瀬崎祐の本棚

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詩集「花の瞳」  藤井雅人  (2017/08)  土曜美術社出版販売

2017-08-31 20:08:22 | 詩集
 第7詩集。98頁に花に材をとった26編を収める。
 冒頭の「花の瞳」。話者に向かって開いた花弁を”瞳”とみて、「そこから輝きたつひかりがある」と詩う。花弁のなかには「宇宙がかくれている」のだ。それは花弁のものごとを包み込むような形からもイメージが繋がり、さらには花が持つ生命への畏怖の念からきているのだろう。

   花と対峙するわたしの瞳は
   宇宙を告知する象形文字を読みふける
   いつか
   花の安らぎを乗りうつらせて

作者は単に花そのものを見ているのではない。花が孕んでいる空間的な広がりと時間的な長さ、言いかえればすなわち物語ということなのだが、そんなものを見ている。
 だから先人たちが魅せられた花々を詩っている。たとえば、有名なモネの睡蓮やゴッホのひまわりをはじめとして、シェークスピアの薔薇、ゲーテの罌粟、さらには利休や世阿弥にいたっている。あとがきで作者は「花が自然の一要素として人間とともに歩み、人間の文化を導きその不可欠の一部分となってきた様相を表現した」かったとしている。そのことをていねいに捉えた視点は優雅である。

 花の香りを捉えた「暗闇の蘭」は、嗅覚だけで花と対峙している。

   花のたしかな命が匂いたつ
   わたしに逢うことで

   では わたしは蘭だったのか
   出逢いが
   蘭であるわたしの命を呼び醒ましたのか

 ここでは形が見えないだけに、時の流れを越えて存在するものをより一層感じさせている。

 (余談)この詩集の出発点となったという作品「タージ・マハール」は作者のインド旅行体験から生まれている。その旅行には私(瀬崎)も参加していた。あの白い優美な建物を見ながら作者は言葉を紡いでいた。一方の私は、敷地の入り口で(銃を持った警備員がいた)水彩道具を取りあげられてしまい、スケッチができないなあと気落ちしていたのだった。
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ココア共和国  21号  (2017/08)  宮城  

2017-08-29 23:19:09 | 「か行」で始まる詩誌
 今号は巻頭に小特集として佐々木貴子の作品を11編載せている。発行・編集者の秋亜綺羅によれば、彼が昨年選者を担当した「詩と思想」誌の投稿欄への応募者だったとのこと。
 今回の作品はいずれも散文詩。

 「影」。影が無いわたしはみんなと影踏みをして遊べなかった。先生が去年死んだ子の影を貸してくれたので、それを貼り付けてみた。翌朝、わたしは影に引きずられるようになり、影の影になってしまった。わたしの代わりになった影は頭もよく、お母さんもとても喜んだ。わたしはひたすら踏まれ続け、「わたしの血が学校中に滲みた」のだ。

   時々、思い出したように影が下を向いて、ごめんね、と言う。勉強が忙しいの
   で、誰も影踏みをしない。誰一人として影を見ない。今日、影はわたしを細か
   く切り刻んだ。もう、血など一滴も無い。

 これはどうだ。私(瀬崎)は今回初めて佐々木の作品を読んだのだが、その作品世界のどこかあっけらかんと突きぬけたような、それでいて世間から顔を背けたような屈折した心持ちに魅せられて、次から次へと作品を読んでしまった。

 「天狗のB」。校門の前で待っていた天狗と一緒に、ぼくは穴を掘る。穴を掘った後はイチゴパフェを食べ、いろいろなことを話す。天狗は笑いながら「お父さんも天狗なんだから、あなたも天狗になるのよ」と言ったりする。

   先週、穴を掘るぼくの手を天狗が止めた。深い穴の中に冷たくなったお父さん
   がいた。昼休み、うたた寝しているぼくをまみちゃんが覗き込んで、おめでと
   う、天狗さん、と言った。それから毎週木曜日、二人でいっしょに穴を掘る。

 佐々木の作品には愛おしくなるような切なさがある。それは自分を取り囲んでいる世界と対峙している必死さから来るものだろうと思う。学校生活に材をとっている作品も多いので、おそらく作者はまだ若いのだろう。
 この作者に出会ったときに、秋亜綺羅はさぞかし嬉しかったことだろうと思う。私もとにかく紹介したかった。
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詩集「地上で起きた出来事はぜんぶここからみている」  河野聡子  (2017/07)  いぬのせなか座

2017-08-22 17:00:09 | 詩集
 正方形の判型。横組みで白い紙に黒の印字、あるいは黒い紙に白い印字、そこに赤色と黒色(黒色頁では白色)の線形、矩形の文様が全頁にわたって施されている。
 「いぬのせなか座/座談会5」という28頁の小冊子が挟み込まれている。そこでは「詩(集)にとってデザイン/レイアウトとは何か?」などといった討議がなされている。

 作品は4つの章に分けられている。2つめの章「代替エネルギー推進デモ」は舞台パフォーマンスの台本のような趣もある。ここでは「蒸気電話」「太陽熱アイロン」「セーターを編む」などといった41の物質や動作についての説明が列記されている。

 そして、他の章のどの作品も舞台上の役者が台詞として提示してきているかのような印象を与える。他者に扮した者がわざと作り物めかして世界を取り出してきているようなのだ。
 たとえば「マンダリン・コスモロジー」では、「タンジェリンと名付けた父親を打ちあげ」る、まるで花火のように。「母はマンダリンと名付けられとうの昔に水の底にい」るのだ。

   葉を落としたニセアカシアの列の終わりから三番目に
   黄色い実をつけた樹が一本だけ立っている
   どこにいてもユズはそんなふうにみえた
   きっとそんなふうだったから、じゃあまた。さようなら。
   と立ち去って
   救いに出かけたのだと思う

 このとりとめもない広がり方はどうだろう。とても軽い感じがするのは制約しようとするものから自由なためであるだろう。限られた空間である舞台が想像力によって無限大の広さをもつように、ここにあるわざとらしさが、かえって堅苦しい制約を取り払っているようなのだ。

 地上で起きた出来事をみている”ここ”とはどこなのだろうか。そしてみている者は誰なのだろうか。この詩集では意味を追うことは、あまり意味を持たないだろう。見かけ上の意味は世界を広げるための道具でしかない。

   ダンボール箱にたくさんの小さな惑星がカモフラージュされ隠
   されている。吊り上げ、組み立て、穴に入れる。この地上には
   ほんの少し似たような生き物がいる。それだけを頼りに生きの
   びる。コールを待っている。ひとりではない
                      (「ブルーブック」より最終部分)

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詩集「絶景ノート」  岡本啓  (2017/07)  思潮社

2017-08-19 07:57:05 | 詩集
 第2詩集。束になった本文用紙を堅い厚紙で挿んだ組本は作者によるもの。帯には「緑の丘の線、花粉でスれた糸綴じノート」とある。
 目次もないために全体の構成を捉えるのにやや途惑う。”絶景ノート”は”絶景ノ、音”でもあるようなのだ。114頁に13編の作品、ということでよいのだろうか。

 前半に置かれた11編は、鈍行列車で日本列島をたどることによって生まれているようだ(「青い惑星の隅で」は異国のようだが)。「息の風景」では、見知らぬ人との交差がそこの風景を歪ませている。「木漏れ日は/いたむ肌になじ」み、「こんなウナギをつかまえたんです」という一言。

   呼び止めるこの人は
   狂っていないか
   さぐろうと
   交わしたたったふたことが
   風景に細かな傷をつけていった
   快速に乗り継いでみても
   すり傷は
   窓ガラスから消えない

 話者の気持ちの説明はなく、ただその場の風景だけが告げられている。書きとめるべきことは事件ではなく、事件が自分にとって何ごとであったかということだろう。それがないかぎりは事件は他所のできごとでしかないだろう。そこには風景のなかで不安定に揺れている自分が在るばかりなのだ。

 「巡礼季節」は、ポイントを落として印字された行を道程標のようにして、38頁にわたって進む彷徨の作品。あとがきによれば、作者は二十日で南アジアの諸国を巡ったとのこと。そこから生まれた作品では「ありきたりの自分は、宙吊りでこころもとないばかり」だったとのこと。

   ぼくは地上の悪態を愛する
   つかのまの、泡だらけの光景を愛する
   ぼくは腹を立て
   きみを見捨てる
   消える声を 聞こえる声を
   不愉快なツバとコトバで きつく
   きみの皮膚へ縫い込めるだけ

 こうして作者は”絶景”を求めて彷徨い、この作品が成立している。いや、書きとめられるまでは何も存在はしなかったのだから、作品が成立したためにはじめて生じた”絶景”なのかもしれない。
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「草々」 第2号 (2017/07) 

2017-08-17 18:12:15 | 「さ行」で始まる詩誌
 29歳の4人、疋田龍乃介、吉田友佳、暁方ミセイ、そらしといろが集まった詩誌で、1年間限定で発行するとのこと。
 4つにたたまれたA3の用紙2枚が封筒に入っているという体裁。1枚には4人の詩が1編ずつ載っており、もう1枚には4人が他の一人に書いた一方通行の手紙が載っている。

 「遁物」疋田龍乃介。
 自己紹介に「ときどき詩を書く噺家」とあるように、彼は笑福亭智丸の高座名をもつ落語家でもある。その語りのように、シュールな内容を小気味よいテンポの饒舌体で展開する。

   (略)明かりがついて、その先か後か(君はいつも風呂の隅で横たわ
   り(檜の囲いの辺りから三色の湯気、白くなる(じりじりと身を隠し
   て(火照った上半身も少しずつ消えて(フェイドアウトするようなは
   っとする(あまりにもあたたかい湯船に浸かり、(略)

 ”(”で物語はたたみ込まれて、どんどんと折り重なっていく。語られた現象は檜風呂の囲いにどんどんと呑みこまれていく。まるでブラックホールのようだ。

 「暁吻」暁方ミセイ。
 真夜中に話者は、首吊り男は林の奥にいることを感じ、向かいのマンションのベランダには「時間の憂鬱が/小さなオレンジ色の火を灯して」いるのを感じている。鋭い描写が暗闇を切り取っている。

   人の町の空を制圧し、道行く人の
   頭頂に虫ピンをさしこんで動かす
   こいつらはみんな、
   睡眠だけが夜の出入り口だと知っているので
   ベッドに急いでいる

 「友達がいないので」一人起きている話者にとって、夜は忌避すべきときなのだろうか、それとも「きたない白色の昼」が来るまでの安息のときなのだろうか。
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