第10詩集。109頁に22編を収める。
無理のない自然体がそこにはある。物事に抗うのではないが、決して譲ることもない立ち位置が見えている。力を抜いた自然体は、そのまま迷いのない強さのようなものになっている。
巻頭の「心の水」では、「水に映った影は流れてしまって/残らないのに」「心の水に映った影は」私から離れないと詩う。
水は流れてとどまらないのに
心の水は溢れるばかり
逆さに流れて泡立つばかり
「橋」は3編からなっている。その始めの「吊り橋」では吊り橋が揺れる。それは風のせいではなく、ココロの不安のためだと言う。しかし、それでもなお作者は「吊り橋を渡れ/渡り切れ!」と、ココロの不安のためにためらう人を激励している。ここには作者の優しさと強さがある。
次の「光りの橋」では、何かがやってくるのも橋だ、と詩う。橋を駆けてくるものは一本の線になり、それは言葉になって私を捉えて変えてくれるのである。ここには詩を書く衝動のようなものがあらわされている。
詩を書くその衝動は、3篇目の「つなぐ橋」で明らかになる。
言葉は橋だ
風は橋だ
音は橋だ
においは橋だ
駆けてくる声 音 木霊
ここで詩われているのはすべて何かを伝えるものである。そうした伝えるものが橋だとするならば、橋によって伝わるもの、あるいは、橋によってつながれるもの、があるわけだ。作者が詩を書く衝動は、つなぐものを通して、つながれるものを愛おしく思うココロであるのだろう。
「うそ」などの岡山弁を交えた作品を読むと、作者の肉声を聞く思いがした。
無理のない自然体がそこにはある。物事に抗うのではないが、決して譲ることもない立ち位置が見えている。力を抜いた自然体は、そのまま迷いのない強さのようなものになっている。
巻頭の「心の水」では、「水に映った影は流れてしまって/残らないのに」「心の水に映った影は」私から離れないと詩う。
水は流れてとどまらないのに
心の水は溢れるばかり
逆さに流れて泡立つばかり
「橋」は3編からなっている。その始めの「吊り橋」では吊り橋が揺れる。それは風のせいではなく、ココロの不安のためだと言う。しかし、それでもなお作者は「吊り橋を渡れ/渡り切れ!」と、ココロの不安のためにためらう人を激励している。ここには作者の優しさと強さがある。
次の「光りの橋」では、何かがやってくるのも橋だ、と詩う。橋を駆けてくるものは一本の線になり、それは言葉になって私を捉えて変えてくれるのである。ここには詩を書く衝動のようなものがあらわされている。
詩を書くその衝動は、3篇目の「つなぐ橋」で明らかになる。
言葉は橋だ
風は橋だ
音は橋だ
においは橋だ
駆けてくる声 音 木霊
ここで詩われているのはすべて何かを伝えるものである。そうした伝えるものが橋だとするならば、橋によって伝わるもの、あるいは、橋によってつながれるもの、があるわけだ。作者が詩を書く衝動は、つなぐものを通して、つながれるものを愛おしく思うココロであるのだろう。
「うそ」などの岡山弁を交えた作品を読むと、作者の肉声を聞く思いがした。