瀬崎祐の本棚

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詩集「神出来」  金堀則夫  (2009/07)  砂子屋書房

2009-06-27 13:25:49 | 詩集
 119頁で28編を収める。前詩集「かななのほいさ」でもそうであったが、自らのルーツを探す術として作者は土地に、地名にこだわっている。土地の来歴があって、そこに人の営みが乗っている、そして人の営みが土地の来歴になっていく。「はるかな土には/これから蘇る千古の深さがある」(「乾田」より)と、土は歴史そのものになっていく。
 美しい地名「星田」は幾度となく作品にあらわされてきたが、これが「乾田」に通じて、さらに「乾」は「天」の意だとも言う。

   乾は雨となって
   田は乾き切らず
   わたしに涸れない田を与える
   水を切れ
   土を切れ
   陰の田を晒す
   乾田(かんでん)じゃない
   カンデンは<神出来(かんでら)>となる   (「乾」より)

 星と鉱山が土地を見下ろし、土地を支えているのだろう。そして、作者は谷から谷をめぐり、坂を下り、絶壁を眺める。そんな土地に支えられた人の、自らの存在を信じる強さを感じる。
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櫻尺  34号  (2009/05)  川越

2009-06-26 21:56:58 | 「さ行」で始まる詩誌
 毎号いろいろな花びらで表紙が埋め尽くされている鈴木東海子の個人誌。今号も10人の詩作品、2人の評論と、非常に充実した内容である。
 「音信(おとずれ)の庭」鈴木東海子。大きな石柱のオブジェの置いてある庭にいるようだ。

   このように堅い指があって、指の関節がふくらんで。いて。
   石を叩いてきた手が軽くはさむ先にけむがのぼっている。わ
   たしの望むように手があってかってやわらかい指をもった人
   であったことが思いだされるのであった。

 なにかの意志を持ったような指の動きが背後にある物語を感じさせる。指の動きはかたちをとり、声のようになにかを伝えてくるのだろう。ここでは、今ある固い石と、かってあったやわらかい指のイメージの対比が見事だ。

   炎のようにもえてきた堅い指によってつくられたかたちたちは
   内部のようであったが外部であった。わたしをとおしてうまれ
   でたものに内部だけのつながりで外部もつつんでしまいたかっ
   た。

 石柱にはいくつかの穴があいており、空が見え、風が通り抜けるのである。指は、今は石のように堅くなっていて、指にも風の通り抜ける穴があいているのだろう。オブジェに魅せられて、身体が同化してしまいそうになっている感覚が伝わってくる。
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詩集「飛ぶ」  長津功三良  (2009/06)  コールサック社

2009-06-24 22:06:16 | 詩集
 第8詩集でソフト・カバーの140頁、32編を収める。福谷昭二の栞が付く。
 長津功三良といえばヒロシマの原爆を取り上げたいくつもの作品、詩集が代表的なものとしてすぐに思い浮かぶ。しかし、今回の詩集は、「生きること」「またこんな話を聞きました」などのいくつかの作品を除いては、直接的に原爆を詩ってはいない。方言を巧みに取り入れた生活に密着した作品や、今は亡い「女(おまえ)」を偲ぶ作品などで、作者の体温を感じさせるものが主体となっている。次の作品は、村の長野郷というところにある木造の観音菩薩像を詩っている。

   かんのんさんは とてもふるいもんじ
   いきみごうの だいじなもんじゃけぇの
   みんなじおまもりしちいかにゃぁいけんので
   ちゃんとおさいせんあげち
   われらぁ まいつき いっかいは おまいりせぇや
   そうでなきゃぁ くどくなんかぁ ありゃぁせんど
                  (「新ちゃんちの観音さん」より)

 観音さんを守ってきた新ちゃんの言葉が生き生きとあらわされていて、人が生きるということはこういう肌触りなのだと感じさせられる。
 もちろん、今回の詩集に収められた作品を生きている作者が置かれている位置は、原爆体験がもたらした憤りの上にあることは言うまでもない。
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夜凍河  15号  (2009/05)  兵庫

2009-06-20 08:22:27 | 「や行」で始まる詩誌
 滝悦子の個人誌。A4版の紙を三つ折りにした体裁で、詩2編を載せている。
 「ペールブルー」は、青春の日を送った街を訪れている作品。繁華街では試験の結果をまったり、転校生の噂をした。そして時間が流れた分だけ街も変貌しているわけで、

   無人になった駅の陸橋を渡るとき
   覚えていたことも なにかのまちがいだったように
   線路を隠して夏草が揺れる

 非常に感傷的な作品で、甘い、と言ってしまえばそれまでなのだが、それだけではない、読み手をつなぎ止めるものがある。それは言葉の確かさであろう。表現が惰性に流れずにかっちりしているので、読む快感がある。こんな風に言ってくれるのなら、感傷的でもいいかな、と思わされてしまうのだ。

   こぼれてゆくものを
   こぼれるままに見ている無防備を
   わらいながら
   海を見下ろす高台の店で
   まぼろしのような十七歳のかけらを 待っている  (最終連)
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石の詩  73号  (2009/05)  三重

2009-06-19 22:12:43 | 「あ行」で始まる詩誌
 「ロバの来る日」北川朱美。ブラジルの農村では、ロバの背に乗せられた本が巡回図書館だという。大人も子供も装いをただして集まってくるという。彼らにとって、文字があらわす世界はどんなものなのだろう。おそらくは彼らの日々の生活からはかけ離れた世界は、彼らに何をもたらすのだろう。

   私は気づいていた
   文字を旅して帰ってくると
   彼らはすこし無口になることに

 TVで、アジアの貧しい子ども達に本を送る「Room to read」という運動のことを報じていた。送られてきた本で学んだ山村の子ども達が、やがて専門技術を身につけるようになっていた。彼らにとって文字は新しい生を生きていく武器にもなりうるのだろう。さて、それでは、私が今こうして書きつけている文字の意味は、どこに求めればよいのだろうか。この作品の最終連は、

   夜
   私は
   読んでいた文庫本を何度も取り落とした
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