瀬崎祐の本棚

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詩集「文月にはぜる」  藤井章子  (2013年11月)  思潮社

2014-05-29 19:01:33 | 詩集
 昨秋に出版された詩集をいただいた。第4詩集。93頁に22編を収める。
半分以上を占める1行20文字の散文詩たちが、妖しい。文月には音がはぜ、身を被っていたころもがはぜる。睦月には水を身ごもり、身体は奥の方まで湿ってくるようだ。
 「とろみのある肌足を窓辺から出して 不器用にそばだつ葉月」のリフレインが妖しい光景を突きつけてくる「とろみのある葉月」。葉月にはいろいろなものがらあ油の中に漬け込まれて、とろみ、まどろみ、かさなりあい、いたみあいながら、ひとつのものに変容していくのだ。やがては葉月そのものが「とろみのある肌足でかけぬけ」、ゆがみ、ねじれ、うずもれていく。ついには、

   「ほら、ここに・・・・・・」といって いまから狂
   おうと準備している。

 この作品でも、日常を構成している事物がねっとりとしている。そのねっとりと形を変えたものたちが身体に滲み込んでくるようだ。
 「系図」では、二月の夜中に兄の片方の足がのしかかってくる。やがてわたしの身体は兄や姉と一体化していくようなのだ。そして「ひとつの生きている系図が生まれる」ようなのだ。

   少し毒気のある系図は無形でもあり気体でも
   あり幻影のようでもあって 時刻がずれると
   きの歪みに新しい芽の系図がついでのように
   生まれ それは人の方位が兄の片方の足にも
   似て他人の生き死にをうながしていく。

 しかし、私には兄も姉もいないのである。では、私は何に絡みつかれているのだろうか。おそらくは、血脈を超えた、生きてあることそのものが”系図”となって私に絡みついているのだろう。
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詩集「異譚集Ⅱ」  樋口武二  (2014/05)  書肆山住

2014-05-28 17:26:49 | 詩集
 115頁に26編を収める。
 前詩集「異譚集」に続いて、この詩集もそれこそ虚と実のあわいを漂いながらの作品で、寓話性の高い作品を大変に愉しませてもらった。
 「狐の嫁入り」という作品では、「こういう日暮れ時には 歪んだ時間の襞から 野原の一本道に、いろんなものが出てくるのだ」と書かれる。こうして出てくる「いろんなもの」がそのままこの詩集の作品のように思える。闇のなかの提灯の明かりは狐なのか、人なのか、魔なのかもわからず、時間も超越されてしまうのだ。

    ひとは去っても 思いだけは、ゆらゆらと揺れながら 野
   原の辻で人を待ちつづけている 対岸の光は 深い闇に溶け
   ていって もはや 何も見えないのであった

 「朝のまぼろし」では、「漣が来ると 誰かがふれまわっている/いつものことだ」という。漣だというのに、それは「少しの不安と昂揚が/ひとひたと押し寄せて」くるようなものなのだ。思わぬ方角から突然にやってきた漣は、

   ひたひたと大地を濡らし
   低い土地に水をあふれさせ
   やがて、ゆっくりと曳いていくのである
   たぶん、わたしの心も
   日常も そして明日さえも
   水にぬれて、たわみ、悲鳴をあげるのだ
   きっと

 作品が虚の世界での物語を伴っている。元来は実の世界のことを語るためのものとしてあるのだろうが、あまりに物語が素晴らしく錯綜しはじめると、作者の意図も越えたところで世界を構築しはじめてしまうこともあるだろう。
 そうなると、作者はもう話者を呼び戻すこともできなくなってしまう。たとえば「招かれて」で不気味な同窓会に出かけてしまい次第に引き返せなくなる私や、「川を流れて」で薄情者だと呪詛の言葉をかけられている私、などだ。
 しかし、本当に怖ろしい目に会っているのは、そんな話者を作り出してしまった作者ではないだろうか。
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詩集「群青のうた」  中神英子  (2014/05)  思潮社

2014-05-25 23:26:17 | 詩集
 103頁に、普通の形態の行分け詩12編と、少し長い物語のような4編を収める。
 「よる 鳥が来て/わたしのかたちで啼くので/わたしは砂を握り眠る」とはじまる冒頭の「砂丘」。”わたしのかたち”とはどのようなかたちなのだろうか。具体的なものはみえてこないので、なおさらにこの表現に惹かれる。一応は”わたしが砂を握り眠る”理由が説明されているのだが、ここにあらわれたのは説明ではなくて、どこまでも読む者を迷い道に誘う状況の提示である。

   まだくらいうちに
   わたしの方向へ鳥が来て
   わたしのかたちで啼くことを
   わたしは知っているので
   よる
   わたしはわたしの分の砂を握り眠る

 こうして、状況の中に佇んでいるわたしが、なにも守る術がないような頼りなさで言葉に書きとめられている。せめて、と握りしめる砂は指の間から夜の中にかたちもとどめずに落ちていくのだろう。
「どこか片隅に常夜があ」るという作品「常夜」。いつまでも暗い草原にあるわかれ道、そこの道しるべに私宛の古い手紙が風になびいていたのだ。

   ああ、あのひとが私に宛てたもの
   こんなに経ってしまって
   しかも、見つけてしまって
   しらじらとした悔いの中・・・・・・
   私は、くいいるようにその文字を辿る

   それが今日の日の私の道連れ

 常夜は黄泉の国のようでもあり、理想郷のようでもある。「そこには分かれ道があり、古い手紙があ」るのだ。誰もが迷い込むであろう常夜の世界での有り様が見事に語られている。古い手紙の文字を辿ることが出来るのだから、その分かれ道での決断はきっと正しいのだ。
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この場所ici  10号  (2014/04)  東京

2014-05-22 22:28:58 | 「か行」で始まる詩誌
 「夜の動物園」北川朱実。
 動物園に飼われているアラスカグマやミシシッピワニは日暮れを待っていたのだろう。昼間は温和しくしていた獣たちは、夜になってはじめて獣に戻れるのだろう。暗いところに潜む獣の目だけが見えるイメージが湧いてくる。すると、何か昼間には気付かなかったことに思いいたったりすることだってあるというものだ。

   おとといの熱を抱いて
   繰り返し出発するものに会わなければ

 独特の細かく切れる連に、想像力をかき立ててくれる詩行が散りばめられている。理由など振り払った鋭い感覚が言葉を捉えていく。

   あふれた咆哮は
   破れた地図になって天空を舞い
   港へ向かうけれど

   光る目が
   いっせいに闇を流れて
   新星が生まれる気配がする

 夜の動物園には怖れにも通じるような高揚感がある。明るい時間には人が閉じ込めている野生のものが、どこかで解き放たれるような気がするからではないだろうか。その野生のものは話者の中でも解き放たれるのだろう。
 それが「こぼれ続ける碧い匂い」の中で立ち上がる「気配だけになったもの」なのだろう。

 
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兆  162号  (2015/05)  高知

2014-05-21 21:54:58 | 「か行」で始まる詩誌
 林嗣夫が詩誌の後記にあたる部分で、入沢康夫の「詩の構造についての覚え書き」に触れながら「詩への思い」を書いている。大変に共感できる一文であったので紹介しておきたい。
 詩作品をA、自分の私的な日常や感懐を書こうとするもの、B、詩の構造を自覚して言葉によって作品を構築していくもの、と便宜的にまず分類している。
 そのうえで、Aの困難は「どのようにしてその「私」を越え出るところまでもっていくか、というところにある。一種の抽象化が必要である。そうしないと、作品は自分の近辺に閉じられてしまって、多くの読者に届かない。」としている。
 まったく同感である。あまりに個人的な作品は、そのままでは他人には抽象的すぎてわからないのだ。普遍化するためには個人から離れるための抽象化が必要であり、それによってはじめて抽象的ではなくなると私(瀬崎)も考えている。
 一方、Bの困難は「一言でいえば、リアリティーということになる。」としている。Aに比してBでは「なぜそのように書くのか分かりにくい場合がある。これはBが、「感じる」(身体性)を置き去りにして、「考える」が走りすぎる傾向にあるところからくるのだと思う。」そして、「言葉だけで設計された非私詩的な構造物に、その根拠となる「私」をすまわせなくてはならない、ということではないだろうか。」としている。これも大いにうなずける意見であった。
 普段からぼんやりと考えていたことをすっきりと整理してもらったという気持ちになった。
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