手書き原稿をコピーして綴じた粕谷栄市と池井昌樹の2人誌。
粕谷の「死と猿」は、明け方近くにみた一匹の猿の話。その猿はなぜか笑っていて、突然私を絞め殺しにかかったりする。もう1編は「馬と絶望」。
「あるひどく気の弱い男が、一日、馬となって生きた」という。絶望感ばかりで生きている日々の中で馬になった一日だけは「思いがけないほど近いところに青空があ」ったのだ。
それからどうなったか、気の弱い男が、気が弱いまま、
途切れて、このはなしは尽きている。その後、一生、彼
が、馬となる日は来なかったのだ。
この馬になった一日の思い出は、彼にとっていつか再びという希望だったのだろうか、それとも今日もその日ではなかったという絶望を繰り返し与え続けるものだったのだろうか。
池井の6編は、平仮名だけで書かれており、どの作品も5音、7音を主とした独特のリズムを持っている。
「はぐれ雲」は、どこかにある”まち”を詩っている。そこは「あいたいひとがみんないて/どこかにぼくもいきていて」とても行きたい”まち”なのだ。それは誰もが無意識のうちに気持ちの底に眠らせているような”まち”なのだろう。そしてそれは「くもをつかんでいるような」存在の”まち”なのだ。
まちのそらにはくもがあり
ちいさなはぐれぐもがあり
かげってはまたかがやいて
いまにもきえていきそうな
ものといたげなあのくもを
このように思いうかべる”まち”を持っていることと、先ほどの粕谷の作品にあった馬になった一日を記憶していることには、どこか似ているところがある。切ないけれども、それがあることによって明日の一日を迎えることができるのかもしれない。
今号の賓客は黒岩隆で2編を載せている。そのうちの「丹色の月」は最近の詩集「青蚊帳」にも収められていた。抒情的な好い作品だった。
粕谷の「死と猿」は、明け方近くにみた一匹の猿の話。その猿はなぜか笑っていて、突然私を絞め殺しにかかったりする。もう1編は「馬と絶望」。
「あるひどく気の弱い男が、一日、馬となって生きた」という。絶望感ばかりで生きている日々の中で馬になった一日だけは「思いがけないほど近いところに青空があ」ったのだ。
それからどうなったか、気の弱い男が、気が弱いまま、
途切れて、このはなしは尽きている。その後、一生、彼
が、馬となる日は来なかったのだ。
この馬になった一日の思い出は、彼にとっていつか再びという希望だったのだろうか、それとも今日もその日ではなかったという絶望を繰り返し与え続けるものだったのだろうか。
池井の6編は、平仮名だけで書かれており、どの作品も5音、7音を主とした独特のリズムを持っている。
「はぐれ雲」は、どこかにある”まち”を詩っている。そこは「あいたいひとがみんないて/どこかにぼくもいきていて」とても行きたい”まち”なのだ。それは誰もが無意識のうちに気持ちの底に眠らせているような”まち”なのだろう。そしてそれは「くもをつかんでいるような」存在の”まち”なのだ。
まちのそらにはくもがあり
ちいさなはぐれぐもがあり
かげってはまたかがやいて
いまにもきえていきそうな
ものといたげなあのくもを
このように思いうかべる”まち”を持っていることと、先ほどの粕谷の作品にあった馬になった一日を記憶していることには、どこか似ているところがある。切ないけれども、それがあることによって明日の一日を迎えることができるのかもしれない。
今号の賓客は黒岩隆で2編を載せている。そのうちの「丹色の月」は最近の詩集「青蚊帳」にも収められていた。抒情的な好い作品だった。