そのものも脅かしかねないものなのだろう。不穏な風が木立をざわめかせ、来ている気配があるのだ。

   ただ、失語のままに、
   猶予の数列の耳でありたい、ときみもたぶん、思うのに、
   その耳にも、
   来ている、誰か来ている、
   ほら、
   あの音(炎症性の?

来ているものの姿はまだ見えないのに、というよりも、見えないが故に不安、恐怖は一層張りつめたものとなる。そしてそのものの姿が見えてしまった時はすでに手遅れになるのだろう。明日の日本は、明日の世界は大丈夫なのだろうか。

「素晴らしき完結」和田まさ子。
今は無人となっている実家の階段でネズミの死骸が干からびていた。上ることも下ることも選択出来た希望の中途で終わった生は”すばらしい完結”なのだ。その家には七人の叔母たちがいて、幼かった話者のお尻をつねって、自分たちの世界を築いていたのだが、

   実家の階段で拾ったネズミは
   コンビに袋に入れて
   寺のゴミ箱で往生させた
   叔母たちはいまごろ
   庭の茗荷の白い花のまわりで
   よそものを退治した祝宴の最中だ

これもまたすばらしい完結をした家のたたずまいだったのだろう。

「木馬が七台木馬が八台」坂多瑩子。
遊園地でみんながあそんでいるのだがあたしはチケットを持ってなかったからはいれない。で、遊園地は閉門の時間になろうとしている。

   遊園地はとおい昔のこと遊園地は
   昨日のこと
   まだそんなとこにいたの
   古いお嬢ちゃん
   チケット売り場のおじさんがいう
   おおきくなりなすって

輪郭が曖昧となった思い出なのか、それとも夢世界なのか。今は遠くなってしまった世界が切なくすがりついてくるようだ。終わってしまった遊園地の「木馬がたくさん/ギーギーきしみながら眠りのなかに散らばっていく」のだ。
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