瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩誌「タンブルウィード」 13号 (2023/02) 神奈川

2023-03-29 11:57:51 | 「た行」で始まる詩誌
88頁、同人は10人。前号からだったか判型がA5となり、手に馴染みやすいものになっている。

河口夏実は4編を発表している。描かれている内容とは別に、読むのが楽しいという作品を書かれる方がいる。私(瀬崎)にとって河口はそんな作者のお一人である。
「ちいさな海」。具体的には書かれていないのだが、何か気持ちの安寧を揺さぶるものがあるようなのだ。そんな話者は「からだが透けていることにも/気がつかないで/バスにゆられ」ているのだ。作品はそんな気持ちを抱えた彷徨いの様を、柔らかくなぞっている。最終連は、

   死に絶えてゆくものを
   近くに思うとき
   枕を抱いて朝までねむる
   駅がいくつも転がっていて
   肩にもたれる
   ゆるい鼓動を思い出としてちいさな海を
   どこまでもいく

若尾儀武「無題詩編」は**で区切られた11の断章から成る。大きな音、十字架、降り始める雪、そしていくつもの章であらわれる老婆。説明でも理屈でもなく、ただ描かれる光景が一点に集約されていく。

   いのちは戦火ゆえに削られるものか
   そんなものではびくともせぬものか
   それを知りたければなお

   へルソン郊外
   仮に設えたパン焼き器釜の前に座し
   老婆は今日きっかりのパンを焼いている

ウクライナ戦火に材をとった作品を少なからず目にするが、本作は安易に感情に流されずに、それでいてきっちりと戦禍にある人を詩っていた。

陶原葵の評論「中原中也 つづれ」は「「Dada的」について」との副題が付いている。中原の作品には「ダダイズム的表現」と評されるものがあるわけだが、陶原は「西欧の本家とは少しく距離があるといえるかもしれない」としている。その検証は大変に興味深いものであった。
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詩集「境目、越境」 たなかあきみつ (2023/03) 洪水企画

2023-03-26 22:22:00 | 詩集
第8詩集か。硬質な言葉が連なる28編を載せる。

読む者を拒絶しているかのような言葉の連なりは、この世界の有様を語っているようで、そこにあらわれてくるのはこの世界ではなくなっている。
たとえば「(ない窓に)」。窓は内部にいるものと外界をつなぐ場所であるが、それは往来をする場所ではなく、光景を見たり音を聞いたり匂いを取り入れたりと、肉体を移動させないままでの感覚交叉の場所である。しかし、その窓がないことによって生じる事象もまたあるわけだ。「乾いたサウンドが無限大へと突き抜け」るし、「ごうごう風の音」はやまないし、「脳天の空色は」底が知れないのだ。

   鉄のグローブが血まみれの雲間にない窓から顔を出す、
   シベリア横断鉄道の路線図からせっせとスティンキイの針毛もどきに
   ワープした尖った窓ガラスのかけらに浮かぶマリーナの童顔
   そのシニョンのような後ろ姿の破片がきらめく

”窓がない”のではなく、ここには”ない窓”があるのだ。感覚の交叉という本来の窓の役割を喪失させることによって起ち上がってくるものを作者は視ようとしているのだろうか。

「(火の棘)」は第2版、「あるいは冗談音楽のシリアスな試み」は第3版となっている。これは既発表の作品を新たな形として再び提示しているということだろう。それは単なる推敲とは異なり、自分の中で一旦は終わったとした作品世界を再構築したのだろう。そこになにがあったのかは作者と作品にしか判らないわけで、葛藤、あるいは戦いだったのかもしれない。以前の版と読み比べることはできなかったのだが、興味深いことではある。

「彼女の《面影》草子から」には佐川ちかの「夕暮れが遠くで太陽の舌を切る」という詩句が添えられている。研ぎをおこなってよく切れるようになったゾーリンゲンをきみに渡すのだが、なにか切りたいものがあったのだろうか。アネモネをめぐる花問答があり、きみは亡くなっていく。

   フェルメールの描く半開きの唇を
   やみくもにスピンオフして《破断》
   ぼくのほうはルンゼとリッジを《這い上がる》
   ルービックキューブ3×3を/試しに空っぽの瓶と交換した

とても異質な空間に連れて行かれる作品が並んでいる。おそらく作者が誘導を試みたのとは異なる空間にたどり着いているのだろうが、それは読む者の勝手ということになるのか。
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詩誌「交野が原」  94号  (2023/04) 大阪

2023-03-22 23:50:55 | 「か行」で始まる詩誌
金堀則夫の編集・発行で、今号には31人の詩作品、3編の評論・エッセイ、それに14編の書評を掲載している。充実の詩誌。

「夜中にラーメンを食べる」高階杞一。
湯を沸かし、麺をほぐし、卵を落とし、といった独りきりの静かな些細な行動の時間の間にも、どこかで「人が死ぬ」ことに思いをはせている。

   火を止めて
   スープを入れてかき混ぜる
   この間にも
   どこからかミサイルが飛んできて
   人が死ぬ

そして最終部分、できあがったラーメンを食べる間にも「人が生まれる」。見えない場所でのそういうことを同時に孕んでいるのが、自分が存在している世界なのだということを感じている。たしかに、そういうことなのだな。

「少年の朝」八木幹夫。
連載4となっており、「兄の目」「日記」の2編からなっている。病で入院した兄を詩っているのだが、話者の少年時代に生じていた兄への屈折した思いが奔流となって吐露されている。劣等感の塊だった”兄の目”でわたしは毎日殺されていたのだ。入院した兄に話者は「死ぬなよ」と語りかける。それは「生きて/傷つけた弟を/少年時代を返」してほしいからに他ならない。最終部分は、

   兄さんの一生は休むことのない
   日々だった
   ぼくを何度も殺した兄さん
   今 死んでもらったらこまる
   ぼくの魂がこまる

すさまじいほどの兄に対する怨念が渦巻いている。その怨念が存在することで「ぼくの魂」が危うく踏みとどまっている。この緊迫した吐露に圧倒された作品。

今号には北原千代氏にお願いして拙詩集「水分れ、そして水隠れ」の書評を書いてもらった。過分なお褒めをもらえたのだが、その捉えは作者の意図を超える深みにまで到達していた。

    生きているとは、水と親和し、湯にその疲れを落としてはま
   た、滴るものをまとって走ること、そして死とは、記憶が葬り
   去られることなのだろうか。

私(瀬崎)は行分け詩「うぐいす通り」を発表している。

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詩誌「hiver(イヴェール)」 2023/03 東京

2023-03-17 15:51:02 | ローマ字で始まる詩誌
101頁。表紙には、茫漠とした河を見ている人の青灰色の写真が使われている。タルコフスキーかアンドレイ・ズビャギンツェフの映画の一場面を思わせる雰囲気である。
糸井茂莉、高塚謙太郎、時里二郎、十田撓子、峯澤典子という魅力的な5人が集まっている。あとがきも編集後記もなく、挟まれていた紙片には「5人の書き手が2022年から2023年のひと冬に書いた詩編」とのこと。詩誌となっているが、継続して発行されるものか否かは不明。

高塚謙太郎「FAREWELL FEARWELL」は、*で区切られた17章からなる20頁にわたる作品。
冬という事象の中を彷徨う意識を捉えている。「残りの メモリ/朝焼けて/過ぎ去った朝のよう」であるし、「背表紙を横にたたえ/睡りの文字は冬をすす」ったりしている。自分の外側にあるものの描写が内側で呼応するものを探しているのだが、やがてそれらは混然として新しい光景を作り上げていく。両者の滲みあい方が美しい。

 冬はみとられず
 かすれていく協奏の
 破線にすぎない
 その道は
 ポケットに両手をつっこみ
 息は白く濁り
 遠く踏切の警報はずっと
 今も耳に何を
 もてはやしているのだろう

峯澤典子は5編を載せているが、その中の「螢」。話者は町はずれの焼き場から戻るバスに乗っている。昔、橋のうえであなたは「ほら、ほたる」とわたしのゆびにふれて教えてくれたのだ。その痩せたゆびの感触が作品の深いところで静かに揺れている。意識を向けると、今は見えない川のせせらぎもずっと聞こえているようでもある。最終部分、バスの暗い窓ガラスにはわたしのふたつの目だけがうつっていて、

 ほら、ほたる
 橋の途中であなたがずっと見ていた
 ちいさなふたつの火は
 長い夢のなかで
 ゆっくりと灰になる花房のように
 わたしが死ぬ瞬間まで
 ゆれつづけていた
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詩誌「カルバート」 2号 (2023/03) 群馬

2023-03-13 00:15:37 | 詩集
樋口武二が編集・発行する”自由参加”誌。今号は80頁に13人が参加している。
所々の頁にはアメリカ議会図書館に保存されている古いポスター写真をカラーで載せている。今見ると大変にモダンな感じがする。

「呼ばれているのは、誰」野間明子。
起きようとしたら誰かがいるのだ。布団の中に巻き込んだのだが、なにも言わない。「ねえ、/誰なん?」と尋ねてみるのだが、

   やっぱりおかあさんだ でもなんの話しだろう 名前三つってなんだろう 誰? と
   三回呼んだからか 呼ばれるたび違う名前が呼び出されるのか 名前三つ持っている
   のはおかあさん、それかわたし?

難しい言葉はなにもないのに、差し出された状況は不可解だし、指し示し方もよく判らない。そもそも三つの名前というのがなにを指しているのかが不明のままで作品が続く。盛り上がった布団の中に閉じ込めたものは何だったのだろう。なにか怖ろしいものが待っているような雰囲気が漂っている。

「瀑布」金井裕美子。
「おびただしい数の/ネクタイが降ってくる」のである。それは「ほつれた糸を/飛び散らかしながら」滝つぼに堆積していくのだ。これはまたなんという光景であるだろうか。あまりのことに読む者もあっけにとられて、この状況を受け入れるしかないではないか。作品の後半は、

   息苦しさに
   滝つぼを覗きこむと
   けたけたと笑って
   もう戻れないわ
   足掻く女が
   真っ赤なネクタイに打たれながら
   呟いていた

話者は(そして読者も)いつまで傍観者でいられるのだろうか。あなたも滝つぼに降っていくことになるのではないだろうか。

樋口武二は写真と詩を組み合わせた「やさしい人について、」を載せている。NYパブリックライブラリーの4葉の写真に触発された作品なのだろう。写真をながめながら言葉を追うと、そこに付け加わるものが生まれてきていた。
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