瀬崎祐の本棚

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ばらいろ爪  12号  (2016/04)  滋賀

2016-04-30 09:47:20 | 「は行」で始まる詩誌
 北原千代の個人誌。散文詩2編、須賀敦子にまつわる連載エッセイ、それに翻訳詩を載せている。

 「調弦」北原千代。
 年中うすぐらく湿った坂道を上って音楽教室へ通っている。バイオリンを習っているようなのだが、いつまでもそれは調弦をするだけなのだ。メロディを奏でる前の音の単位を微妙に調節しているわけだが、その行為は、作品を書く前の言葉におそるおそるふれているようなイメージを私(瀬崎)に思い起こさせる。
 教室からの帰りの坂道には小さな裂け目があり滑りやすくもなっている。調弦という行為は、本来はメロディを奏でるための準備であるはずなのだが、ついには単調に調弦をくりかえすこと自体が目的であるような錯覚にもとらわれていくようだ。それはどこへつづいているのか判らない裂け目に落ちていく感覚なのだろう。

    漆喰壁の音楽室で わたしの名は最後のレッスンの夜たった
   一度きり呼ばれた からだの内に水のみなもとがあって 深さ
   や温さや透明度が変化する 隠れたところにある水をひどく疼
   かせ 調弦の弓はゆっくりと離れていった

 北原特有の妖しさをともなった隠微な静けさのある作品。

 次の作品は「ノマッド」。音を奏でることは、砂漠で遊牧をするようなことなのだろうか。
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詩集「その日まで」  草野信子  (2016/05)  ジャンクション・ハーベスト

2016-04-28 17:15:44 | 詩集
第7詩集(他に共著詩集1冊あり)。90頁に16編を収める。第1章の5編は共著詩集「三月十一日から」に発表したものの再録。
 詩集タイトルの「その日まで」がいつまでを差すのかは判らないが、この詩集が始まるのは、あの3月11日である。作品「その日まで」では、死にたいと希望する九十五歳のさとえさんが詩われているが、誰にでもその人の”その日”はあるわけだ。詩集はあの日から”その日”に向かう気持ちで充たされている。
 作品にはいろいろな被災者が登場する。その誰もがひとりひとりの物語を抱えている。話者がおこなっている仮設住宅でのマッサージ施術のボランティア活動も描かれる。感情を抑えるように淡々とした語り口が、地道な日々を伝えてくる。
 「それからは」は、「(ない、とは言わないの)/あった、と言うそうだ」と始まる。ああ、そうかと思わされる。なくしたものはあまりに多く、それらがなくなったことに耐えるためには意識的に喪失感から懐かしむ気持ちへの転換が必要だったのだろう。

   (ことばにするのは
    どうでもいい 小さいものばっかりで)

   保冷庫とか 仏壇とか
   ベッドとか 軽トラック 乗用車 は
   あった、とさえ言わないそうだ

   跡形なく流れ去った
   家のことも

 もちろん、形のないたくさんのものもなくなっているわけだ。
 「汲む」は、人の思いをどのように汲むかということを問いかけてくる。そのままで読み手にしみてくるような作品。

   体験したものにしか わからない と
   体験したひとは 言わなかった

   あふれていますよ と
   しずかに言った

   両手で汲んだ
   わずかなものが
   わたしの指のあいだから
   こぼれている

 「ガソリンスタンド」の感想は詩誌発表時に書いている。
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ガーネット  78号  (2016/03)  兵庫

2016-04-22 00:52:23 | 「か行」で始まる詩誌
 神尾和寿は11~12行の作品を6編掲載している。どれも軽妙な語り口なのだが、具体的に描写された物事は少しずつずれていく。それにともなって話者の気持ちも少しずつ捻れていく(本当は逆なのだろうけれど)。
 「脱出する(か)」は、”何か”が「ふえていく」作品。最上階から地下にまでふえる”何か”には「思わず ぽんぽんと柏手を打って/拝んでしまう」のだ。

   足の踏み場もない
   脱出する(か)
   指を折って 数えていけば
   最期に挨拶を交わすべきは
   きっとあの人

 廿楽順治は今度は”場所シリーズ”で書いているようだ。
 2編のうちの「女子大学前」。おそらく夏目漱石と縁のある女子大学なのだろう。「漱石風の男が/刃先を入れ/女子を何枚にもさばいてい」るのだ。こうして”場所”がもたらす物語が展開される。

   氏名を
   お椀のように伏せながら
   わたくしは会話にただれた路地を落ちていった
   「それから」
   などといっている
           (註:原文は各行とも下揃え)

 とんでもない内容であり展開なのだが、何故かイメージはしっかりと地についている。妙な現実味もあったりする。切実なのだろう。

 「今、わたしの関心事」という頁では毎号4人の寄稿者が半頁の回答を寄せている。清水あすかの、港に置き去られたコーヒー缶についての考察が面白かった。それはゴミなのだろうか、という。

    そのとき放っているのはゴミというよりも、まだ自分の身体なも
   の、ではないか。中には二人でしゃべった内容や、海の匂いや、す
   すった鼻の音などが、底のコーヒーと共に入っている。
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きょうは詩人  33号  (2016/04)  東京

2016-04-17 00:30:02 | 「か行」で始まる詩誌
 「千畳敷の学舎」小柳玲子。
 副題は「私だけの現代詩史7」。みんなは支給されたサンマを焼いている。私だけはもらっていない。

   かまうもんかと思っている アタシは独りが好きなんだ おまけにサンマの百
   ぴきくらい
   買える貯金は死んだ夫が残してくれてるもんね
   泣き出しそうな顔で畳の縁から下を覗くと この座敷は二階であるらしく
   下は茫々とした庭なのだ 庭の遠くの方に大西和男さんが立っているではないか

 大西さんは石原さんの詩碑のことを叫んで教えてくれている(本当は存在しないとのこと)。こうして夢はもう会えない人との邂逅の場を作ってくれる。その場所での出来事はいつも懐かしくて、少し哀しい。

   誰か遠くで「来てごらんよ」と呼んでいる 幼い澄んだ声だ
   「サンマ焦げてる」誰か背後で笑っている 賑やかな夜である

 あらわれる人々は賑やかでも、対面している私はやはり少し哀しいのだ。

 長嶋南子は2編を載せている。
 「おにぎり」では、読んでいる本の中の男の首をひねって骨にして押し入れにしまっている。わたしも焼かれた骨になって、そこに焼きおにぎりがころがっている。

   骨の男が食べたそうにしているけど
   あれはわたしのもの あげない

 この意地悪にも似た凜とした自分の座を守り抜く気概に感嘆。
 つづく「居場所」。ベランダでひなたぼっこをして、そこで生きている。若い頃には頑張って働いていたので、今の居場所があるわけだ。そして最終連、

   ひまなのでうたた寝している
   なにもしなくていい
   つらい

最後の一行に泣けた。
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詩集「からだかなしむひと」  沢田敏子  (2016/03)  編集工房ノア

2016-04-12 21:35:43 | 詩集
 第6詩集。99頁に27編を収める。
 詩集のはじめには1月から12月までの出来事に材をとった作品12編がある。「背の明かり」の3月は雛祭り。おとなになってから求めた子どもの本には「おかあさんと おんなの子との/少しかなしいような ちいさな出来事が」書かれていたのだ。

   夕方
   雛飾りの雛たちを いっせいに
   向こうむきにした
   背から こんなに明るさがひろがるなんて

 静かなかなしみが話者にもあるのだろう。具体的なことは何も書かれていないのだが、その情感が浸みてくるような作品。
 タイトル作の「からだかなしむひと」は、遠い日の祖母を詩っている。祖母は「痛い、とは言わず/哀しい、と言った」のである。

   こころが哀しいのではなく
   からだのそこが哀しい、のだと
   遠い日の祖母は少女のわたしに
   半裸の背中を向けて。
    (註:原文では「そこ」に傍点あり)

 どのような状況だったのかは説明されない。祖母はまだ初経も迎えていない少女だったわたしに、何を伝えようとしたのだろうか。そして、その何かは不明のままでも、伝えたいものがあった祖母の在り様は、確かに話者に伝わったのだ。それは、この作品を読む者にも確かに伝わってくる。
 詩集の最後には”旗”を鍵にした5編の作品がある。いずれも具体的な事柄は説明されないのだが、話者が精一杯に耐えたところで発語していることが感じ取れる。伝えたいものは状況の説明などではないのだ。
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