瀬崎祐の本棚

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詩集「タンサンのパンケーキ」 中井絵美 (2020/06) 砂子屋書房

2020-07-31 18:06:46 | 詩集
 95頁に21編を収める。
 「秘密」。 他人に知られたくない事柄は、名札を剥がした小箱に詰めて「誰も知らない島の 岸壁から/海に沈める」のだ。それは他人から隠すことでもあり、それよりも何よりも自分の中から消去することだったのだろう。それなのにその小箱は自分の身体の中にあるのだ。小箱に入れるという行為そのことが、かえって自分に対する秘密を作っているのだろう。だからその秘密は、

   夜明け前の色をした
   仄暗く温かい大地へ
   根は迷いなく伸ばされ
   肉の繊維に食いい込んで
   一つの動脈のように肥えてゆく

 誰でもが経験したことがあるであろう感覚を、巧みな喩としてあらわしている。そうして自分がとらわれるほどに秘密は不滅のものとなり、「無数の言葉の嵐の中に/別の景色を見せたりする」のだ。

 このように自己をどこまでも見つめる作品もあるのだが、その一方で、「幌」や「森の名」のように、社会を広く見据えての問題意識を詩った作品もある。

 「タンサンのパンケーキ」は祖母の思い出の作品。「タンサン」とは重曹(炭酸水素カルシウム)のことで、祖母がパンケーキを作るときに発泡剤として使っていたもの。入れすぎると苦くなるようなのだが、今ではその苦さが記憶となっている。

   信じていないものが祈るな
   真っ暗な夜道にいつも待っていてくれたのは神ではない
   海水浴の塩を落としてくれたのは
   一人で誕生日を祝ってくれたのは

 こんな記憶を仕舞った小箱であるならば、いつまでもとっておきの場所に置いておくだろう。いつでもそれは心を休ませる景色を見せてくれるだろうから。

 「風」。木の机に残された疵痕をなでるように、さまざまな時間がかすかな風となって話者の周りを吹き抜けていく。他者との諍いで擦り切れそうな息をするときもかすかな風は吹いている。

   気づくとすぐ横を
   白い大きな鳥が飛んでゆく
   この土地に
   何億年も前から吹いている海風に乗り
   その大きな羽で
   世界の底を攫う

 きっと、こうして風は時間を運んでいくのだろう。
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詩集「シリウス文書」 秋山基夫 (2020/06) 思潮社

2020-07-27 22:45:06 | 詩集
 108頁に多様な性質の作品16編が収められている。帯には「詩はジャンルなのか、文体なのか。」という一文がある。この詩集で、秋山は、詩とは何か、という大命題を投げかけてきている。

 たとえば、冒頭の「マンダラ」は、版画家の高原洋一や書家の曽我英丘とのコラボレーションとして制作されたものである。また次の「パープルレター」は金井美恵子の小説「夢の時間」とコラボレーションして生まれたかのようである。

 「和歌二十八首を読む」では、柿本人麻呂や在原行平、正岡子規から北原白秋などの二十八首をとりあげ、その一首ごとに1行30文字の文をいくつか書き付けている。有名な藤原敏行の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」には次の2行が続いている。

   死んだ人が植えた庭先の細い竹がかすかに揺れかすかに音をたてる
   死んだ友と別れた女しか思い出せないこんなことでも一生だろうか

 別の和歌に添えられた一文には、「きみよなげくなかれわれらかってシリウスに在りて戦せしことあり」とあった。

 この作品は、詩で和歌観賞の手引きを書いてみたということなのだろう。確かに他人の和歌とコラボレーションした詩として読むことができる。では、何故私(瀬崎)はこれを詩と感じるのだろうか。
 かって秋山は、行分け詩の行替えをなくして散文風に書いたときに、それでもその作品は詩でありうるか、という疑問を投げかけていた。逆に言えば、単なる散文を適当に行替えして詩だと言っているだけの作品があると糾弾していた。それは、詩であるためには何が必要であるのか、ということである。そう言われると、自分の書いているものは果たして詩なのか、と思わず自問してしまう。

 この詩集には「私小説」「随筆」というタイトルの詩も収められている。先の和歌鑑賞の手引きと同じように、元はそれぞれの散文であるものを詩で書いてみたということであろう。そして、これは詩でしょうか?という疑問を突きつけてきているのだ。
 これが詩であるならば、何故詩でありうるのか? またこれは詩でないとするならば、何故詩ではないのか? それは同時に、逆の、随筆や小説はなぜ詩ではないのか、という疑問も投げかけてくる。

 私事になるが、私(瀬崎)はいくつかの散文詩と掌編小説を比較検討して、その違いを考えたことがある。結論としては、小説では物語があくまでも作者の外側に作られるが、詩ではその物語は作者の内側に引き込んだ地点に作られる、ということだった。それゆえに小説と詩では用いる言葉の意味性も根本的に異なるのだということにも結びついていく。

 秋山はこれまでに「詩行論」「引用詩論」といった詩の本質に迫る詩論集を出している。今回の「シリウス文書」は、詩で詩論を書いてみた、と言っているような詩集だった。
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「ひょうたん」 71号 (2020/07) 神奈川

2020-07-22 21:39:46 | 「は行」で始まる詩誌
東北から関西までの19人が集まり、44頁。

「Beastの爪」長田典子。
どこからか出現して世界中に死者をあふれさせるbeastは、新型コロナウイルスのような何らかの感染を起こす厄災なのだろう。わたしの赤ん坊やわたし自身が危険にさらされている。高い致死率を伴う感染症の最大の問題点は、他者との接触が危険因子であることだろう。人は分断され、他者は拒絶される。辛いことに、それが自分の命を守る方法となってしまう。

   朝いちばんに洗濯物を干す
   五月晴れの青い空が大好き
   若葉や躑躅の香る風が大好き
   こんがり焼いたベーグルにクリームチーズを塗って食べるのが大好き

こんなことを他者と共に楽しめる日々が早く訪れることを願っている。

「おおきな木の下で」相沢正一郞。
いつの間にかにわたしの靴や帽子が置いてある木の下で、わたしは誰かを待っている。しかし、ある日、そこにあったのは汚い帽子と古靴だった。どこかの「浮浪者が、わたしの帽子と靴を取り替えていったんだろう、きっと。」

   わたしはもう、ここで誰を待っているのか、・・・・・・待っていることさえ忘れてしまった。
   足もとの池も涸れ、わたしが水たまりを覗きこむと、見知らぬ老人の顔が水にゆれて
   いる。

何気ない風で始まった作品は、ついには大きな時の流れをつくっていく。話者の意識はその流れに取り残されているのだが、受容するしかない無情さが伝わってくる。巧みな語り口を楽しんだ作品だった。 
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「虚数と半島」4号(2020/07)千葉 /「孔雀船」96号(2020/07)東京 /「Down Beat」16号(2020/07)神奈川 

2020-07-18 00:33:11 | 「か行」で始まる詩誌
同人誌に載っていたいくつかの散文についての感想を書く。

「虚数と半島」は尾世川正明の個人誌。
その4号に「今日また読んでいる詩」として荒川洋治の作品を挙げている。尾世川は、「詩とはクオリアを刺激する書かれた言葉の繋がりであり、知識や主張や、ましてや物語でもない」として荒川作品を楽しんでいる。
詩集「娼婦論」や「水駅」、「鎮西」などの初期詩集は私(瀬崎)もうっとりしながら読んだものだった。その後、私は荒川作品から離れてしまったのだが、尾世川は最新詩集「北山十八開戸」まで、その詩風の変化も受け入れて荒川作品を評価している。
私が単に差し出されたものとして作品を受けとめているのに比して、尾世川は差し出す作者までも含めての作品として受けとめているのだろう。

「孔雀船」96号に掲載されていた特別寄稿「『ジー・エス』~芸能生活に旋風を巻き起こしたあの頃」は、元カーナビーツの二代目ボーカリストであるポール岡田のエッセイ。
どういう経緯でこれが載ったのかは判らないが、あの頃を知っている者には大変に興味深いものだった。
このタイトル”GS”からグループ・サウンズを思いつける年代の人には、へえ、そうだったのか、というような、14頁にわたる当時の業界の裏話である(記憶のあいまいな方に注釈すると、アイ・高野が片耳に手を当てて「おまえのすべて~」と歌っていたのがカーナビーツです)。
もちろん「孔雀船」では、望月苑巳の連載エッセイ「眠れぬ夜の百歌仙夢語り」の自虐ネタ話も毎号楽しんでいる。

「Down Beat」16号の近況報告欄に廿楽順治が書いている文章は共感を呼ぶものだった。
いわく、「思想をやるなら最初からつるむな、と若手としてはと言いたい。」と。私(瀬崎)は若手ではないが、私も同じことを言いたい。
少し長くなるが引用する。「大衆におもねらない自由、とか擁護する能書きはいくらでもあると思うが、そういう能書きそのものが抑圧的に響く。かといってみんなにわかる言葉、というのも偽善的にみえる。そういうことじゃないんだよなあ、と双方からはじかれてブラブラしている。」
ああ、いいなあ。私も「Down Beat」に入りたいぞ。
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詩集「熾火をむなうちにしずめ」 斎藤恵子 (2020/04) 思潮社

2020-07-14 23:00:44 | 詩集
 第6詩集。100頁に27編を収める。

 齋藤の作品の魅力のひとつに、話者に忍びよってくる不気味なものの気配がある。それは話者が置かれた場所に潜んでいるようなのだ。「見知らぬ町」では、きのう歩いた見知らぬ町で馬の骨が放熱していて「わたしの路をよじり逸らせる」のだ。その場所でわたしは何ものかに変容していくようだ。

   いななきに似た風が逆巻く
   小学校の向こうから
   錆びた階段を昇る蹄の音がする

 わたしに近づいてくるものがあるのだろう。しかし、実はわたしがそのものに向かっているのかもしれない。

 「野茨」では亡くなった人の名を川へ流す人がいる。

   わたしのなかにもひとの名があって
   ゆび先をつめたくし
   濡れたきれいな石をむなうちに落としこむ

 齋藤の作品ではほとんど時間が流れない。燃えさかる川はしずかに流れてくるのだが、それからは切りはなされたように、作品世界はいつも話者が佇んでいる今である。話者はいつまでもそこに立ちつくしている。それはその世界を受容していることであり、ある種の諦めのようでもある。それらが斎藤作品の根底に流れる寂寥感に繋がっていくのかもしれない。

 そのように作品の今として切り取られた光景に向き合う話者は静かに佇んでいる。そして、どの作品でも今から始まる物語の予兆とともに読者から去っていく。たとえば、百舌鳥が高鳴きして鉄路のそばの草も高くなる「逮夜(たいや)」では、去った人を偲んでひとは無音で踊っている。そして最終連は、

   貌のような窓が連なり
   思い出そうとする
   だれもいない

夕刻に電車が走り去っていく「月見草」では、わたしは「踏切のそばで月見草になる」のだが、その最終連は、

   鉄橋の下
   鈍色の水面がゆらいでいる
   ぬるんだ月が生まれている

 どこかに向かおうとした作品でもいつかは終わりを迎える。どこが作品の終わりになればよいのかは見極めが困難な事柄であるが、齋藤の作品ではわずかに身じろぎしていた時間がひとつの光景で静止する。そして、その静止が、先に触れた物語の予兆として、どこかへ向かおうとする気配を見せている。静かに広がっていく世界を内包した詩集だった。
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