瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩集「空ものがたり」 佐伯桂子  (2017/03)  編集工房ノア

2017-02-23 18:21:11 | 詩集
 第4詩集。101頁に28編を収める。
「塔の上」は1連2行、10連の作品。懐かしい街を見下ろす塔のてっぺんに昇っている。そこは、風景とともに、これまで生きてきた時間も眺めわたすような場所なのだろう。

   もう共に居て温かいものを口に運ぶことは無いが
   夕空に煌めき始めた星を一つ二つと数えてみることは出来る

 わたしは風によってここまで押し上げられてきたのかもしれなくて、「汗して歩いた道のさまざまの/匂いが立ち昇って来る」ことも知っているのだ。ここまで昇ってきてしまったわたしはどこへ下りていくのだろうか。いや、ここまで昇ったからこそ、新たに下りていく場所が見つかるのかもしれない。

 生活の中で作者の周りにあらわれる事柄も作品の核になっていく。中ごろに収められている作品「今日の食事」では魚のアラを料理しているのだが、「切れそうで切れない」アラは、「固まった記憶/繋がった記憶」で自分のようだという。

   火にかけ
   甘辛く煮付け
   時間をかけて
   食べる

 作者にも、いつもわだかまっている何かがあるのだろう。それは柔らかくほぐれるまで時間をかけて、ゆっくりと自分が対峙しなければ乗り越えられないのだ。
 こうしてまったく背伸びをしない範囲の作品世界が作られていく。だからその世界はどれも確かな手触りをそなえている。
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SPACE  132号  (2017/01)  高知 

2017-02-21 18:06:00 | ローマ字で始まる詩誌
福島から宮崎までの全国からの26人の詩作品が掲載されている。それに5人の俳句や、エッセイなども載っている。

 「花水木の手紙」吉田義昭。
 長く結婚生活を送った町の舗道に沿って植えられていた花水木。高校の校庭など、これまでの人生のいろいろな場面で花水木は咲いていたのだ。そして、「妻が死んでから初めて見る花水木の花たち」は、

   その散り方が愛おしい。私に語りかけてくるようだ。どうして妻が
   生きていた去年の花と今年の花が違って見えるのか。私が変わっ
   たわけではない。花たちが変わったのだ。妻とよく歩いたこの道で、
   振り向いても誰もいない。

 なにも余分な言葉を付け加える必要のない作品である。散歩の際に、作者の方が奥さんよりも歩くのが少しだけ早かったのだろうかと、切ない想像もしてみたりする。月並みな言い方になるが、作者の優しさがゆっくりとにじみ出てくる。

 「その むこう」日原正彦。
 「そのむこうに」という言葉の、「その」にいろいろな言葉を当てはめている。たとえば、「真っ青な冬天に向かって突き刺したひとさしゆびの爪の先」とか「生きがたい と ついた 三角形のためいきの頂点」とか、である。すると、「その」という簡単な指示代名詞に世界を包含するような物語が秘められているような思いにとらわれてくる。このようにして、作者独特の、形而上的な思いを柔らかなイメージに変容させて差し出してくる作品。

   小鳥が飛び立ちます

   と
   「飛び立つ」が 飛び立ちます
   「その」
   「飛び立つ」は
   永遠の時間と空間のなかでただ一瞬のただ一つの「飛び立つ」であるのです

 「四季・折々」と題した日原の俳句16句から1句紹介しておく。

   夏帽子しずくのやうな目の揺るる
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地上十センチ  14号  (2017/02)  東京

2017-02-16 21:18:07 | 「た行」で始まる詩誌
 和田まさ子の個人誌。表紙には、いつも楽しいフィリップ・ジョルダーノの軽快で幻想的な絵。

 「髪を洗う」宿久理花子、は寄稿作品。
 浴室でゆうべ抜け落ちた髪の行方を探っている。ジョシであることを問い直しているのだが、その行為自体がとても不安気味だ。行末で終わる言葉かとみせて、その言葉は次行へと続いたりする。だから、読む呼吸、リズムが分断されたり、慌てて引き延ばされたりする。作品が孕んでいる不安定な気持ちが、その分断と継続で巧みに増幅されている。

   黒髪を洗うか
   のじょのいたいけ
   ない
   ろを好んだかってのあの指に、
   入念に梳かされたり巻かれたり
   擦りこまれたりはもうぜったいに
   されない黒髪は(以下、略)

 「抜けてくる」和田まさ子。
 板の上に積まれていたという「思想の杖」とは、いったい何だったのだろう。「年月はそのあたりに太い草を生やした」ともいうことだ。しかし、今はすべてが枯れきっている。とにかく話者はそんな場所へ来ているわけだ。ここへ来るだけの理由もあったのだろうし、もしかすれば目的もあったのかもしれない。でも、そんなことは説明しなくてもいいことだ。

   だれかが
   木でつくられた人型を通る
   待っていれば
   やがて来る
   壊れながら 抜けてくる
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詩集「今夜はいつもより星が多いみたいだ」  勝嶋啓太  (2017/01)  コールサック社

2017-02-14 18:35:32 | 詩集
 第4詩集。127頁に30編を収める。
文字は丸ゴチックで印字されていて、軽快な感じを与えている。語り口も普通を装った話し言葉風でさりげない。しかしそこには、苦笑いで何とか自分を励まそうとしている必死さが透いて見えるのだ。

 他者の間に紛れ込んでいる自分が何者であるのか、自問もしている。他者との関係が捻れていて、社会の中での自分の存在に不安があるのだろう。
 たとえば「待ち合わせ」では、私は駅前の犬の銅像の前で人を待っているのだが、誰と待ち合わせをしているのかが思い出せない。そして、待ち合わせの場所も時間も不確かなのだ。適当に目があった中年男に、僕が待ち合わせをした人でしょうか、と声をかけると、なんと、多分そうだという。

   この見ず知らずの中年男との
   (多分)久しぶりの再会を喜んだのだが
   私の前には 新たに
   この男と 一体 何の用件で待ち合わせしたのか?
   という問題が 立ちはだかっていたのだった

 私ばかりか、相手も同じ状況を抱えていたという、この脱力感が勝嶋作品の持ち味だが、同時に不気味な現代社会での人間関係の風刺にもなっている。本当に用事のある相手など、いるのだろうか、と。

 後半に収められている「ゴッホの小さな白い花」は、そんな作者の優しい一面がよくあらわれた作品。ゴッホ展で会場の人たちは、ヒマワリや糸杉の絵を「天才だ/スゴイスゴイと」感心しているのだが、その一方で「キチガイ になって自殺したんでしょ」とも言っているわけだ。片隅にひっそりと展示されている小さな絵には白い花が描かれていたのだが、それに目を留めた作者は、

   もしかしたら ゴッホは
   炎 や ひまわり じゃなくて
   ほんとうは
   この 小さな白い花 に
   なりたかったのかもしれない

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詩集「あのとき 冬の子どもたち」  峯沢典子  (2017/02)  七月堂

2017-02-10 18:35:54 | 詩集
 第3詩集。92頁に21編を収める。
 前詩集「ひかりの途上で」の感想に、「どのように詩えば自分の内側にあるものをそのままの形で取り出すことができるのか、そのことに繊細な感情を必死に沿わせているような言葉がつづられている」と私は書いた。 今回の詩集でも、そのように切実にとりだした言葉が美しい。

 たとえば「ガラス」。港町で話者は「生きてゆくことの遠さを/隠すように/潮風に包まれた部屋で休ん」でいる。おそらくは旅の途上にあるのだろう。夜明け前の窓ガラスはまだ暗く、吐きかける温かい息とそこに指で書きとめた言葉があったのだ。

   境界に触れた指に呼応してくれた 雪の
   熱さだけは
   いちにちを生きのびるための
   ひときれのパンとして残しておきたい と
   いまも 誓いのように思う

 ときおりあらわれる直喩をそのまま包み込むように、大きな暗喩が物語を形づくっている。部屋の中と外を分けているガラスをたどった指は、何か静かなものを探っていたのだろう。”誓い”はやがて”祈り”となり、作品は「祈りのかたちに/冬が/訪れる」と終わっていく。

 この詩集でも異国の地に在る作品が多い。気持ちが、定住の地ではない場所を求めているのだろう。寒い列車に乗っている父子を描いた「冬の子ども」も印象的な作品であった。

 詩集の後半から「回診前の窓」。わたしは腹部の手術を受けて、屋上に近い高さの病室にいる。そこからは屋上に干されたシーツが見え、「雨が乾けば 風をはらめる/たやすさがひとにもあることに」やっと気づいたりしている。間もなくの回診では術創からの抜糸がおこなわれるのだろう。

   これは 鍵をかけたあとなのか
   あけたあとなのか

   鍵を必要とした理由があったことすら
   もう思い出せないぐらい
   横たわって見る空は
   高くなっていた

 この作品にあるのは、ちょっとした自分の身体の変化による違和感なのだろう。その説明のつけられない感情がていねいに掬いとられている。
 (私事に関係するのだが、自分(瀬崎)にとっては慣れ親しんでしまった抜糸がこのように捉えられることに、新鮮な驚きを味わった。)

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