瀬崎祐の本棚

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詩集「遠い庭」 大木潤子 (2023/05) 思潮社

2023-05-31 12:21:43 | 詩集
第5詩集。139頁に、3つの章に分けられた短詩が集合して、構築物のように一つの作品を作り上げている。

巻頭に「暗い径(みち)で、鳥たちが/私の知らない歌を/鳴き交わしている」の3行が置かれている。前詩集「私の知らない歌」を受けており、今詩集では、知らなかった歌を聴き取ろうとして自分の内側をのぞき込み、またまさぐっているようだ。

   鶏の
   声のしなくなった
   遠い庭
          (14頁)

何ものかが不在となり、話者の存在場所である庭から遠ざかっていく。そこに聞こえていた声は何であったのか。もう一度声を探しあてる彷徨いが始まる。「風景に/音がなかった」のだが(16頁)、彷徨いでは「忘れた場所が/そこにあった」(17頁)りもするのだ。

   人差し指を唇に立てて、
   しいっ、と小声で言う、
   すると世界が黙って、
   見ている、
          (23頁)

このように、ⅰ章で展開する世界では時間が動かない。「空が少し/止まっている」(24頁)。情景を静止させて世界を切りとっている。
33頁でふいに挟み込まれる5行がある。

   斎藤さんから
   電話があって
   斎藤さんではない
   と言う
   わたしは斎藤さんだと思う

この何気なくも見える他者との認識の食い違いは、話者の彷徨いの様相を端的に表している。話者の彷徨いは他者から離れた地点を次第に目指しているように思えるのだ。そこでは”今日”や”明日”、“光”などが擬人化され、それらが人の営みと同じ次元で世界に存在する。
それにしても、そのような営みを捉える繊細な感覚に惹かれて詩行を読み進めるのは愉しい。読む者もともに彷徨っているのだ。

   光のゆくところ
   先端が、揺れている
   何かが
   引っかかっている
          (44頁)

ⅱ章になると、時間が動き始めて、話者と対峙する他者があらわれてくる。話者を取り囲んでいた自然の営みは背後に退き、他者との物語が生じてくる。

   濾過された悲しみの
   歌が聞こえるから
   夜は戸を閉めて
   階段を降りてゆく
   花火の上がる
   音が届く
   知らない人に
   手紙を書いて捨てる
          (60頁)

話者の歩みにつれて世界が構築されていく。そしてⅲ章ではⅰ章の静とⅱ章の動が混然と混じり合う。「立ち枯れた、木の/記憶を歩」き(107頁)、空の方に続く足跡(109頁)があり、「「音が光になったらしい」と/口々に/囁く人たち」(117頁)がいる。
そして詩集終わり近くになって”歌”があらわれる。

   鳥のいない空が、誰にも聞こえない
   声で白い歌を歌う
          (129頁)

それは他者が不在であることを示す場所そのものが歌う歌だったのだ。それは「宇宙の奥に届く声」(130頁)であり、最終頁で話者がたどり着いたのは「すると何か、とても静かなものが/降りてくる」場所であったのだ。”遠い庭”では「永遠というものが、/まるで当たり前のように、/水面で泡立っているのだった。」
作者は知らなかった歌を聞き取ったのだ。


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詩集「どきんどきん」 うめのしとみ (2023/04) 詩遊社

2023-05-26 21:30:52 | 詩集
第一詩集。 102頁に25編を収める。装幀は、いつも軽快でそれでいて謎めいた絵を楽しませてくれる上田寛子。

「散歩」。ぐにゃりとした猫を抱いて散歩に出ると、いたる所に眼が落ちているのである。幾百という眼がざわついているのである。

   池の中にも眼が浮いている
   鳥の眼 犬の眼 とんぼの眼
   ぐにゃりとした猫の眼を
   まだ明けきれない朝の空をうつした池に
   浮かして

話者は「私の眼はいつどこに/おけばいいのか」と問いかけながら散歩を終えるのだ。私(瀬崎)は、眼は持ち主だった者の記憶を映像として留めているのではないかと夢想している。人にはいつかは眼をどこかにおかなければならない日が来る。どこで記憶を振り捨てればいいのだろうか、と考えたりもする。

さて。この詩集に収められた作品はどれも何気ない口調で語られているのだが、その内容はどこか不気味なものを孕んでいる。それは他者を見つめる視線ばかりではなく、自己を見つめる場合にもそれが感じられる。さらに、対峙したものとの微妙な距離感があり、それを埋める皮肉なユーモア感がある。それによって耐えようとしているものが作者にはあるのかもしれない。
乳がんの検査に行って平田先生から気になる所見を伝えられる「南の島」でもそうだ。マンモグラフィの自分の乳房映像を「南の島の夜の航空写真のよう」などと思っているのだ。

もう一編、目が登場する作品を紹介しておく。「山里の家」。目刺しを焼いて義母と食べた夜、介護をするために長い廊下を走って行くと、「五匹の目刺しの十の目が点って」いたのだ。

   帰りの廊下には
   目刺しの目はなく
   遠い日からの古い目が点っていました
   まだ夫の目はありません
   ここに並ぶには年季がいるようです
   夫はどこでなにをしているのでしょうか

話者はこの家を出ていくことを考えている。そして誰もいなくなった家に、どこかへ行った夫の目が戻ってきてじっと点るのかもしれない。こうした怪異譚は必要としている人の所へやって来るのだろうか。
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詩集「永遠の思いやり」 万里小路譲 (2023/06) コールサック社

2023-05-20 14:55:17 | 詩集
334頁に、あとに述べるような268編の横書き詩を載せる。鈴木比佐雄の解説が付く。

万里小路は自分の個人誌「表象」に、チャールズ・シュルツ作のアメリカン・コミック「ピーナッツ」に材を取った作品を長く書き続けている。「ピーナッツ」はチャーリー・ブラウンとその飼い犬スヌーピー、そして彼らの仲間を登場人物にした4コマ漫画である。
万里小路の作品はすべて4行4連から成り、その形式は、2連目の4行に「ピーナッツ」の吹き出し部分にある英語の会話文を引用し、1,3,4連を付ける、というものである。英語部分は万里小路が訳しており、原文も作品下部に記されている。

同様の試みの作品108編は2015年に、詩集「はるかなる宇宙の片隅の風そよぐ大地での草野球」で発表されている。

「心配」の第2連に引用されているのは「眠れないの どうすればいい?」/「ただ横になって 心配するんだ/これまで起こったすべて/これから起こるすべてを」。このフレーズから万里小路は眠れない妹が兄に助言を求めるという場面を作りだしている。そして兄の助言を受けて、行きついたところは、

   一日の終わりに
   内省へと沈みこむとき
   配慮 関心 気遣い 心配
   他に何が?

万里小路は「ピーナッツ」でのメッセージを「一言で言い表せば「気楽に行こうよ」であろうか」としている。原作コミックの会話の奥には哲学的なものが何気なく孕んでいるのだが、確かに、そこで出す結論は、だからといってそんなに深刻に考えることはないよ、というものである。この設問の深遠さと結論のあっけなさからくる肩すかし感が何とも愉快である。
中には同じフレーズが二つの作品で引用されていたりもする。「どうして傘もささずに/歩いて学校に行くんですか」/「苦しむのが好きなの/苦痛はひとを成熟させるわ」というフレーズは、「苦難」および「成熟」で引用されている。同じフレーズから異なる感興が呼び覚まされるところが面白い。「苦難」の方の第4連は、

   だからであろうか
   わざわざ苦難を呼び込むのは
   しかし バディ
   苦難もまた成熟が必要なのでは

映画や音楽、あるいはある光景などを契機として生まれる作品は少なくない。しかし本詩集の作品は、コミックの中の台詞を契機として生まれたものとして、独自の位置にある。
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詩誌「歴程」 615号 (2023/05) 神奈川

2023-05-17 11:33:17 | 「ら行」で始まる詩誌
93頁に同人28人の作品を載せている。

「おもいだすこと -黒田喜夫」田村雅之。
作者はとにかく博識である。それに永年の編集者活動から、今は亡い著名詩人との交流も多かった。作者は晩年の黒田喜夫に頼まれて集めた資料を自宅に届けたのである。そしてまもなくして訃報が入るのである。葬儀には胡座をかいた中上健次や谷川雁がいたのである。

   それでも周囲に流れる空気は
   澄んだ、幾分か高貴な
   こころざしが流れていて
   清らかな時間だったことを覚えている

その人の思い出をどのように切り取るか。甘くもならず、感傷的にもならず、それでいて故人を悼んでいる作品となっていた。

「刀身」中井ひさ子。
「研いだばかりの/短刀」に対峙している。無駄を省いて、ただ切るという目的のためにだけ鍛えられた存在があるわけだ。そのように研ぎ澄まされると、物でありながら精神性まで孕んでしまうようだ。

   瞬時に
   相手の思いが
   刀身に映るって
   ほんとか

短くそろえられた詩行が短刀の鋭い切れ味をイメージさせて成功している。最終連は1行だけ。「切られたのは私か」。お見事。

「アンモナイトホテル」黒岩隆。
浜辺でホテルの名前を忘れた夢を見た私は「浜辺に置いてきた/迷子の私が心配になる」のだ。だから、もう一度夢に入って「駐在所の前のベンチで/白い巻貝を蹴っている私に」教えてやろうと思うのだ。

   ほら
   その巻き貝に入るんだ
   桃色回廊の
   ドアを次々開けてゆけば
   祖母がいる
   母がいる
   まだ生まれない砂粒の私がいる

タイトルは迷路のように螺旋形に部屋が続くホテルを想起させる。そこでは時間も空間も捻れていて、どこまでも懐かしいものを探すことになるのだろう。

編集後記に「新藤涼子さんを偲ぶ会」が開かれた旨が記載されていた。
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詩誌「詩杜」 8号 (2023/05) 大阪

2023-05-12 08:04:38 | 「さ行」で始まる詩誌
23人の同人で年1回の発行、102頁。

「イチゴ動物」竹島浩一。
「今朝イチゴ動物が庭にやってきたので/みずをやりました」と始まる。作品は娘さんが家から旅立つ日のことを詩っている。喜びと不安と、親心の(ことさら男親の?)感慨がある。

   頭がイチゴで体は小犬の生き物が
   それを描いた生き物が
   大きく育って
   空港に向かった

何だろうと思っていた”イチゴ動物”は最終連で明かされていた。娘さんを空港まで見送らなくていいのかい、などと他人事ながら心配になってしまった。そんなことを思わせる素直な優しさのある作品だった。

「そこにいる」山村由紀。
昔通った小学校の木造校舎の写真がかつての子ども部屋に貼ってある。その小学生時代は必ずしも楽しい日々ばかりではなかったようで、「校舎に入ると/どんなに晴れていても/どこからか雪雲がやってきて/わたしの顔めがけて吹雪」いたのだ。それは「だれからも見えない」吹雪だったのだ。そんな小学校時代を送った校舎の写真を、なぜ話者は45年も経った今も貼っているのだろうか。

   よく見ると門のところにランドセルを背負った子どもがひとりちいさく写っ
   ています 制帽をかぶりうつむいて歩いている わたしはきつく目をとじま
   した そしてゆっくり目をあけました 子どもは写っていませんでした

そして最終連、下校してきた子どもがひらいたドアから差し込んだ西日が写真を「短剣のように」貫くのだ。このとき話者にあるのはどのような感情なのだろうか。読み手にそれをゆだねて、余韻を残す。

詩書評「僕を選んだ書物たち」で平居謙が、拙詩集「水分れ、そして水隠れ」の中の「亡失の人」について、「われわれは何故忘れるのか。時代の暗さに反応し、肉体が記憶を拒絶し始めているのではないか」と読み解いてくれている。感謝。
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