瀬崎祐の本棚

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森羅 6号 (2017/09) 東京

2017-09-29 21:19:41 | 「さ行」で始まる詩誌
 手書き原稿をコピーして綴じた粕谷栄市と池井昌樹の2人誌。

 粕谷の「死と猿」は、明け方近くにみた一匹の猿の話。その猿はなぜか笑っていて、突然私を絞め殺しにかかったりする。もう1編は「馬と絶望」。
 「あるひどく気の弱い男が、一日、馬となって生きた」という。絶望感ばかりで生きている日々の中で馬になった一日だけは「思いがけないほど近いところに青空があ」ったのだ。

    それからどうなったか、気の弱い男が、気が弱いまま、
   途切れて、このはなしは尽きている。その後、一生、彼
   が、馬となる日は来なかったのだ。

 この馬になった一日の思い出は、彼にとっていつか再びという希望だったのだろうか、それとも今日もその日ではなかったという絶望を繰り返し与え続けるものだったのだろうか。

 池井の6編は、平仮名だけで書かれており、どの作品も5音、7音を主とした独特のリズムを持っている。
 「はぐれ雲」は、どこかにある”まち”を詩っている。そこは「あいたいひとがみんないて/どこかにぼくもいきていて」とても行きたい”まち”なのだ。それは誰もが無意識のうちに気持ちの底に眠らせているような”まち”なのだろう。そしてそれは「くもをつかんでいるような」存在の”まち”なのだ。

   まちのそらにはくもがあり
   ちいさなはぐれぐもがあり
   かげってはまたかがやいて
   いまにもきえていきそうな
   ものといたげなあのくもを

 このように思いうかべる”まち”を持っていることと、先ほどの粕谷の作品にあった馬になった一日を記憶していることには、どこか似ているところがある。切ないけれども、それがあることによって明日の一日を迎えることができるのかもしれない。

 今号の賓客は黒岩隆で2編を載せている。そのうちの「丹色の月」は最近の詩集「青蚊帳」にも収められていた。抒情的な好い作品だった。
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詩集「青蚊帳」  黒岩隆  (2017/08)  思潮社

2017-09-27 21:23:12 | 詩集
 第8詩集。85頁に19編を収める。
優しい眼差しが静かに周りの事象や親しかった人の面影を捉えている。内側に秘めた想いはどこまでも抑制されていて、声高に語られることはない。短く切れる詩行に、ただ深く積もっていく。

 「海鳴り」は、嵐が去った後の海沿いの街を描いている。海鳴りだけが居残っているのだが、それは人々の生活の裏に張りついているようだ。いろいろな言葉が途切れると、海鳴りが低く響いていることに気づかされるようなのだ。そして街からはすべての人が去ってしまう。

   すると
   ひっそり海鳴りが止んだ
   誰も
   ひとのさびしさとさびしさが
   ぶつかる音だと 知らないままに

 何かの寓意と読むこともできるが、ここに広がる美しい静けさは、あらわされた情景そのままで受けとっておきたい。

 「空き缶の朝」。誰かを偲ぶ作品だろうか。浅い夢から覚めて、「もう/いないのに/世界に/世界の外に/反転する魂」を感じているのだ。その人がいなくなり、

   あれから
   邑は半分欠けていて
   わたしは
   夜更け
   そこを出入りしている

 空き缶を蹴って土手に出れば、話者に伝えたがっている誰かの声が届くようなのだ。切ないような抒情がある。好い詩だなあと思ってしまう。

 「丹色の月」は作者にしては珍しいシュールな味わいを持った作品。あなたとの思い出がある浜辺の情景から、あなたも白い犬もいなくなってしまった夜の庭へ物語は移っていく。この作品でも、やはり抒情が静かに広がっている。

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詩集「記憶する生×九千の日と夜」  吉田広行  (2017/09)  七月堂

2017-09-24 20:28:37 | 詩集
 第6詩集。73頁で、前半に「記憶する生」と題した12の断章からなる行分け詩、後半に「九千の日と夜」と題して5編のエッセイを収めている。そらしといろの栞が付く。

 詩編には、確実に老いて残りの時間を刻んでいく人間の生と、それらが集合して成り立っているこの世界の終焉への歩みが基調にあるようだ。

   もう老いることはない
   あらかじめ失われた老年の日々よ
   永遠に二十歳に満たない緑の歳月よ
                  (「三」より)

 このように書かれた時の中で「ぼくらは眠る」のであり、「一度も生きたことのないぼくたち/仮想の地平はどこまでも青い」のである。自分が生きる”場”が青いのであればここの流れる”時”もまた青い。

   陽は昇り陽は沈みその向こうに
   織りこまれた青空が透きとおって
   深い無のそよぎのままで燦燦とひるがえっている
   鳥たちが無重力のなかを輪をなして舞っている
   時間はいつまでも青い
                  (「八」より)

 後半のエッセイは詩集と映画をモチーフにして書かれている。取り上げられている詩集は、城戸朱理詩集「非鉄」、田野倉庸一詩集「流紀」そして川口晴美詩集「半島の地図」など。映画はリドリー・スコット監督「エイリアン」と「ブレード・ランナー」、北野武監督「ソナチネ」、青山真治監督「EUREKA(ユリイカ)」など。
 エッセイではより直接的に作者の思いが語られやすい。そしてこちらでも詩編でみられていた世界の終焉の予感がある。

   中くらいのものたちへの視線が再びどことなく希薄化してゆくなかで、世界の趨勢
   はむしろ来るべき再構成に向けた波乱(=戦争)への予感を宿しつつあるようにも
   思えてならない。それは決して望ましい未来ではない。
     (「全てであること、そしてアーカイブ、無限からの照り返しのように」より最終部分)
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詩集「夜明けをぜんぶ知っているよ」  北川朱実  (2017/08)  思潮社

2017-09-21 20:38:37 | 詩集
 短く途切れる詩行が静かにつながる。そこに地上から少し浮かんだような軽さで風景が広がる。
 「末広橋」。三重県にある同名の橋は、我が国でも珍しい鉄道の通る跳ね上げ橋である。列車運行時にのみ橋桁が降ろされるようだ。その橋に貨物列車が「不機嫌な象の鳴き声みたいな音を/まき散らしてやってくる」のだ。そして橋桁がふたたび上がるのを私は視ている。後半部分は、

   昨日あったさびしいことを
   一つ沈めたから

   運河はふくらんでいる

  (略)

   私は
   まだ名前のない一日を差しこむ

   鳥肌のたつ文庫本も

この短い詩行が孕む風景の豊かさにうっとりとしてしまう。空にむかって差しこまれる橋桁のように、私の中にも空に向かって差しこむ何かがあったのだろう。とても感覚を研ぎ澄ましていなければ、外部事象と心象はここまで親しく響き合わないにちがいない。

 一方で作者は語りの達人でもある。エッセイ集「三度のめしより」はその真骨頂だった。本詩集には掌編小説を思わせる4編の作品が収められている。
 「水の中の用意された一日」は、末期乳癌で余命宣告された今日子の物語。自分にうり二つの写真の免許証を拾得した彼女は、免許証の持ち主が14年前の高校時代に溺れさせようとした星川さんに会いにいく。

   「十四年前の水が今もこぼれるという耳を見せてください」
   息を深く吸って今日子はいった
   星川さんは一瞬大きく目をみひらいたあと 長い髪を夕焼けた空に流した
   ふくよかな耳から 生温かい水が流れ出るのが見えた

 雑誌「すばる」に小説を発表したこともある作者の語り口は巧みで、詩と小説の境界を越えた地点に成立した作品となっている。

 「窓」「サシバ」については詩誌発表時に感想を書いている。
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ユルトラ・バルズ  28号  (2017/08)  東京

2017-09-17 15:58:00 | 「や行」で始まる詩誌
今号から細田傳造が同人として加わり、小特集「江戸戯作」として江戸情緒を利用した6編を載せている。その中から「此れから」。
 べらんめえ口調のような勢いで、奉行所や六道辻堂のしがらみをすべて断ち切ろうとしている。そして船に乗るのである。船はいつでも未知の場所をめざすものなのだ。だから「船はブラジルという星を目指して/進んでいる」のだ。すべては”此れから”なのだ。

   ブラジルに着いたら
   星いちめんに
   水蒸気の花を植えてやる
   夢栽培なんて
   かたはらいたい

 これまでの細田の作品とはやや趣を異にしているが、基調のすっとぼけた軽味とそれを支える居直ってしまった強味は健在である。

 「女優志願」阿部日奈子。
 アメリカ留学から戻った末っ子の娘が女優になろうとしてしまった、という父親の愚痴を、一人称で書き連ねている。実際に、偶然に隣に座った男に聞かされているような気になってくる巧みさがあって、大変に面白かった。

 「真昼の変遷」中本道代。昨年秋に亡くなった前衛芸術家の中西夏之氏に捧げられている。
 行分け詩で、5文字下げで書かれた連が一つおきに置かれている。中西氏の作品から放射されるものと、それを受けて話者の中に生じるものが、交互に織り出されているようだ。まるで舞踏のように光がうつろい、そのうつろいの時間ははっきりとそこにあるのに幻を視ているかのようである。好きな2行は「まぶしい夢をみていた?/いいえ 夢など少しも」。想いの幅を規定するような具体的なものは何もなく、ただ観念だけがやわらかく広がっている。そして、

   ごくわずかに時間がずれ
   もうどうしても還れぬほど遠くずれて
   息のかたまりを吐き出した

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