今年もきれいな紐で綴じられた掌詩集がとどいた。毎年の新年に届けられ、これが6冊目。20字×12行ぴったりに書かれた散文詩12編が収められている。
冒頭の「苺月」の中に「感情の、そのままの肉。いつも赤く濡れて、/そっと触れてさえ痛むものを、素手で掴む、掴/まれる。」という部分がある。苺の果実の内面へ降りていくような部分なのだが、これはそのままこの掌詩集の特質をあらわしているように感じられる。冷たく濡れていてどこか悪意のような痛みをもたらす、そんな感情をここに収められた詩編は静かにすくい取っているようなのだ。
「綿毛」。閉じられた官舎には薊が生え「官能すべてで痛がっている」。古い畳や蒲団は捨てられ、腐って地に帰ることを待っているのだが、
緑や紫の畳縁が残り、はみ出た綿に、私的な
浸潤や汚濁を目にする気まずさがある。ぼわ
ぼわと飛ぶ綿毛、あれも薊、猛々しい。下肢
にまとわって刺さるんだってよ。
ここでも単なる光景をこえて、なにか目を背けたくなるような、直視できないようなものが、それこそ”まとわって”くるようだ。忘れられようとしたものが絡みついてくるのだ。
「終極」では「ガラスとともにあなたが割れるとき」がくる。ガラスの破片を呑みこまぬように、との注意書きがあるようだ。
うどん屋の角を右に曲がると、看板には金魚
熱魚とあった。足下の四つの点々に次々と炙
られて、発するのは情か狂、つまりそういう
猫類の目になる。声も漏れるが、命じられ、
熱魚を、つるつる掬い、吊して干していく作
業につく。
終極ではどうなるかというと、「破片も熱魚もきっと飲んでしまう」予感が話者にはあるのだ。これらの作品には、どこまでも湿った感情が身体を濡らしてくるような、美しいのだが同時に怖ろしい言葉が積み重なっている。
冒頭の「苺月」の中に「感情の、そのままの肉。いつも赤く濡れて、/そっと触れてさえ痛むものを、素手で掴む、掴/まれる。」という部分がある。苺の果実の内面へ降りていくような部分なのだが、これはそのままこの掌詩集の特質をあらわしているように感じられる。冷たく濡れていてどこか悪意のような痛みをもたらす、そんな感情をここに収められた詩編は静かにすくい取っているようなのだ。
「綿毛」。閉じられた官舎には薊が生え「官能すべてで痛がっている」。古い畳や蒲団は捨てられ、腐って地に帰ることを待っているのだが、
緑や紫の畳縁が残り、はみ出た綿に、私的な
浸潤や汚濁を目にする気まずさがある。ぼわ
ぼわと飛ぶ綿毛、あれも薊、猛々しい。下肢
にまとわって刺さるんだってよ。
ここでも単なる光景をこえて、なにか目を背けたくなるような、直視できないようなものが、それこそ”まとわって”くるようだ。忘れられようとしたものが絡みついてくるのだ。
「終極」では「ガラスとともにあなたが割れるとき」がくる。ガラスの破片を呑みこまぬように、との注意書きがあるようだ。
うどん屋の角を右に曲がると、看板には金魚
熱魚とあった。足下の四つの点々に次々と炙
られて、発するのは情か狂、つまりそういう
猫類の目になる。声も漏れるが、命じられ、
熱魚を、つるつる掬い、吊して干していく作
業につく。
終極ではどうなるかというと、「破片も熱魚もきっと飲んでしまう」予感が話者にはあるのだ。これらの作品には、どこまでも湿った感情が身体を濡らしてくるような、美しいのだが同時に怖ろしい言葉が積み重なっている。