瀬崎祐の本棚

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詩集「鳥をつくる」 魚本藤子 (2019/06) 土曜美術社出版販売

2019-06-27 18:51:17 | 詩集
 第5詩集。107頁に25編を収める。
 何気ない光景からその奥にうずくまっているものをすくいあげている。たとえば「関門海峡」では、古い桜の木の彼方を通りすぎる船がある。

   一瞬かさなった
   動くものと動かないものの影
   遠くへ行くものとそこにとどまるもの
   永遠に交わることのない異なった世界が
   そこでやわらかく睦みあって

 動くものと動かないものが一瞬重なってまた離れていく様に、永遠と現在を感じ取っている。それは「何にもない午後」なのに忘れないようなことなのだ。

 「立っている人」では、バスを待つ人々が「鳥のことばを思い出そうとして」いるように感じている。しかしバスがやって来ると、「立っている人は(略)バスに乗り込んでいく/誰も木にも鳥にもならない」のだ。
 タイトル詩は折り紙に材を取った作品。平面から折りたたむことによって立体の造形物になっていく。思わず一つずつのことばが組み合わされて詩作品となっていくことを連想した。

 「紙ひこうき」。一枚のただの紙切れも子どもが持つとひこうきのように見える。そのように、何でもないものも何かになろうとするのだ。作者はそれを敏感に捉えて「呼び止めるために急いで名前をつける」のだ。

   億万の中のただひとつの名前
   その名前を呼ぶ
   瞬時に
   それはきっかりと空気をかき分け
   ひとすじに飛ぶものになる

 詩集の帯には作品「てがみ」の一節が取り出されている。前詩集でも同じ意匠であり、おそらく作者の好みなのだろう。今回も詩集の雰囲気をよくあらわしている部分だった。
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ガーネット  87号  (2019/03)  兵庫 

2019-06-16 13:09:52 | 「か行」で始まる詩誌
 「通り」高木敏次。
 自分である私の存在を、違和感なしに私が感じ取ることは意外に難しいことなのかもしれない。通常は雑事に紛れているのだろうが、ひとたび私に私でない部分が入り込みはじめると、それはどうしようもなく不安になることだろう。すこし長い引用になるが、途中で切ることもできないので作品の真ん中あたりの12行を引く。

   人目につく町では
   手すりが伸びた階段を上がり
   肩越しにのぞきこむと
   靴音を聞きながら
   私に触れているこの手が
   終着駅の地図を示した
   それならば
   あの通りで
   バスを降りた
   広すぎる通路には
   埋められた
   地上がある

 私がおこなっている行為が私自身のものなのか、私ではない私の行為なのか。どこかに不気味さを孕んだ不安感が澱んでいる。

 「恋と裏切りの季節」神尾和寿。
 9つの断章からなる。自由に展開されるそれぞれの章には関連性はないようで、とりとめもなく思念が漂っている。そこには、好奇心で世界がどこまでも広がっていたような心地よい開放感もある。

   積まれた階段を 一目散に駈け昇る
   目の前に垂れている紐をぐいと引く

   ファンファーレが鳴って チキンライスの隣にあどけないスプーン
   ところが
   女

   この女に
   今から 仕えること
                   (⑥全)

 肩すかしのように、身構えていたものが捩れていく。これはいったい何だ?とも思うのだが、書かれてしまったからには仕方がない。裏切られているのは、案外作者自身なのかも知れない。
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森羅 16号  (2019/05) 東京 

2019-06-13 22:10:04 | 「さ行」で始まる詩誌
 毎号読みでのある手造り100部発行の二人誌。池井の手書き文字で、B5版18頁。

 「老楽」粕谷栄市。
 老らくの日々になると自分の分身があらわれるという。別の自分が本を読んでいる間に、私は女と「遠い四月の花畑で、抱き合って寝て」いることもできるのだ。自分の死のことばかりを考えて暮らす老いらくでは、死から解放されているもう一人の自分が必要なのかもしれないのだが、

    私が一生を終えると、世界は終わる。全ては消滅する。
   あ、そのとき、どこかで、別の世界も消滅しているか。

 今号の賓客作品は時里二郎「佐飛島(さびしま)」。
 「地図にないさびしまのあたりを/わたしの指はなぞりかえし」ていて、見えない鳥も鳴いている。詩集「名井島」の作品につながる風景を思い浮かべながら読んでいる。ここでも、どこにもない島の名は「ふるいうたのは」から立ち上がってきている。

   行ったことのない島から
   わたしは帰ってきて
   いつかの朝からとどいたはがきには
   けしいんもない

 池井昌樹の4編中3編は平仮名だけの行分け詩で、この「銀河系」が散文詩。
 私は「珍しいものを匿している友を訪ね」るのだが、記憶は私を裏切り、私を危うくもする。しかし実は、記憶を信じたくない私がいたのではないだろうか。

   ・・・口外できない、目には見えない壁を戴く掌
   をそっと閉ざすと、壁は消え掌紋も消え私も
   消えて、何処からか、長閑に鶏の声がする。

 視点が記憶から解き放たれると、その途端に私は銀河の塵になってしまうのだろう。
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詩集「うそっぱちかもしれないが」 中嶋康雄 (2019/06) 澪標

2019-06-11 21:38:33 | 詩集
 129頁に30編を収める。
 物語はくねくねと曲がりながら、それでも一続きのものとなってどこまでも進んでいく。どこまでこの物語はすすむのだと、読んでいるうちに冒険の旅に出ているような気分にもなってくる。

 たとえば、「光る自動販売機の夜のこと」では、自動販売機の影で月の光をあびて踊っているツンン人や入れ墨だらけのテン人が登場する。自動販売機のなかでまぐわって寝てしまったテン人を吸い取って肥大化したナメクジ状の男もあらわれる。ナメクジ状の滴女が産んだ白い卵をツンン人の女が拾っては食べ、残された卵からはナメクジ状の子男が孵って、

   自動販売機のコイン投入口に
   身をすり入れようと
   藻掻き藻掻くが
   ほとんどの子男は
   入る前に
   干からびて
   地面に落ちる

 それを影のない痩せた暗黒どもが食べて発狂していく。最後には、臭い虹をナメクジ状の子女がよじ登っていくのだ。
 何かの寓意があるのだろうかなどと意味を探る必要はないだろう。描かれた光景をただ想起して、そこにある狂騒感から寄せてくるものを受けとればよいのだろう。キモッと叫びながらも、楽しんでしまえばよいのだ。

 次にまともな作品を紹介する。「狭い道」。狭い道を歩いていると、もっと狭い溝が増えながら蠢いているのである。思わず声を出すと、それは蜘蛛の巣にひっかかりどこへも届かないうちに食べられてしまう。

   どこへも行き着かない道だ
   太った男が太鼓腹を出して眠っている
   臍の穴で人になり損ねている
   狭い道は眠りの道で
   あらゆるものが眠っている

 買い物かごをぶら下げたお婆さんが狭い溝をのぞきこんでなにかと話しているが、溝には「欠片も音もなにもない」のだ。
 これも意味など探る必要のない作品である。本当なら通りたくない狭い道だったのかもしれない。狭いから通りたくなかったのか、それとも通りたくないから狭くなったのか。買い物かごのお婆さんは振り返ればのっぺらぼうだろうし、話している声も聞こえはしないのだろう。
 いささかまともと思える作品でもこの狂騒さである。こちらでは”うそっぱち”であっても、そちらではどこまでも本当の世界なのだろう。

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詩集「川を遡るすべての鮭に」 加藤思何理 (2019/04) 土曜美術社出版販売

2019-06-07 21:28:04 | 詩集
 第6詩集。139頁で、装幀はいつも好いなあと思ってしまう長島弘幸。しかし、この詩集についての私(瀬崎)の感想は微妙なものだった。

 どの作品も物語を伝えようとしている。「十四歳の誘惑者」では、裸の女性死体を見つけた話者と兄は慌てた車の運転で自損事故を起こす。そんな思い出を語る話者が夜中に女の子を掠奪しようとしている。

   そしてぼくはきみを青いピックアップで掠奪してゆく。
   甘く抒情的な夏の闇にまぎれて、ぼくたちの姿はすぐに見えなくなるだろう。
   そうすれば、今夜は永遠にぼくたちふたりだけの時間だ。

 その物語はそれ以上のものになることはなかった。

 「戯れのインタヴュウ」では、十七歳で出版したぼくは彼女とインタヴュウごっこをしている。そして、そのうちにおよんだ性行為の様子が克明に描写されている。他の作品でも性器や性行為の描写は繰り返しあらわれる。詩集全体に性的な妄想がつまっているとでも言えばよいのだろうか。

 目次には13編のタイトルが並んでいるが、実際に頁を繰ってみると、うちの1編はタイトルのみが印刷されていて作品部分には「諸事情により割愛する」とあった。はて、これは?
 そして、詩集最後に置かれた作品「素敵な三つの友情について」は、その割愛された作品「蒼い布張りのソファ」について二人の男と一人の女が語り合っている内容になっていた。提示されていない作品を巡る作品というわけだが、そこで作品が存在するということの意味が問われていたかというと、残念ながらそれは肩すかしであった。登場してくる三人の人間模様が軽く浮かび上がってくるに留まっていた。

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