瀬崎祐の本棚

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詩誌「hotel 第二章」 52号 (2024/06) 千葉

2024-06-19 11:55:28 | ローマ字で始まる詩誌
同人は16人で、”外出中”の2人を除いた14人が作品を載せている。

「偏愛小曲」広瀬大志。
2連14行のタイトル通りの”小曲”の体裁。「あなたをなし崩しにしたい」という恋歌なのだが、その感情は捻れている。その様は野蛮でもあり滑稽でもある。後半の2連目は、

   脳みそに照準器を取りつけて
   狩りは気まま
   物語の結末がわかっているはずがないから
   水たまり
   そうしよう
   おまえは水たまりだ

”あなた”はいつしか”おまえ”に変わり、恋情はますますねじれていく。「水たまり」と何気なく発した言葉に自ら鼓舞されて「そうしよう」と酔いしれているようだ。

「未熟な穴から」浜江順子。
5行ずつの5連に整えられた散文詩。銃口である”穴”からは天使が飛び出てくるのか、それとも何か邪悪なものが出てくるのか。穴は何かが出てくる場所であり、同時に何かを飲み込んでしまう場所でもあるようだ。

   未熟は自己の中心部をいたぶりながら、未熟であること
   にさえ気づかず、痛い失踪を繰り返す。それが未熟に与
   えられた美徳であり、ただ一つの特権だ。

語られる殺意や猥雑さ、未成熟さらが混沌としているのだが、語り口はきっぱりとしていて、その混沌を受け入れる強さを感じさせる。

「春泥」井本節山。
1行17文字×13行の1連仕立ての散文詩。作品は「裸のように独りだ」と始まる。固い芽を洗った雨の冷たい雫が落ちる。その雫と同じように黙って下を向いて行かなければならない人がいるのだ。

   春泥。雫の綻ぶところで、語られぬ
   言葉は眠りにつくだろう。傘の中で
   頭を垂れて、自重に耐えかねて、溜
   息は、落ちてゆく。

切り詰められた言葉がひりひりとした緊張感を保っている。最終部分は、「そして発酵せよ。発光し、発効せよ。春へと発向せよ。」春は足元にまとわりつく泥と共にやってくるのだろう。
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詩誌「ERA」 3-22号 (2024/04) 東京

2024-05-31 22:41:15 | ローマ字で始まる詩誌
29人の詩作品、5編のエッセイ・詩論を載せて80頁。

「美しい魚」藤井雅人。話者は磯伝いに歩いていて「美しい魚」を見る。世界を呑み込んでいるような青い闇がその目にはあり、

   別離のあいだに
   魚はどんな混沌を見てきたのか
   黒い巨きなうねりに引きさらわれて
   海の端から端まで泳ぎわたるうちに
   水の変遷する煌めきを身に刻んだのか

その魚の目には宇宙が映されていたのだ。それゆえの美しさであり、この「美しい」という形容は使い方によっては陳腐になってしまうところだが、この作品ではよく効いていた。

「尾行」日原正彦。話者は「ここ とは はるかかなただ」と気づく。そして「ここ」に「はるかかなたのわたし」がいると感じるのだ。この感覚の発想が面白い。

   露わであるが 何気なく隠されている
   かすかに罪の匂いもする そこへ
   あるとき ひそかに向かう わたしを
   わたしは 尾行する

通常の自分の底にはもう一人の自分がいるのだろう。その自分との尾行ごっこが始まっていた。

「花あそび」藤井優子。あなたが漕ぐボートではなびらを浮かべる湖面にいる。花は饒舌で、たゆたう時が流れている。

   もう少し暖かいところを漕ぎましょうよ
   あちらに渡ったら
   手を取って岸にあげてくださいね
   日のあるうちに帰りましょう

咲きほこった花が抱える狂気のようなものが迫ってきているのだろう。

「椅子のある風景」田中眞由美。そこにはなにかを待つひとが静かにすわっているのだ。「時間がすわる」、「しずかがすわる」、そして「いのちとすわる」という捉え方が巧みである。

   すわったままいのちがみつめられている す
   わったままいのちをみつめている まえもよ
   こもむきあういのちがすわるいのちとすわる

病院の待合室風景なのだろう。最終連は「そこにはいのりもすわる/そのときがくるまで」。やがて診察の順番がくるのだが、「そのとき」がいのちの終わりのときに重なってくるようだ。

私(瀬崎)は「いちじょう」を発表している。
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詩誌「Down Beat」 22号 (2024/02)  神奈川

2024-03-17 15:20:05 | ローマ字で始まる詩誌
この詩誌、毎号さっぱり訳のわからない作品が少なくない。しかし、とてつもなく面白いのだ。

たとえば「とうぶつ屋」廿楽順治は、「見も知らぬ「かたち」が売られていたのだ」と始まる。タイトルからして謎めいているが、おそらくは”唐物屋”、つまり舶来品を商っている店、ということなのだろう。「犀の襞のようなもの」や「死んだ唐人の記憶のなかの毛布」が売られているようなのだ。

   格子状になっている場所に、外国人の眼の模型が埋めら
   れている。遠い眺めのなかにわたしたちはいる。

売られているものが話者にお前自身は売り物になるのかと迫ってくるようだ。

つづいて「ヒルガエシ」今鹿仙。このタイトルになると、もう思いつくものもない。触れたり見たりするという感覚が言葉を連れてきている。それらは理屈が追いつく前にとっくにどこかへ走り去っている。

   馬だけが河原にあがる世界で
   主観はただ湯気を
   出したりして
   交信することを望むのみだ

言葉をまき散らしておきながら話者は素知らぬ顔をしている。だから読む者も勝手に素知らぬ風を装うのだ。

さらに「家族」小川三郎では、「窓辺に顔が咲いている」のだ。部屋の隅では裸体が眠っていて、夢のなかで裸体を鏡に映している。理屈は通らないまでも、この作品のイメージは伝わりやすいものとなっている。買い物先のスーパーは顔と裸体でいっぱいだったのだ。この作品の最終連は、

   買い物を済ませ
   家に戻ると
   顔と裸体は
   ちょうどひとつに重なっており
   仏具のような見栄えであった

訳のわからないものの面白さとは一体何なのだろう。訳がわからなければ、面白さも判らないのではないか。いや、そんなことはないのだ。作者の言いたいことに律儀につきあおうとするから判らなくなるわけで、そんなことは投げ棄ててしまえばよいのではないだろうか。提示された作品から勝手に自分の光景を見ればよいのであって、今まで描くことのできなかった光景を連れてきてくれる作品が、とてつもなく面白いのだ。
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詩誌「2CV」 6号 (2023/12) 富士見市

2023-12-05 17:13:31 | ローマ字で始まる詩誌
谷合と河口の二人誌で14頁。

「始まりの雨、終わりの雨」田尻英秋はゲスト作品。
孤立した沼の聖堂のような水面は陰鬱な抽象画のようで、世界に挑戦しようとした私は世界から逆襲される。

   取り残されてしまった うその世界から
   けれど取り残されていたのは自分の抽象だけだった
   私の肉体は私に先んじて進んでいった
   走っていった
   倒れていった
   それは私の甘い皮膜に侵入して
   私を内側からかみ砕いて行った

敗北感、無力感。その渦の中で私はあなたを追い、同時にあなたから逃げているようだ。

「シャトー」谷合吉重。
房総にある石造りのシャトーでの探検譚、あるいは夢想譚である。仮眠の傍らには見知らぬ女があらわれ、病院とも教会ともつかぬこの場所の院長には犯した罪を告白させられる。

   書かれないことを、やめないものへの郷愁
   お前の限界が、そこに横たわっているのだ
   だが未来が永遠にやってこないということは少なくとも
   永遠というものに近づくことはできるということだ
   礼拝堂の窓から、射しこむ西日が院長の顔に翳を作り
   わたしの頬が、にわかに温まって来るのが感じられた

まるでゴシック小説のような神秘的なものも漂わせて、いったい、話者はこれから贖罪に向かうのだろうか。

「時計の中」河口夏実。
タイトルからすれば、線香花火に照らされた「ちいさな人びと」というのは2本ないしは3本の針のことなのだろう。彼らが森の妖精たちのように跳びはね、闇と光が交差しているこの時計のなかの世界は、見事に外のこちら側の世界と完全に拮抗した存在のものとなっている。その提示も美しい。最終連は、

   にぎやかな
   庭から
   しずかな道に
   笹で編まれた
   舟が出てゆく
   月の明かりがさっぱりとして
   花に絡まる
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「CROSS ROAD」 22号  (2023/10)  三重

2023-10-31 18:43:51 | ローマ字で始まる詩誌
北川朱実の個人誌。16頁に詩3編、エッセイ2編を載せている。

「乾杯!」には海岸通りの廃屋が描かれている。ガムテープでふさがれた郵便受け、日焼けしてはずれたカーテン、割れたガラスの風鈴。それらは時の流れを背負って、この世界の記憶から忘れられようとしているわけだ。明るいのに誰の姿もないような寂寥が支配する光景のそんななかで、話者は縁が欠けたワイングラスを目にする。

   もうすぐ草木に埋もれる
   その前にと

   見えない手が グラスを高く上げる
   乾杯!

何と粋な計らいであるだろうか。話者が「サファイアブルーの海を映し」たそのグラスを最後に乾杯グラスにしたのは、流れ去っていく時に敬意を表したからではないだろうか。

北川の連載エッセイは毎号楽しみに読んでいる。
「伝説のプレイヤー」は22回目で、今回は「ため息が出るほど美しい」との題でハービー・ハンコックだった。私(瀬崎)もハンコックの「処女航海」や「スピーク・ライク・ア・チャイルド」は好きだった。1973年頃からの電子ロック調のものにはついていけなかったが、チック・コリアとの楽しい掛け合いのピアノ・デュオ「イン・コンサート」は愛聴盤である。そんなハンコックの魅力を見開き2頁のエッセイで伝えてくる。そうか、伊勢湾岸道路のドライブにもハンコックは合うのだな。

もう一つのエッセイ「路地漂流」も22回目。こちらは「魔法にかかったように」の題で武田泰淳夫人の鈴木百合子について語っている。彼女の人柄、生き様がよく判るエピソードが簡明に書かれている。この簡明さで鈴木(武田)百合子の魅力を十分に伝えてくる北川の筆力には感心する。鈴木百合子については「あとがき」でも書かれていた。

北川のこういう文章を読むと、(心の中や資料の茫漠とした)風景の中からどこを切り取ってどのように的確に書きあらわすか、ということの大切さをあらためて思い知らされる。
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