瀬崎祐の本棚

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くり屋  52号  (2012/02)  広島

2012-03-30 22:53:25 | 「か行」で始まる詩誌
 「磨り硝子の街を」木村恭子。
 私がまだ若かった頃に、庭に干してあった祖母の足袋が盗まれた。竿を使った足袋泥棒は、片方を盗ったときに私の影に気付いてもう片方を残して逃げていったのである。足袋の「白い部分が持ち上がって遠のき すっと消えていった」その光景は、磨り硝子越しにぼんやりと見えて「その不思議な出来事も又格別に美しかったのである」。
 年月を経て、日常生活で忘れごとが多くなってきている。そんなある日に、

   磨り硝子の街を 私の影に驚いた男が 細い竹竿を振
   りかざして 歩いていくのである
   片方の手に何か一つを大切そうに隠し持ち 霧の中の
   慣れない道を唄うような足取りで
   やがて大通りに来ると信号を待ちながら おまえ 年
   とったなあ 一度だけ振り向いてそう言う

 加齢による記憶力、注意力の低下は、否応なく誰にでも訪れる。そんな脳の働きの衰えは、若い頃のことを思えば、自分自身にもどかしくなるような気持ちを招く。すべてのものから鮮明さが失われ、磨り硝子越しの光景のようになってくる。
 しかし著者はそんな自分を愛おしく思っているのだろう。足袋泥棒が盗んで「大切そうに隠し持」っているのは、若かった頃に私が持っていたはずのものなのだろう。もはやそれを返してくれるはずもないのだが、そのことを客観的に、諦観のような気分も混じえて見つめている。
 光が乏しくなってきた黄昏にも似て、少し寂しいが穏やかでもある心象風景のようだ。
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Quake  53号  (2012/01)  神奈川

2012-03-29 19:49:48 | ローマ字で始まる詩誌
 「挙手」奥野祐子。
 右手を挙げた姿勢、それはなにか意見を言おうとする意思表示だったのだろう。なにか、その提案では受け容れがたい事柄があったのだろう。
 しかし、手を挙げれば「ガツンと重力」がのしかかり、「肉は垂れ/骨はきし」む。これまでの自分の生き方がのしかかってくる。私(瀬崎)も、他人にきちんと向きあうのは大変なことなのだなと思ってしまう。だから話者は、そのままの姿勢で倒れこんでしまう。すると、

   ひらめくように わかった!
   こうやって少しずつ
   今も世界は崩れているのだと

 挙げた右手はなにかを求めていたのだろう。そうやって、わたしは一生懸命生きてきたのだろう。しかし、

   十年は すさまじく硬く
   とりかえしのつかない運命は
   卑怯なくらい 些細なことで決まってしまう
   たとえば
   不意に右手を挙げて
   タクシーを止め
   上ずった声で 早口に行き先を告げる
   それだけのことで
                      (最終部分)

 ああ、これはこんな風に感じるときがあるなあ、と思える瞬間を見事に捉えている。
 自分に嘘をつくまいとしている一生懸命さが小気味よい。「些細なこと」と言いながら、それに対しても責任をとろうとしている決意があるように感じとれる。そんな感情が素直に伝わってくる作品。
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詩集「ゴシップ・フェンス」  南原充士  (2012/04)  洪水企画

2012-03-27 19:15:37 | 詩集
 第9詩集。131頁に54編を収めている。この5年間に出された4冊目の詩集で、とにかく表現欲にあふれていることがうかがわれる。
 これまでの南原の作品の根底にあったのは物語である。この詩集でも前半の作品はやはり言葉を伝達することを意図している。伝達してあらわそうとしていることは、とりとめのないことなのだ。そのあたりが、たわいもなく面白い。
 詩集の後半には、なんの脈絡もなく思いついた語句が並べられたような作品が増えてくる。あとがきで著者は、「次第に言語は自他の垣根を越えて自立した芸術表現へと変容していった」としている。ときにそれは駄洒落に近い言葉の音から連想されたような語句だったりする。あえて意識が捉える前の状態の言葉を並べてみているようだ。無意識下でつながる言葉の面白さを狙ったと思われる。

   リセットされた車が際限なく走る
   卵を投げつけた頭部も血だらけの顔面も
   片付けられてすましたダンディズムが鼻歌を歌う
   パルファムを匂いたたせる女に引き寄せられて
   よそみする街角で衝突が起きる
                       (「海に向かって」より)

 とにかく、考える前に書いている。実際にはそんなことはできないのだが、あえてその意識で言葉を書きとめている。そのために実験的な作品と思われるものも含まれてきている。いずれ、さらに奇天烈な作品が生まれてくるのではないだろうか。
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怪傑ハリマオ  8号  (2011/12)  長野

2012-03-24 11:15:35 | 「か行」で始まる詩誌
 名前から嬉しくなる詩誌をいただいた。B5版、中綴じ、52頁で、用紙は目にどぎつい黄色。詩2編のほかは、日録やエッセイ、それに29頁に及ぶ「編集後記その他」である。

 「花房のふじいさんに」今村秀雄。
 今村の作品はいつも暴力的である。小手先で操作する思惑などはまったくに無視して、書きたいことをずんずんと書いてくる。小気味がよい。
 セーラー服のふじいさんの細い腕にぼくが腕を並べると、「いまむらくんのアホ!とうつむいて笑って/彼女の指がそっとぼくの腕に触れた」のである。それだけでもうぼくは「甘い欲望の角っこを曲がった」のである。そのふじいさんの従兄妹(いとこ)の藤井君はでかくてうすのろなのである。ぼくたちは藤井君のパンツを脱がしたりして苛めるのである。
 藤井君は母子家庭で、お母さんととても仲がよかったのだ。一、二年経った夜の道で、自転車を漕ぐ藤井君の腰につかまった荷台の人影を見かける。お母さんかと思ってみると、それはふじいさんだったのだ。

   もう高校生の制服を着てふっくらとした少女が
   街灯の光でこちらをふり向き
   白いつぼみが開いたような ほほ笑み
   いまむらくんのアホ!とささやかれたようで
   そうか、ふじいさんと藤井君は従兄妹ではなく
   ふじいさんが藤井君のお母さんだったのか
   と ぼくはふと考えたりして

 少年時代の淡い欲望がねっとりとしていて、それでいながらどこか清々しい。欲望があってもそれが純粋だからなのだろう。こんな風に書けたら気持ちがいいだろうなあ、と思ってしまう作品。
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獅子座  18号  (2012/02)  愛知

2012-03-22 20:40:14 | 「さ行」で始まる詩誌
 「明日」里中智沙。
 右手の小指から親指に向かって、順にマニキュア(最近はネイルケアを略してネイルとも言うようだ)をしている。

   すると指先に
   遠くから 満ちてくるけはいがあり
   それは夏空に照らされたうず潮のように
   だからいちまいずつ愚直に塗るしかなく

 マニキュアをしている間に訪れてくる女性ならではの感性が詩われている。こればかりは(女装をしたことがないので)経験のしようがないのだが、ああ、そうなのか、と納得してしまうものがある。
 それにしても「満ちてくる」のは何であるのあろう。いちまいずつ次第に塗られた爪が増えていくのにつれて、私の心の中に満ちてくるもの。それはなにか喜びごとへの期待のように思われる。

   (略)十枚の爪
   を 夜の灯りに透かして
   しばらくは何も触らないように
   ひたひたと わたしは満たされている

 明日、何事かがあるのだろう。マニキュアはそれに向けての身支度のひとつなのだろう。マニキュアが乾くまでの間、不自然な手の位置で待つという行為も、儀式の前準備のような気の高ぶりに満たされているのだろう。素直に気持ちの好い作品。「ひたひたと」という言葉がよく効いている。 
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