91頁に27編を収める。
作者は短歌と詩の両方をされているらしい。そのためか、言葉づかいに独特の軽いリズム感を味わうことができる。
そして、どこか、はっきりと名指しすることを避けているような感覚がある。相手との向き合い方が曖昧で、自分の感情も最後のところまでは削っていないようなのである。
肌触りが少し頼りないような気もするのだが、ただそれだけに、個人的な状況にとらわれずに普遍的な広がりを持つことに成功している(と言ったら、やや大げさに褒めすぎてしまうか)。しかし、この曖昧さは心地よいものを孕んでいる。
「火」という作品は、昔に起こった火事のことを詩っているようなのだが、登場人物も出来事もやはり曖昧で、悲惨な出来事のようなのにお伽噺のようにも思えてくる。
ある日の朝 台所で何かを探しているような 何かを
片付けているような姿があった
慌てている風なのは
小さな婦人
孫たちは教室で国語を学んでいる
火事はその日のうちにおきたが 小さな人は火事の日の
何年も前からとうにこの世界にいない
「橙黄つよく」に詩われているのは夕焼け色の坂道の光景。
坂は急に折れ曲がる
人が突然あらわれる先に
何があるのだろう
不意に犬が消えてしまう角に
やさしい主が待っているだろうか
見えるはずのものは本当に見えるようになるのか、その先に見えていないものは本当にあるのか、人が生きていく道すじにあるいくつもの坂の手前で、誰もが感じる事柄を風景として詩っている。
作者は短歌と詩の両方をされているらしい。そのためか、言葉づかいに独特の軽いリズム感を味わうことができる。
そして、どこか、はっきりと名指しすることを避けているような感覚がある。相手との向き合い方が曖昧で、自分の感情も最後のところまでは削っていないようなのである。
肌触りが少し頼りないような気もするのだが、ただそれだけに、個人的な状況にとらわれずに普遍的な広がりを持つことに成功している(と言ったら、やや大げさに褒めすぎてしまうか)。しかし、この曖昧さは心地よいものを孕んでいる。
「火」という作品は、昔に起こった火事のことを詩っているようなのだが、登場人物も出来事もやはり曖昧で、悲惨な出来事のようなのにお伽噺のようにも思えてくる。
ある日の朝 台所で何かを探しているような 何かを
片付けているような姿があった
慌てている風なのは
小さな婦人
孫たちは教室で国語を学んでいる
火事はその日のうちにおきたが 小さな人は火事の日の
何年も前からとうにこの世界にいない
「橙黄つよく」に詩われているのは夕焼け色の坂道の光景。
坂は急に折れ曲がる
人が突然あらわれる先に
何があるのだろう
不意に犬が消えてしまう角に
やさしい主が待っているだろうか
見えるはずのものは本当に見えるようになるのか、その先に見えていないものは本当にあるのか、人が生きていく道すじにあるいくつもの坂の手前で、誰もが感じる事柄を風景として詩っている。
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