117頁に32編をおさめる。栞のような形で本人の「覚え書き」がはさまれている。
夢の中には父や母が私に会いにあらわれる。それは私が会いたくて迎えようとしているからだろう。時間の流れは容易に跳び越えられ、人の生死も跳び越えられ、心の中で大事なものだけが万華鏡のようにつぎつぎに鮮やかな場面をかたち作ってくれる。
たとえば「靴をはいてこなかった/はだしでもいいですか と聞いてはみた」とはじまる「奥沢町六番地」は汽車に乗って奥沢町を訪ねる話。その汽車は時々、野原の駅に停まっているようなのだ。隅の椅子には父さんがいたりする。
まさか虎を見にいくんじゃあないでしょ と
聞いてやった ああ あれはおまえの曾祖父の時代のことだよ
と答えた でもよく見るとそう答えているのが曾祖父さんなので
なんともおかしいのだが 汽車は雨の中をどんどん
走って ああ そうだ 靴をはいてなくても
平気かな と聞いてみた 暗い足元を見ると
(以下略)
どの作品も作者の個人的な想いからはじまる物語なのだが、作品となってからは他人の物語をしっかりとその語られた世界に受けとめている。だから、どれを読んでも素晴らしく面白い。読む愉しさを味わわせてくれる。
「裏玄関を出て」は、黴が生えだしたお餅を早く食べてしまうように母をうながす話。しかい、母は「だめだよ おまえ/あたしは裏玄関から いま出かけるところさ」「だめだよ おまえ/あたしは足駄をはいて隣の村にいくんだから」などと答える。裏玄関のある家はもう50年前に焼けちゃっているのに。それでも母にお餅を食べるようにうながすと、
遠い隣の村で 蚊帳もお餅も青くうっとりと黴びているけれど
お餅はおまえがたべておくれ
あたしは遠い処にいるので 我慢して 食べておくれ
(最終部分)
夢のような、という形容でこの詩集の感想を述べるのはとてもおかしなことなのだが、捉えどころのない人の心がそれこそ夢のようにふわふわと漂っていて、満ち足りているのになんだか哀しくなってくる、そんな詩集である。
夢の中には父や母が私に会いにあらわれる。それは私が会いたくて迎えようとしているからだろう。時間の流れは容易に跳び越えられ、人の生死も跳び越えられ、心の中で大事なものだけが万華鏡のようにつぎつぎに鮮やかな場面をかたち作ってくれる。
たとえば「靴をはいてこなかった/はだしでもいいですか と聞いてはみた」とはじまる「奥沢町六番地」は汽車に乗って奥沢町を訪ねる話。その汽車は時々、野原の駅に停まっているようなのだ。隅の椅子には父さんがいたりする。
まさか虎を見にいくんじゃあないでしょ と
聞いてやった ああ あれはおまえの曾祖父の時代のことだよ
と答えた でもよく見るとそう答えているのが曾祖父さんなので
なんともおかしいのだが 汽車は雨の中をどんどん
走って ああ そうだ 靴をはいてなくても
平気かな と聞いてみた 暗い足元を見ると
(以下略)
どの作品も作者の個人的な想いからはじまる物語なのだが、作品となってからは他人の物語をしっかりとその語られた世界に受けとめている。だから、どれを読んでも素晴らしく面白い。読む愉しさを味わわせてくれる。
「裏玄関を出て」は、黴が生えだしたお餅を早く食べてしまうように母をうながす話。しかい、母は「だめだよ おまえ/あたしは裏玄関から いま出かけるところさ」「だめだよ おまえ/あたしは足駄をはいて隣の村にいくんだから」などと答える。裏玄関のある家はもう50年前に焼けちゃっているのに。それでも母にお餅を食べるようにうながすと、
遠い隣の村で 蚊帳もお餅も青くうっとりと黴びているけれど
お餅はおまえがたべておくれ
あたしは遠い処にいるので 我慢して 食べておくれ
(最終部分)
夢のような、という形容でこの詩集の感想を述べるのはとてもおかしなことなのだが、捉えどころのない人の心がそれこそ夢のようにふわふわと漂っていて、満ち足りているのになんだか哀しくなってくる、そんな詩集である。