瀬崎祐の本棚

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SPACE  105号  (2012/08)  高知

2012-08-29 20:07:05 | ローマ字で始まる詩誌
 「ずるずる」高岡力。
 ついでに立ち寄っただけのばあさんの家で、「娘はクリームソーダをずるずると啜っている。」私はそれが気に障って仕方がないのだが、娘はなかなか止めようとしない。おまけにばあさんは碌でもない壺を売りつけようとしてくる。
 だらだらとした散文詩形で、かみ合わない会話や、堂々巡りをしているような私の呟きがうねっている。すると、娘はあっという間に成長して「いっぱしの色女になっている。」これはどうしたことだ?

   騒々しい。店の扉が勢いよく開いて、少年が駆け込んで来た。小脇に抱えた
   紙を店内に散撒いて、去っていく。号外なのだと思う。手に取ると白紙なの
   だが、ついに戦争か…と遠方の弟のことが気になりだした。

 こうして理屈無用の夢のような展開を見せていく。夢は、抽象的な思いをあくまでも視覚で見せつけてくる。だから目に見える情景は具体的だが、その結びつき方は抽象的なのだ。娘は”ずるずる”を続けるし、ばあさんとの後に引けない駆け引きが熱を帯びてくる。

   息づかいだ。待機の姿勢の、息苦しい大勢の鼓動が、潜んでいる。踏み込ま
   れてなるものか。ずるずる。ずるずる。この時とばかりに、娘は虚空を啜り
   上げてくる。ずるずる。ずるずる。ずるずる。ずるずる。私は首を横に振り
   続ける。
                               (最終部分)

 ついにこうして物語の中に立ち上がるものが描かれる。すべてが”ずるずる”という音と共に何ものかに引き寄せられていくようだ。圧倒されるような存在感の”ずるずる”である。お見事。
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詩集「三日箸」  壺坂輝代  (2012/07)  土曜美術社出版販売

2012-08-26 21:09:58 | 詩集
 第7詩集。93頁に28編を収めるが、その全てが「箸」についての作品である。
 あとがきによれば、嫌い箸(忌み箸)とされるものだけでも30余りの名称があるとのこと。日本人の食事作法にとって箸使いが、それだけ大切な事柄であったのだろう。
「三日箸」とは、元日からの三日間だけ使う箸のことのようだ。一年分の願いを染み込ませて小正月には焼かれるとのこと。そんな三日箸を祖父は家族の数だけ樫の木を削って作っていたという。

   いま
   わたしが作る三日箸
   祖父の手さばきを真似ながら
   心入れを呼び覚ましながら
   正月迎えをするマンションの部屋

   チャイムが鳴る
   来訪者は祖父に違いない
                   (最終部分)

幼子がする「にぎり箸」は誰にも馴染みがあるだろう。そんな幼子の手のかたちを「小さな手は/不安を握っている/かたちの定まらぬ/愛を握っている」と詩う。そして幼い日に箸を握らされたとき、「なにかに向けて/攻撃しようとした記憶が」あるという。齢を重ねた夜に一人で、赤い塗り箸を眺めているのだが、

   気配しかみせぬ
   まだ来ぬ日が口を開けている
   その闇へ向けて
   にぎり箸を構える
                    (最終連)

 母からきびしく躾けられた箸作法もある。そんなさまざまな箸の有り様を通して、普遍的なものへ通じていく作者の思いが自然に詩われている。
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スーハ!  9号  (2012/08)  神奈川

2012-08-24 22:26:49 | 「さ行」で始まる詩誌
 「往還」佐藤恵。
 「さあ、」とあってからひと呼吸があり、それから「懐かしさに導かれて/ひかりのなかを降りていった」とはじまる。
 漆黒の闇を抜け、わたしはどこまでも降りていくのである。すると下方では炎が瞬き、黒雲の暈がひらいたりもしているのである。まるで、はるか高みから戦乱の地上へ降りたとうとしているようにも思えてくる。もちろんわたしを矢は射ぬき、悲嘆の風が吹きつけてくるのである。

   そのたびにちりぢりに乱れたけれど
   降りるのはもう決めたこと
   みずからすべてを預けたのだった

 それほどまでにして、わたしはいったい何のために降りていこうとしているのだろうか。降りた先に待つものは何なのだろうか。冒頭に呼応しているのだが、わたしは何かの記憶に導かれているようなのだ。そしてついにわたしは「雪」になる。わたしは地上のさまざまなものを眺めながら地上にたどり着く。そしてすぐにかたちを失う。

   やがてあまりの疲れにすっかり記憶を失くしたころ
   わたしは透いたままで起き上がり
   すいよせられるように
   一軒の家の前に立つ
   そのとき、
   新しい影がよりそい
   わたしの一生はまたそこから始まる。
                           (最終部分)

 童話のような展開をみせながら、天と地のあいだでわたしたちがたどらなければならない”往還”が描かれている。人の一生は小さなものだが、それでありながら、ひと時代のことなどは越えた時空が捉えられているようだ。
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hotel 第二章  30号  (2012/08)  千葉

2012-08-23 19:32:43 | ローマ字で始まる詩誌
 海埜今日子が「ざわめく美」というエッセイを連載している。今号は13回目で、「たそがれ的な場所で、言葉を」。
 現実と幻想、日常と非日常など「その境界、狭間という場所について」よく考えているという。それは、河合隼雄が昔話を考察した書物の中の「日常の世界と非日常の世界の中間地帯」という概念に呼び起こされたもので、「『中間地帯』である『見知らぬ館』という場所に居続けるようにしなければと思った」という。
 たしかに、肉体としての私たちが居るのは日常世界であるからには、想像世界、幻想世界へ出かけるためには、自らをその中間地帯に置かなければ見えてこないものがあるわけだ。海埜は言う。

   わたしもまた、境目としてのこんな場所で、言葉をつづることを思っている
   のです。思うというだけでは言葉が足りないかもしれません。それは「生死
   を賭けた冒険」の場所なのですから。

 相反する、あるいは対立する二つのものは、相手があることによって自らの意味が生じるのだろう。日常にいながら幻想を知ってしまった者には、境目はとても魅力的な場所となるわけだ。二つの「場所は共鳴しあって、境目をふるわせているのかもしれ」ないのだから。
 海埜は次のように文を結んでいる。

   わたしもまた、彼(泉鏡花:瀬崎註)にならって、こんなふうにいってみま
   す。『わたしはさう云ふたそがれ的な場所で書きたい』と。
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スーハ!  9号  (2012/08)  神奈川

2012-08-18 13:23:22 | 「さ行」で始まる詩誌
 「十六月」野木京子。
 「十六月の欠けた部分が、あと少しの出番を待って震えてい」る夜に、歩いているのだ。月の満ち欠けが湾の水位を上下させ、ひとの生きる時間を作っている、といったことを、いもしない小人が足もとから言う。静かな、しかしなにか人智を越えたものに支配されているような、そんな時間帯であることを思わせる。
 満月に近い明るさなのだが、何かが少しだけ欠けた明るさなのだろう。その欠けた部分が影を落としているようだ。
 湾の向こうにあるお寺での通夜に向かっていると、途中で「とうのその人に会ってしま」ったりするという。それも十六月に照らされた夜道だからだろう。その夜道は湾を迂回するので遠回り。まっすぐに海をわたれば近道なのだが、

   どちらの岸辺からもちょうど真ん中ほどになったときに、足が動かなくなるに決まって
   いるのだ。そのとき、ひとは落ちてしまうのだろう。それが日時の穴というもので、本
   当は、足はいつもその穴を探していたのではなかったのか。ひとのことなどおかまいな
   しに。
    落ちたあとは、とくになにごともなく、ただ、金色の粉が降っている。
                                 (最終部分)

 海を越えて近道をしようとすれば、やはりこうなるのだ。それもなにかの“虫”の声に突き動かされてのことだ。やはり十六月の夜には何かの影がわたしたちを支配しているのだろう。
 降ってくる「金色の粉」は、欠けた月が砕けたものかもしれないと思ったりもする。
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