瀬崎祐の本棚

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Junction  106号  (2018/04)  愛知

2018-04-28 09:55:51 | ローマ字で始まる詩誌
柴田三吉、草野信子の二人誌で、現代詩文庫の判型、中綴じ16頁である。

「ズーム」柴田三吉。
Google mapで父の生家の航空写真を見ている。そしてわら葺き屋根のその家の前に立つ。棟は大きく窪み、倉の漆喰も落ちている。あの揺れの日のままが残されていて、近くの小学校では「子どもたちの影が走りまわっている」のだ。

   この村もあの日々、はげしく汚染されたのだった。
   湖畔にうずくまる、ひび割れたかまどの里。土間
   に並ぶ厠と厩のにおい。郷愁とは誰のものだろう。
   樹幹に響く蝉の声が、時のゆらぎとなって背を包
   む。

そこは、福島県双葉郡からわずか80kmの地点だったのだ。福島第一原発の円形のドームの周囲には重機が並び、汚染水貯蔵タンクやフレコンバッグが写っている。小さな人間も立っていて、「その人を縁取り、濃い影が刻まれている」のだ。こうして発信されるものはいつまでも重い。淡々と冷静に語られるほどに、その重みがいや増して伝わってくる。

「運河」草野信子。
どこの運河なのか、船着き場から港の臨海公園までの観光船に乗っている。すると説明が入る。

   あそこでは 棺を 備蓄しています
   (緊急災害用の棺桶を 一万本
    過去の被災時の経験から です 他にも何か所かあります
   (略)
   指さされた 倉庫も
   いまは 棺ほどに小さく 遠ざかって

その原因が病であれ、事故であれ、一人の人の死は尋常なことではない。それが災害ともなれば、それは1万人という数の死を想定しておかなければならないようなことなのだ。おそらくはこの観光船に乗った日の運河はおだやかで、そんな惨事を微塵も予感させないような風景だったのだろう。それだけに作者は異次元的な怖ろしさを感じたのではないだろうか。観光船は海への閘門に入り、やがて海へ押し出されていったのだ。

二人の詩作品の他に、毎号二人の往復書簡が2回分ずつ載っている。様々な事柄についての二人のやりとりなのだが、今号では沖縄文学について語り合われていた。
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続左岸  39号  (2018/03)  京都

2018-04-27 17:11:05 | 「さ行」で始まる詩誌
1年半ぶりに発行された女性3人の瀟洒な紙誌。

「すみれいろ の」山口賀代子。
「みどりこさん」だった芽は成長して「すみれこさん」になる。童話のような語り口の作品なのだが、そこには見かけ上の可憐さとはうらはらな意地悪さも、当然のようにある。

   ときどき 「みどりこが遊びにいってませんか いたら家にかえるように
   つたえてください」と電話がかかってきます
   すみれこさんは隣の部屋でわたしのつくったカレーライスを食べているのですが
   電話がかかってもしらんふりしています
   それで「みかけたら つたえますね」とこたえるのですが
   そのことをすみれこさんにつたえたことはありません

春も過ぎていくと「すみれこさんは∞(むげん)に増殖しつづけて」家の中じゅうすみれこさんに占領されてしまうのだ。それは可愛さが持つ無垢故の暴力性といえるのかもしれない。

「熟夏」新井啓子。
3節からなる比較的長い行分け詩。夏の光景がうねるように展開されていく。電車に乗れば「あなたと一緒に迷った山が」見え、海辺からは「バスで岬の灯台まで行」く。

   手前から遠くから
   押し寄せてくる水色の波頭をかきわけて
   あのむこうの
   木の茂るあたりに 行き着きたい

   靴の底にしんみりついてくるため息や
   間合いのあるちょっとした奇声を
   抱くようになだめて

夏にまつわるイメージが豊かに広がっている。どこまでも開放的で、だからこそ懐かしさもあるこれまでのことを振りはらわなければならない季節でもあるのだろう。こうして夏は熟していき、旅立ちも必要になる。その日には「小石をふたつポケットに/すりあわせながら飛んでゆく」(最終部分)のだ。
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幻竜 27号  (2018/03)  川口

2018-04-20 17:56:47 | 「か行」で始まる詩誌
「ガラス瓶の放心」こたきこなみ。
ガラス瓶は「懸命に 空の吐息を抱きとめたので」透きとおってしまったのだという。詩われているのがどのような形の瓶かは判らないが、中に容れるものとの物語がその度に生まれるのだろう。やがて、ガラス瓶は「我知らず目眩して/わずかな風に揺すられ」砕けてしまう。

   なめらかな表面に放恣のギザギザ
   あとは 地表に空を映すおびただしい破片の乱反射

     あ さわらないで
     うっかり拾う手に血が出るよ

単に眼の前にあるガラス瓶ではなく、作者と一体化したガラス瓶であり、それが語る物語は作者自身の物語となっている。

「冬の枯葉を踏みに街へ」宇佐見考二。
詩が書けない夜が過ぎて、クリスマスイブの街へ話者は枯葉を踏みに出かける。おそらくは、自分も枯葉を踏みたいのだが、行きずりの他人が踏む枯葉の音も聞きたかったのではないだろうか。何となくそんな気持ちになるときはあるだろうと思う。そして、「枯葉に埋まっているかもしれない/その場処」を話者は求めている。自分への優しさのようなものを感じる最終部分は、

   音いたるところにあり

   自分の音を踏む
   そんな日々があってもよい

「タブリーズの古い古いバザール」白井知子は、イランにある中東最古のバザールでの話。話者は、訪ね当てたバザールの一角の店で、黄薔薇の生花でドレスを作るのだが、幻想的で、白昼夢を見ていたような雰囲気も漂う作品だった。
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タンブルウィード 3号 (2018/03) 神奈川

2018-04-18 22:57:22 | 「た行」で始まる詩誌
B5版、83頁の存在感のある詩誌。表紙にあしらわれたベルトと腕時計の写真も澄んだセンスを感じさせる。同人9人にゲスト4人の作品を載せているのだが、ほとんどの執筆者が2~4編を発表しているので、読みでもある。

「森のコラージュ」宗田とも子。
腱盤をひとつ失くしたわたしはオルガン屋さんに謝っている。それは、オルガン屋さんが注いでくれた青い水の飲み物を飲んでいるときだったのだ。

   ひび割れたビン に夕陽が入りこむと
   オルガン屋さんは
   山を越そうと ついていけないほど走るので
   どうでもよくなって またベンチに戻りました

それからどうなったのか? 実は山はわたしのなかにあるので、わたしは「時々 裏側を走る ひとつ音のない足音を聴いてい」るのだ。わたしはすでに、大変に優しいけれども、逃げることはできない大きな物語に囚われてしまってもいるようだ。

「ラジオの日々」河口夏実。
4つの断章からなる作品。話者を囲む事物と、話者が内部に抱えているものが、言葉で取りだそうとしている内に混じり合っていくようだ。

   はがきいちまい
   絵を飾り、
   夢から覚めていくうちに
   ラジオをつける いまあるく道

そうして取りだされた日々は、うねりながらどこまでも続いていく。”ラジオの日々”は旅なのだろう。

「うさぎ島」斎藤恵子はゲスト作品。
この作品でも言葉は優しく降り積もっていく。それは、何もなかった海に次第に島ができ、何かを運んだりもするようになることなのだろう。

   みしることのないひとたちの
   あえいだ息が
   海ぞこにかさなり
   地図にない島から
   あし踏みのおとをたて
   舟は涯へいく

宙づりに風から聞こえてくる「中断の声声」も、わたしが言葉で作り上げていった島に寄せる波となるのだろう。
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「島-パイパテローマ」 佐々木薫 (2017/12) あすら舎

2018-04-12 22:11:45 | 詩集
第8詩集。93頁に22編を収める。
4つの章に分かれた「Ⅰ」には「島」と題された連作8編。
島には港はなく、真っ昼間はなく、入り口もないという。そのように閉ざされた島には「明けない夜があるだけ」なのだ。だから島には「沈黙の固まりがあるだけ」なのだ。そこには歴史があり、そこから生まれた風習が人びとの生き方を規制しているのだろう。

   島は孤立無援の流刑地である。
   島はわたしが生きる根拠である。
   不条理な島を生きる不快と快感
   荒ぶる風波のなすままに、
   無防備の背中を日にさらし
   われとわが身を焼き焦がす

 それゆえに人びとにはパイパテローマが必要となったのだろう。パイパテローマとは波照間島の南方にあるという楽土のこと。「ここではない どこか」の謂いであるが、人びとにはそれを必要とする生き様があったということなのだろう。

沖縄在住の作者であるから、”島”が「様々な外圧に苦しむ沖縄である」(あとがきより)であることは容易にわかる。さらに作者の情動を促したのは「外的な状況をも含めた内的な「島」の存在である」とのこと。

 「芭蕉の葉がゆれる」など、どの作品もぶっきらぼうにも思える描き方であるが、真っ直ぐに訴えてくるものを孕んでいた。その強い感情が圧倒的な詩集であった。

   生きるに値するものは
   さらわれてしまった何か
   わたしの中から失われた重大な何か
   -泳いでいる
   -失われたもの
                   (「もぬけの浜」より)

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