瀬崎祐の本棚

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詩集「さんま夕焼け」  小柳玲子  (2011/10)  花神社

2011-10-31 19:25:47 | 詩集
 117頁に32編をおさめる。栞のような形で本人の「覚え書き」がはさまれている。
 夢の中には父や母が私に会いにあらわれる。それは私が会いたくて迎えようとしているからだろう。時間の流れは容易に跳び越えられ、人の生死も跳び越えられ、心の中で大事なものだけが万華鏡のようにつぎつぎに鮮やかな場面をかたち作ってくれる。
 たとえば「靴をはいてこなかった/はだしでもいいですか と聞いてはみた」とはじまる「奥沢町六番地」は汽車に乗って奥沢町を訪ねる話。その汽車は時々、野原の駅に停まっているようなのだ。隅の椅子には父さんがいたりする。

   まさか虎を見にいくんじゃあないでしょ と
   聞いてやった ああ あれはおまえの曾祖父の時代のことだよ
   と答えた でもよく見るとそう答えているのが曾祖父さんなので
   なんともおかしいのだが 汽車は雨の中をどんどん
   走って ああ そうだ 靴をはいてなくても
   平気かな と聞いてみた 暗い足元を見ると
   (以下略)

どの作品も作者の個人的な想いからはじまる物語なのだが、作品となってからは他人の物語をしっかりとその語られた世界に受けとめている。だから、どれを読んでも素晴らしく面白い。読む愉しさを味わわせてくれる。
 「裏玄関を出て」は、黴が生えだしたお餅を早く食べてしまうように母をうながす話。しかい、母は「だめだよ おまえ/あたしは裏玄関から いま出かけるところさ」「だめだよ おまえ/あたしは足駄をはいて隣の村にいくんだから」などと答える。裏玄関のある家はもう50年前に焼けちゃっているのに。それでも母にお餅を食べるようにうながすと、

   遠い隣の村で 蚊帳もお餅も青くうっとりと黴びているけれど
   お餅はおまえがたべておくれ
   あたしは遠い処にいるので 我慢して 食べておくれ
                             (最終部分)

 夢のような、という形容でこの詩集の感想を述べるのはとてもおかしなことなのだが、捉えどころのない人の心がそれこそ夢のようにふわふわと漂っていて、満ち足りているのになんだか哀しくなってくる、そんな詩集である。
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詩集「乱反射考・死精」  丸地守  (2011/10)  書肆青樹社

2011-10-26 23:32:25 | 詩集
 第10詩集。103頁に20編を収める。
個人の思惑を越えた事柄に思いを寄せている。個人の関わりを離れたところから人の営みや、自然の営みを見ようとしている。そこには理不尽な世間や歴史に対する強い義憤があり、それを引き受けようとする自己抑制がある。しかし、それゆえに作者の作品となっているのである。
 2009年に詩誌に発表されている「肩にいつも」は、「肩にいつも/声が並ぶとは限らない」とはじまる。そしてこの作品は、逃げそびれたおさな児や老いたちち、ははが海に呑まれ、あるいは渚に打ち上げられ、と、津波を思わせる天変地異による死を詩っている。

   ぼくは 目を閉じようとは思わない
   閉じれば赤いオーロラが 炎を連れて
   たちまち降りてきそうだから
   失意の馬の首が 大きな疑問符となって
   ぼくの身の内の奥底深くにまで
   雪崩れてきそうだから
                     (最終連)

 直接的に惨状が詩われているのではなく、そのような惨状をもたらした非情な運命に対する慟哭が詩われている。だから主題は惨状ではなく、それに向きあっている自己なのである。
 4つの断章からなる「秋霜の道」は文字通り、道上での思索である。軽い感じで書きながらの味わいがある。

   碑の下には
   星の行方を見失ったものたちの死体が埋まっている
   だが死体の背骨のかたちは一貫している
   ひび割れの隙間から
   幻めくものが舞い上がっては
   まだ来ぬ明日を掴もうとしている
                     (第1連後半)
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詩集「まひるにおよぐふたつの背骨」  タケイ・リエ  (2011/10)  思潮社

2011-10-24 21:50:04 | 詩集
 第2詩集。91頁に最近の2年間に書かれた20編を収める。川口晴美のすばらしい栞が付く。
 肉体が絡みついてくる。肉体といっても筋肉とか骨とかの固形の部分ではなく、そこから分泌される粘稠な液体がねっとりと絡みついてくる。だから、形を見定めようとしても捉えがたい。それが発する匂いはとても香しいようでもあり、ときに腐臭のようでもある。

   いずれ山鳩は石
   石は脆くこぼれ落ち
   ぱらぱらに砕かれた種子になる
   種子は年月をたっぷり孕み
   あなたの深い腹の底に宿る
   そのときのあなたは
   種子の顔をよく知っているはずだ
                   (「山鳩」最終部分)

 肉体が絡みつくと言ったが、ここにある肉体は”女性”ではなく”母性”である。だから、「ゆびは糸を引いて/思いだしてもつれる舌/まじめに修正してゆく顔/わたしの中をすすむよじれ」と、いくら性愛が詩われても、命を育むために男の肉体は利用されるだけで、終のところでは排除されているようだ。

   上目遣いで蕾は舌を出しながら成長してゆく楽にならな
   い赤い舌が浮かばれぬまま迷子のように笑うから土に埋
   めておけば誰かが掘りかえしてくれることを願ったりす
   る私たちはときどき好きになったり離れたりするだけで
   「蕾を焼いて逃がすその手を、いつかは忘れたいのよ」
                    (「蕾」最終連)

 発せられる言葉は肉体の自覚からはじまって、しだいにその肉体を支配している情動へと降りていく。理屈や説明ではなく、感覚。それを注意深く言葉に置き換えている。しかし言葉自体はどこまで行っても感覚に追いつくことはない。それが言葉としての役割だから。それでいながら、作品として書きとめられたときに、実に、言葉は感覚を超している。それがこの詩集に収められた作品の魅力だ。
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詩集「ろうそく町」  伊藤悠子  (2011/10)  思潮社

2011-10-21 22:14:34 | 詩集
 第2詩集。94頁に26編を収める。
 作品は「私」や「わたし」の一人称で書かれているのだが、どの作品でも話者は自分の立っている位置に戸惑いを感じているようだ。だから自分を見ることを止めてしまっている。そして周りの人々の立っている位置をたしかめては、自分の位置を測っている。それはとても不安定な方法である。確かなものはなく、いつも気持ちが揺れている。
 「静夜」では夕暮れの病室にいる作品。窓辺には縁が一箇所欠けた鉢にベゴニアが植えられている。そして「死にゆく人が横たわっている」。

   死にゆく人が死にきったら
   ベゴニアの鉢の処まで行き
   やはり欠けていることを知る
   欠けたかけらはどこにあるのか
   外は暮れており
   戸口に犬の影はなく
   肉色のかけらはひとつの形見として
   夜が待っている
                    (最終部分)

 悲しみとかの表現ではなく、その人が不在になることが私の存在に突きつけてくる怖れを詩っている。欠けたものが形見になって、これから先の私が夜に向かわざるをえない感覚が、巧みにあらわされている。
 老人ホームを訪ねる「月から目をそらし」の最終部分も紹介しておく。

   眠る人はいつからか
   そこはかとなく
   川を
   身内に抱いているように思われるときもあります

   もう目を合わせることはありません

 身体の中の流れに川のイメージを重ねることにはそれほどの新味はないが、その後の突き放したような唐突な1行が印象的だった。眠る人を自分の意識から切り離そうとしている。自分は眠っていない人だったのだな。
 古い地図に載っている町へろうそくを売り行こうとする「ろうそく町」は、民話のような語り口がどこまでも妖しい。詩誌発表時に感想を書いている。
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詩集「ものがたり」  瀬尾薫  (2011/10)  三宝社

2011-10-19 21:31:21 | 詩集
 ほぼ正方形のソフトカバー、62頁に28編を収める。
 自分にも憶えがあるような、懐かしい感覚を無駄のない言葉で切りとっている。たとえば、「サイダーの栓をぬくと/待ちかねたようにあふれだす 夏」と始まる作品「サイダー」。感覚が澄んでいて短く途切れる詩行は、たくさんの事柄を省略して書きとめられている。そして、かつての夏休みの感覚を上手く捉えている。

   コップの中
   小分けにされた夏は
   不機嫌
             (「サイダー」最終連)

 「訪問者」では、話者は「どうして 今ごろ/あのひとが 訪ねてきたのだろう」と訝しがるのだが、おまえは「誰もきてやしませんよ」と答えるのである。しかし、あの人は、お前がまだ赤ん坊だったときに来て、笑わない目で「幸せな奥さん って」何度も言ったのである。

   うすいカーテンが ガラス戸越しの陽をすかし
   織り模様を床にのせる午後だった
   揺り椅子にまどろむ私を訪ねてきたのだよ
   あの わらわない目で

    誰も来てやしませんよ
             (「訪問者」最終部分)

 おそらく、作者は”おまえ”であり、話者である年老いた母のもとへ、かっての因縁に決着をつけるために”あのひと”が訪れているのだろう。あのひとは亡くなる前に母を訪れる宿命があったのだろう。謎めいた会話が奥行きを深くしている。
 詩は理屈ではないから、言葉の裏にたくさんのものを隠している。この詩集の作品もその魅力で読ませている。ただ、それがあまりにも過剰だと、ときに肩すかしを食らったような気分にもなってしまうのだが。
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