瀬崎祐の本棚

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詩集「或る塩の道」  又野京子  (2010/12)  歩行社

2011-02-24 22:03:16 | 詩集
 レコード・ジャケットのような大版の体裁で、61頁に11編を収める。山本十四尾の解説が付く。
 詩集タイトルにある”塩の道”とは、越後から信州へと峠を越えて塩を運んだ道を指している。作品の主人公は千曲川のほとりに暮らした「きん」という女性で、あとがきによれば著者の伯母にあたる人物をモデルにしているようだ。そして著者の曾祖父は信州で海産物問屋を営んでいたようだ。当時の資料を交えたりしながら、明治時代の彼らの生き様を作品にしている。
 これらの作品の成立には、おそらくは己の来歴をもとめて、時の流れの中に位置づけたいという希求があったのだろう。そのことを通して己の存在意味を確認しようとしたのだろう。

   きんは早朝から店で働いていた 昼近いころ番頭の次郎
   のところに 隣村の実家から知らせがあった 兄の出稼
   ぎ先から突然の事故で 峠の谷間に転落した知らせだっ
   た 村中で大騒ぎとなり皆で探しに出たが 谷間で俵と
   ともに見つかったとき兄は帰らぬ人となっていた
                            (「亀屋」より)

 個人の来歴が他人にとっても意味を持つためには、そこには個人を離れたなにか普遍的なものが必要となる。この詩集では信州での旧家の暮らしぶりがその役割を担っている。歴史資料的な意味合いと、個人の来歴につながる感情的な部分が統合されているのだ。
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詩集「ノミトビヒヨシマルの独言」  季村敏夫  (2011/01)  書肆山田

2011-02-22 20:03:22 | 詩集
 181頁に40編を収める。
 太平洋戦争時に、中国大陸に出征し、東南アジア戦線に転戦し、そして復員した”父”を中心にした作品で構成されている。戦線での父を思い、復員後の荒れた父をみている話者がいる。

   北支から南方、コタ・キナバル、ゼッセルトンの捕虜収容所で、
   獰猛な植物群に囲まれ、父が踊る。踊りながら収縮し、しずくとなる。
   しずくとなって、森に飛び散る。

   (略)

   しずくがしずくを呼び、次第に膨らみはじめ、集結して光になる。
   息から息への六十二年後の逢魔が刻、アピを疾走する影があった。
   お前はここの住民ではない、逃亡せよ、
   一刻もはやく。影は命じられたが、森の奥へと突き進んでいった。
                              (「聖家族」より)

 常に、その父に対峙する話者がいる。この話者はおそらく著者と非常に重なり合っていると考えられるのだが、この発話者の自己検証が作品を深みのあるものにしている。父の人間性を認め、その存在が自分の基盤のひとつとなっていることを確認しながらも、その一方で父というものの存在の呪縛から逃れようとしている自分もいるようだ。
 重く、暗い内容を真っ向からこちらへ投げつけてくる詩集である。身内からわき上がってくるそれらを、言葉で表出することによって自分から離すこと、客体化することが、著者には必要だったのだろう。
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ロッジア  9号  (2010/12)  

2011-02-20 21:05:41 | 「ら行」で始まる詩誌
 毎回、濃密な作品世界を提示してくれる時里二郎の個人誌であるが、今号には、書き継がれている「あの場所についての構想ノートより」の最終作品、「卵歌」が掲載されている。21頁に及ぶ散文詩である。
 作品の冒頭に、水郷ノオトと名づけられた父のノオト類からの抄出であることとの話者による断り書きがあり、最後には附記まで付いている。作品の来歴そのものも作品世界に取り込んでしまっている。
 作品の内容を伝えることは困難であるが、前作の「ニホ」と同様に水郷を舞台にしている。少女「ヨウは、水鳥を祖のカミとする歌よみの部族の末裔」あり、わたしの歌を「不思議な抑揚とリズムを歌のことばに吹きこむように」歌うのである。そしてヨウは、何物かの卵を孕むのである。

    しかし、わたしは今もなほ、わたしの卵を身籠もってゐると言ったヨウのことばを忘れるこ
   とはできない。もしそれがわたしのためについた嘘だとしても、その嘘の卵は、幻影であるが
   ゆゑに、ヨウの思ひも丈が強く籠められてゐる。ヨウの念じた卵を、わたしの存在を懸けてこ
   の世界に形象すること。それがわたしの《卵歌》である。

 水郷という湿った土地を舞台にして、作品全体もぬめぬめと湿っている。ひんやりとした軟体動物のような蝕感を伝えてくる。
 ヨウに歌われることによってわたしの歌は何に変容していたのだろうか。そして歌をうたっているうちにヨウが孕んだ卵は何だったのだろうか。歌のことばは、歌われることによって孕まれた何か異形のものへと、異形のものの生命となったのだろう。
 今回もすさまじい物語世界を味わうことができた。
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詩集「スピラスィヨーン」  北岡武司  (2011/01)  和光出版

2011-02-18 21:56:12 | 詩集
 第3詩集。102頁に31編を収め、秋山基夫の濃密な栞が付いている。装幀は、1年前に美術雑誌「版画」で特集が組まれていた版画家の高原洋一。
 詩集タイトルは聞き慣れないフランス語だが(著者はドイツ語の大学教授であるが)、あとがきによれば、「三位一体の父と子から聖霊が発出する仕方を指す神学的概念である」とのこと。語源的には、”呼吸”からきているらしい。そして、吸気がアスピレ、呼気がエクスピレとなる。
 「産道をでるとすぐ息を吸った」とはじまる「アスピラスィヨーン」は、人が生きていくときに欠かせない呼吸を主題にしている。それは、人が大いなる者に生かされている存在であることへと関連されていく。われわれは「ひょっとしたら神さまの/吐く息で地上に投げだされたのか」とまで思ったりもする。そして生きていくことは、何かを懸命に吸い込み、何かを吐きだすことなのだ。

   アスピラスィヨーン
   混じりけないスピラスィヨーンへの憧れ
   思いきり息を吸い込み 胸をふくらます
   エクスピレするために
                           (最終部分)

 作品は親しみやすいものとなっていて、気取り屋でお洒落な、それでいてちょっとしたことにもいじけやすく、ものぐさでいながら恋を夢想ばかりしていて、他人に対して臆病なくせに簡単に騙されてしまう純粋さを持っている、そんな著者が等身大であらわれている詩集である。
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詩集「東京暮らし」  平井達也  (2011/02)  コールサック社

2011-02-16 17:35:06 | 詩集
 第1詩集。127頁に38編を収めている。
 作者は1964年生まれであるが、作品に流れる感性にはとても若々しい印象を受ける。年齢を重ねるにつれてほとんどの人は処世の巧みさを身につけていく。それにしたがって打算も知るし、老獪にもなっていく。ところが、この詩集に収められた作品はそれらと無縁の地点で書かれている。それが、(ときには鼻につくこともある)若々しさとなっているのだろう。
 その表現にもまっすぐに向かってくるものがあって、小気味よい。たとえば、「私の肝臓のために/生ビールをお代わり/そろそろ倫理が/古い運河に眠るころだ」(「水曜日の焼き鳥」より)とか、「ターミナル駅構内の蕎麦屋に/忘却への意志がこもってゆく週末/かき揚げのふやけた衣から/脂っこいときめきがのぞいたりもする。」(「土曜日正午、蕎麦屋」より)とか。
 「夜に引っかかる」という作品には、まゆちゃんが登場してきて、

   まゆちゃんの伸ばした爪が割れてしまった
   磨いてきれいに塗ったのに割れてしまった
   泣くかな と思ったら 笑っていた
   きっと爪ばかりではなかったのだろう
   まゆちゃんはいろいろなものを
   ていねいに磨いて 好きな色に塗って
   でもいつもすぐにそれは
   割れてしまうのだ
                        (「夜に引っかかる」冒頭)

 ぼくたちはこれから別々に街をゆくのだが、ふたりとも、割れた爪の断面のようにごつごつとした夜の出っ張りに引っかかるのだろうと思っている。辛いことには慣れてしまったような、何の衒いもないその思いがしみじみと伝わってくる。
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