瀬崎祐の本棚

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別冊 詩の発見  16号  (2017/03)  大阪

2017-03-30 18:58:06 | 「は行」で始まる詩誌
 「人参嫌い」吉田義昭。
人参の皮を苦労して剥いている。そして「皮の厚さと身との境界の曖昧さに」苛立っている。それは自分の心のようだと。おまけにその固さは老化を自覚させるのだ。「いつも誰かに添えられていただけの引き立て役」の人参だと言い、ユーモアのある描き方の中に、しみじみとした人生の重さのようなものもふーっと伝えてくる作品。比喩が自然にうなずけるものになっている。最終章は、

   尖端の尖り方は水を求め深く潜ろうとしたからですか
   土の中には守るべきものなど何もなかったくせに
   皮を厚くして身を守ろうとした姿勢がいじらしく
   子どもの頃は人参の甘さが微妙に苦手でしたが
   今は厚い皮と攻撃的な楔形の尖り方が少し嫌いです

 「夜火」萩野なつみ。
昨年発行された萩野の詩集「遠葬」の感想で、私(瀬崎)は「張りつめた言葉が感覚神経をふるわせているようだ」と書いた。この作品も、雨の深夜にひとり置き去りにされているかのような感覚が、風景をきりりと撫でている。他者はどこにいるのだろうか。最終部分は、

   いま
   ただれた声に追われて
   しなやかに巻き取られる
   淘汰された心象
   あけ渡すかかとの下で
   街は白く焦げていく

 編集をしている山田兼士が、この1年間にTwitterに書いてきた短い詩集評を「詩集カタログ」として掲載している。135冊の詩集が取り上げられており、タイトル通りにカタログとして有用だ。
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山陰詩人  207号  (2017/03)  松江

2017-03-26 21:55:38 | 「さ行」で始まる詩誌
中村梨々が「見える」「聞こえる」という対になるような2編を発表してる。
 「見える」では、大根の葉の虫食いの穴から見えた世界を描いている。そして「聞こえる」では、その大根を洗っている。洗うと、それにつれて大根は何かを失っていくようなのだ。何気ない日常の隅に広がっている違和感、それは異世界へ通じているのだろうが、それを研ぎ澄まされた感覚が捉えている。

   私は慌ててごしごしと務め
   その間にも
   指先や爪に移る弔いの土の匂いが
   異国の喉のように震える
   落ちてしまいそうになる声を冷たい両手で抱え
   足早に勝手口をあがる

「深夜ラジオ」川辺真。
 午前零時前にラジオは「明日の日の出の時刻」を放送する。そのときにあなたは何をしていたのか(6つの行為が記される)。そして零時過ぎには「今日の天気」が読み上げられる。そのとき私は何をしていたのか。

   わたしは「紅とんぼ」という歌を小さく唄っていた
   三十年近く通った赤提灯の閉店を信じたくなかった
   しばらく参っていない両親の墓のことを考えていた
   墓碑に刻まれた名をもう指でなぞりたくはなかった
   半年後の退職の先にある生活をぼんやり描いていた
   日曜に理髪店に行く習慣は変えるつもりはなかった

 たたみかけるように羅列された行為が、深夜の世界を形づくっている。視覚的にも工夫されている作品。

 井上裕介が拙誌集「片耳の、芒」の詩集評を書いてくれている。ありがとうございます。結びは、

   いくつもの隘路をくぐりぬけ、脂ぎったものが抜け落ちて、
   乾いてはいますが、成熟した感性で新たな物語の創造へと
   向かいつつあるのではないかと思います。
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雨期  68号  (2017/02)  埼玉

2017-03-23 21:18:32 | 「あ行」で始まる詩誌
 「姉(シーコ)の海」谷合吉重。
 あの東日本大震災のあとを思わせる風景に、病で逝った姉(シーコ)の姿が重なっている。それは二重写しになったモノクロ写真のように、静かに眼前に広がる。作者の中で重なり合った鎮魂の風景であろう。

   砂嘴に架かる松川浦の橋桁は落ち
   漁協の建物はコンクリートの柱だけを残して
   風に吹かれている
   その時刻よわい海からの光を受けると
   ヴェールに覆われた顔は消えて
   波間からうつしみが迫ってきた

 「(窓のむこう)」君野隆久。
 転居地にあったゴミ屋敷で、亡くなったはずの初老の男に会う物語。「詩人さん」と呼ばれていたその男との、すれ違うようなやりとりがどこかノスタルジックな雰囲気を作っている。話者はもう一人の自分と会話をしていたのかもしれない。

   詩があっただろう、だからってわけじゃないが
   おれは詩を書くのをやめてここに住んで
   廃品回収の仕事をはじめた
   毎晩ひとが寝静まったあとの街を歩いて
   あの粉々に飛び散った硝子のようなものを拾って集めたんだ

 「緑の靴」須永紀子。
 「エレナ・トゥタッチコワさんに」という副題がついている。エレナさんは写真家のようで、もしかすれば彼女の写真に触発されて生まれた作品かもしれない。話者は彼方を歩きつづけてここへ戻ってきたのだ。そして「不乱に草を抜くひとの/かたわらに立ち尽くす」のだ。まだこれからもわたしは帰りつづけなければならないのだろう。

   わたしは川への径を急いでいる
   藻の靴は時を待たない
   川に属する者に帰還をうながす
   夜が近づく

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詩集「鉄斎詩編」  倉田良成  (2017/02)  ワーズアウト

2017-03-19 21:37:07 | 詩集
 84頁に、すべて20行の行分け詩40編を収める。
 詩集タイトルからも判るように、各詩編は富岡鉄斎の画に触発されて書かれている。ただしあとがきによれば、詩の内容は鉄斎画の中の何かを具体化したものではなく、「鉄斎画と鉄斎詩編の関係はあくまでも自由だ」とのこと。
 はじめにお断りだが、私(瀬崎)には富岡鉄斎の絵の良さは判らない。したがって作者がどのように鉄斎画と向きあったかについては述べることはできず、単に詩についての感想を書くことになる。

 一般に絵や音楽、映画などに触発された作品では、その元の作品についての説明がある程度なされる。絵の場合は何が描かれているか、などだ。そのうえでそこから作者の世界を広げることになる。

   色色の邑の見取り図の彼方で
   おびただしい釣り竿が厳めしい細流に投げられて
   烈風のなか、しかし
   銀は、微動だにしない
                        (「渓流図」より)

 モチーフが自分の外部にあるため、作品で語られる言葉は熱くなることはない。あくまでも冷静さを保っている。いってみれば、自分の内側に逃げ込もうとはせずに、自分が書いた言葉とどこまでも向き合っている関係である。これは自分を見つめなおすときの有効な手段のひとつかもしれない。

   膝をくずして
   まひるまの白光を写す白描の
   うらがわの横顔は梅枝の鉤裂きに
   淋漓と泥んで、すでに
   花もない
                        (「山居図」より)

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詩的現代  20号  (2017/03)  群馬

2017-03-15 17:01:54 | 「さ行」で始まる詩誌
 今号の特集は荒川洋治。
 本人の詩作品「民報」や、詩集「北山十八間戸」からの同名作品も載っている。「これから思うこと」と題した一文では、「一編の詩を書くときは、その一編のなかで、自分がこれまでに行ったことのないことをしたい、という思いがあるからだ」と、至極当然のことを書いているのだが、「最初から自然に書く。ことばがことばであると見えないうちに書く。それはできないことなのだろうか。」といわれると、これにはなるほどと思ってしまう。

 荒川のかつての「娼婦論」や「水駅」「鎮西」に心惹かれた人の中には、その後の大きな転換に戸惑った人も少なくないのではないだろうか。特集では9編の荒川洋治論が載っており、彼の“転換地点”に言及しているものもある。

 愛敬浩一「荒川洋治論のために」では、「無意識な転換がまずあり、レトリックで武装する必要がなくなったとき、逆に、荒川洋治自身が生身の方をレトリックのように見せたということかもしれない。」として、「その時、荒川洋治は初めて、<時代>を少し読んだのかもしれない」と述べている。

 村島正浩「「娼婦論」の行方 現代詩作家荒川洋治の立ち位置」では、詩集「渡世」の作品に触れて、「この作品群は、詩は言葉に過ぎない、或いは過剰に言葉であるとの「娼婦論」の痕跡を残しながら、詩へと向かった作品である」と述べている。

 また髙橋英司「IQ下官も詩を書くぞ」は、くだけた口調でいながら、皮肉交じりにかなり鋭い点をついていた。

 詩作品では樋口武二「待ち人来たらず」。
 「或いは疾走する風景」との副題がつけられている。川べりの喫茶店で友人を待っていると、「疎遠だった叔父」や「尻尾を垂らした女」があらわれたりするのだ。

   待ちつづけることの意味は、とうの昔に失われ、煙草をふかす
   ひとも、痩せた狐のようなおんなも やがては遠い幻となって
   消えていくだけのことだ (略) 待つことは乾くことであり、
   失うことでもある

 夢と現実のあわいの風景が私を取りまいている。どちらの世界の風景に入り込めば私は存在し始めるのだろうか。それまでの私は、それこそ夢の中にいるような頼りなさで、何も信じることができずにいるほかはないのだろう。
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