瀬崎祐の本棚

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詩集「桃源」 柴田三吉 (2020/06) ジャンクションハーベスト

2020-05-29 18:48:10 | 詩集
 93頁に19編を収める。
 「夜が尽きるまで」。老いた母がテレビをつけたまま眠っている。リモコンを取ろうとすると目覚めて「まだみているのに」と叱責するのだ。ああ、そうだ、我が家でもこのような光景はあった。そしていずれは我がこととしておこることになるだろう。話者はあなたを眠らせるスイッチをさがそうとする。

   粉を吹いた耳の奥
   銀色に透きとおった
   ほつれた糸のような髪の中

   あるいはもっと大切な場所に
   それは隠されているのだろうか

 これまで話者を育ててきた人のからだが仮の眠りにつくためには、その仕掛けのどこを調節してあげればよいのだろうか。やれやれと思いながらも、老いた母を愛しんでいる感じがゆっくりと伝わってくる。こうして夜は更けていく。最終連は「小さな虫が涙を食べ尽くすまで/あなたもわたしも/眠ることができない」。

 この作品をはじめとして、この詩集は老いた母に捧げられたもので埋められている。母が愛でることができるようにと、作者は朝顔を植え、コスモスを育てる。また母の記憶にある父の姿もあらわれてくる。

 「くるぶし」は、介護をしようとして母のくるぶしに触れる作品。記憶は樹木に刻まれた傷のようなもので、くるぶしは枝を落とした跡のようだったのだ。

   ほら
   広く伸ばした枝を落としたいまも
   あなたの幼い日の
   よろこびとかなしみが
   ここに残っていますよ

 母からはすでにいろいろな事柄が次第に欠け落ちていってるのだろう。しかし枝葉は落ちてもそこは「時をほどいて微熱をきざし/甘い樹液をにじませるのだ」。

 詩集終わりに母は「桃源」へ旅立っていく。閉じられたまぶたから「一粒の涙がにじんでい」て、

   背後の視線をさえぎり
   わたしはいのちのしずくを
   啜る

   かって彗星が地上にもたらした
   一滴の水のような

 話者は小さな虫となって母の涙を我が身に移したのだろう。それによって母は桃源での眠りに入ることができたのだろう。決して暗くはなりすぎないで、静かに人を悼んでいる詩集だった。
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ここから 10号 (2020/05) 東京

2020-05-26 19:18:25 | 「か行」で始まる詩誌
 同人は14人(うち1人は休会)。66頁に12人の詩、11人のエッセイなどを載せている。

 「老後の練習」吉田義昭。
 私は死んだ妻と縁側で陽を浴びている。すると、もう消えた友人も遊びに来るのだ。「妻が老後の練習をしたいと言い/もう何年も座ったままの私たち」なのだ。作品を読む際に、実際の作者の境遇をある程度承知していることには功罪があると思う。しかし、この作品では「妻」のことを承知の上で読むことによって、作者の抱えている切なさはより深く伝わってきた。欠落したものを埋めることができないままに私もまた欠落に向かおうとしている。最終部分は、

   死んだふりは楽しいと
   妻は光に溶けかかっていた
   どこにも帰る場所がない

 「交差する」作田教子。 
 死んでしまっている祖母や兄、恋人がわたしに会いに来る。夢の中や、夕暮れの灯ともし頃、まどろんでいる午後、にだ。とっくにいなくなって過去にいる人なのに、「現在のわたしと/ふと視線が交わる」のだ。読んでいると、その人たちはわたしに会うためにわたしの中で必死に生きていてくれるのかもしれない、と思えてくる。最終部分は、

   わたしも
   死んでしまったひとたちに
   悲しげな声を届けないように
   ゆっくりと噛みしめるように
   時々空を見上げている

 「指はしゃべる」谷口ちかえ。
 キーボードを叩いてひたすら〈ことば〉を露わにしては捨てている。不燃物も生ごみも捨てなければならないし、女性は実らなかった卵も処理しなければならない。ブラインド・タッチの練習では、言葉をあらわすための指の動きだけが要求されている。

   食べた〈ことば〉の消化不良を機械は食べる
   意味なんて意味もないとつくづく思う
   釣り上げようとしても つれないあなた
   釣り上げようとして 釣れたわたし

 こう言われてみると、本当に意味のあることばがどれだけあるのだろうかと改めて思ってしまう。最終行は「わたしはいっとき白いお皿のような空白になる」。この感覚には実感がこもっていた。
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詩集「海のほつれ」 神田さよ (2020/05) 思潮社

2020-05-20 21:59:13 | 詩集
第6詩集か。111頁に端正な作品32編を収める。
「奏でる壺」は、「壺になって/海の底に没(しず)ん」だわたしのモノローグである。わたしは潮のながれに揺さぶられ、かって聞いたことのある震える声が響いてくる。そこはまるで、わたしが辿り着いた終の棲家でもあるようだ。最終連は、

   死者たちの声で
   ざらざらの表面は膨らんできた
   深淵の潮流にのせて
   わたしはひび割れた音を
   鳴らし続けている

 ここへやって来るまでには幾多の選び取るものがあったのだろう。そして、その最後の刻まで自らの内に何かを溜めて、そこから発するものを失わずにいるのだろう。
 次に置かれた「午後の部屋」にも、容器からこぼれはじめていた水がある。午睡はどこか荘重な儀式のようで、永遠に続くような静けさが広がっていた。

 阪神大震災を体験した作者は、前詩集では東日本大震災を詩っていた。社会に寄りそった意識が常に作者の根底にはある。本詩集でも「風のそよぎが」「村の春」では原発事故による放射能汚染に、また「海のほつれ」「波打ち際」では沖縄の埋め立て問題に、鋭くも悲しげな視線を向けている。

 「あの日は雨だったか」。夜更けの壁のむこうから「床をゆっくり踏むような/不愉快な不明さ」のある音が聞こえてくる。それは、隣の部屋に異世界のものが訪れているような気配なのかもしれない。朝になって、

   連続音が聞こえた部屋はドアーが開いてだれもいない
   古びた編み上げ軍靴が揃えておいてある
   黄色い泥がこびりついているゲートルが
   床にだらんと落ちている
   あの日は雨だったか

 時空を越えて尋ねてきた人がいたのだろう。おそらく作者には戦死した親しかった人がいたのだろう。何を伝えるためだったのだろうか。

 散文詩の「一つ星レストラン」「奇妙なホテル」「森の過失」は怪異譚のように物語が展開する。作者の抱える世界の奥行きの深さを感じた。
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詩集「耳凪ぎ目凪ぎ」 たかとう匡子 (2020/04) 思潮社

2020-05-15 17:44:20 | 詩集
 117頁に30編を収める。

 「二月/骨について」。人体模型の肋骨の間を烈風が吹き抜けていくのだ。そんな場所では不安も付いてくるのだろうが、

   そのとき
   まだ若かった母が蛇口をひねって
   お飲みなさいと言った
   水
   という言葉がひとりでにひろがっていく
   一筋のあいまいな記述
   均衡を欠く二月の位置

 鮮やかに残っているイメージで、この母の記憶がここまでの自分を支えてくれたのかもしれない。加齢による肉体の変化は否応なしにあるのだろうが、しかしその変化を冷ややかに受けとめて、昏迷の中にありながらもその視線は前を見続けている。最終部分は「とりあえず手鏡を取り出して/二月の影を映す」。お見事。

 「かくれんぼ」では、話者はマングローブの森を彷徨っている。生い茂った樹葉のあいだから一筋の光がとどき、そのうえに青空があることを知る。そして「使い古された言葉につきまとわれながら/もっとうえにはたしかに干潟に通じる道があるはず」と思っている。まるでこの彷徨いは、作品を生みだすために自分の脳内でおこなわれているようだ。

   指先がからだの底をかきまぜては主題をさぐっている
   硬直してもんどりうって
   マングローブの森から転がりでた
   歩き疲れて
   道に迷った
   海岸線がのびていた
   幼な児がいない

 ここにも混迷があり、ふとしたときに抜け出てくる詩句もあるわけだ。ともすれば抽象的にあらわしてしまいがちな主題を、視覚的なイメージで導いて捉えている。最終行は「わたしの海はいまだ天空に貼りついたまま」。

 どの作品でも具体的な事象を巧みに取り入れて、その奥の言葉にし難いままに広がっているような部分に踏み込んでいく。書くことによって己の生を支えているような、そんな迫力を感じる詩集だった。表題作の「耳凪ぎ目凪ぎ」や、「彷徨(さまよ)う」、3章からなる「遠ざかる時刻(とき)」にもたしかな手触りがあった。
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詩集「かたみとて何か残さむ」 黒羽由紀子 (2020/05) 考古堂書店

2020-05-11 13:57:12 | 詩集
 第7詩集。109頁に20編を収める。
 副題に「良寛思慕」とあり、表紙カバーにも良寛が童と戯れているこしの千涯の絵が用いられていることからも判るように、全編が良寛に捧げた詩編である。著者は全国良寛会の会員でもある。

 「手まり そして手まりに」では、良寛は子どもらと手まりで遊ぶ。夕暮れて子どもらがいなくなったあとも、無我になって良寛はひとりでまりをつきつづける。すると、

   おぼろな月に包まれてこの身は
   いつしか目も声も失せ まるくまるく
   なっていき蝶の模様の手まり
   さらに どなたかのみ手に
   つかれていたのだろう ふあっと弾んで

 邪心からは無縁の境地となって初めてこのような大いなるものに迎えいれられている自分を感じることができるのだろう。そして、そんな良寛の姿を描く作者は良寛に憑依していくかのようだ。良寛が作者に憑依するのではない。思慕するあまりに、現世にある作者が良寛としての有り様に近づこうとしているかのようなのだ。そこに畏れ多いものを感じさせないのが良寛の有り様の特質でもあるのだろう。

 作品は僧となった時分からの良寛を追っていく。そして齢を重ねた良寛の姿に至っている。「かぼそくゆらいで」では、衰えから体調も思わしくなくなっている。寒さの中を「小路を尋ねてくる人も絶えて久しい」のだ。良寛が小川のほとりに立つと、

   水面に桃の花びらが あとから
   あとから流れてきて
   そのひとひらをすくっては
   そっと水に浮かべてまたすくい
   それはまもなく自然に還る
   我が魂のなごりとぞ

 このように作者の視線は一人の人間としての良寛に近づこうとしている。単なる頌歌になっていないところが、より一層作者の良寛への思慕を感じさせる。

 詩集タイトルは、先頃急逝された清水茂氏の短歌「かたみとて何か残さん詩(うた)ごころ此のよを照らすをさなごの顔」からとられている。
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