瀬崎祐の本棚

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詩集「ロンリーアマテラス」  甘里君香  (2017/04)  思潮社

2017-06-29 18:07:08 | 詩集
 第1詩集。109頁に26編を収める。帯文は中塚鞠子。
 詩集全体を通して母であることの痛みが伝えられてくる。それは個々の作品がつなぎ合わされて浮かび上がってくる物語に裏打ちされている。

 たとえば「食べるのは嫌いなの」は幼い女の子のモノローグとして差し出されてくる。おかあさんはお財布の中の少ししかないお金を見せ、「痩せっぽっちで/猫背の私に/たくさん/食べなさいっていう」のだ。そんなおかあさんの財布はおかあさんみたいによれよれになっていき、そのあかあさんは涙みたいにお金もぽとぽとこぼす。

   食べるのは
   嫌いなの

   だけど
   知ってる?
   ほんとうは
   おかあさんが
   嫌いなの

 金銭的にも気持ち的にも貧しい母子関係が浮かび上がってくる。他の作品では離婚があり、親権の調停がある。しかし、これらの物語が現実に根ざしたものであるのか、虚構のものであるのか、それは作品を読む上ではそれほど重要なことではない。それは、母であることの痛みをあらわすために提示された物語であり、それ以上でもそれ以下でもないものだろう。

「ニンゲン嫌いの子育て」では、「あなたには私しかいない」と言う。しかし、私はニンゲンが嫌いで怖いのだ。だからあなたも怖いのだ。それでも母で在り続けなくてはならないのだろう。

   私はあなたを抱きしめて知らなかった温もりをもらう
   あなたを抱きながらあなたに抱かれる私をあなたは食い入るように見つめる
   秘密を知りたいと 何でも知りたいと
   怖い気持ちに負けないように満面の笑みを返す

 これらの物語を借りて伝わってくる母としての痛みは、鋭く読む者に刺さってくる。
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詩論集「物語のかたわらで」  千木貢  (2017/06)  タルタの会

2017-06-27 23:51:10 | 詩集
 詩誌「タルタ」に連載されていた詩に関するエッセイをまとめたもの。7つの文章が載っており、それぞれでテーマに沿った2~3編の詩を取り上げている。
 「ひとつまみの時間」では、私たちが強く時間を意識させられるのは「深い感慨とともに刻まれる〈とき〉であって、それは〈いまここにある〉という己の実在を起点としています」という。そして、

   想起されたものは〈いまここにある〉私が想起している一つの経験のそのもので
   す。想起自体が〈いまここにある〉私の体験なのです。

 これは素直に判ることだ。想い出は常に今の自分のものであり、昔の自分などはどこにもいるはずがないのだ。この章では細田傳造の「此処ヨリひだり岩槻みち」と田中裕子の「昭和五年生まれの教室から」が引用されている。
 「残響が今に繋がって」でも時間について考察がなされている。奥津さちよの「きょう」、宇宿一成の「砕ける石」、青木ミドリ「とげ」が引用されている。作品の中でどのような時間が流れているのかを検証して、

   書くことは失われてゆくものの再生をどこかで信じる行為なのかもしれません。
   時間のなかにすでに埋もれた存在を時間とともに再び取り戻すというのが、書
   くことの真の意味と言えるのかもしれません。

 その他には切ないような家族愛についてや、推敲について、作品内容の共有についてなどが取りあげられている。
 こうした考察されている事柄はとても身近に感じられるものばかりである。だから、千木の問題意識によりそって読む者も自分の考えを整理することができる。そうした背伸びをしていないフィールドは作者にとっても読む者にとっても優しい。
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詩集「天牛蟲(かみきりむし)」  魚野真美  (2017/05)  iga

2017-06-23 07:55:29 | 詩集
 阿賀猥が関与しているイガイガボンの1冊。カバー装幀(牛の長い髪を切っている虫の写実的な?イラストが秀逸)、本文の文字の組み方など、破天荒な迫力と楽しさで読み手に迫ってくる。35編を収める。
 この詩集の魅力については帯文に端的に記されている。いわく、

   牛に生まれ、身体に蟲湧き狂い走り出す。街は穴。人、花、石となり、穴を掘り進
   み眠り込む。穴は貫通するか、はたまた目醒めるか。まだまだ、醒めそうにない。

 さて「バズーカ病院」。勤め先が病院名を公募するという。母は「あたしはバズーカ病院がええと思うねん」と言う。ん、なんでや? 病院の屋上に砲台が並んでいるんか? とにかくそんなことはどうでもよくて、

   野戦病院はもちろんバズーカ病院
   命名した看護師たちは
   自らバズーカに乗り込み
   次々と発射されていった
   そしてそのまま戻ることはなかった。

 この束縛から無縁であるような世界の広がり方はどうだろう。どうせ書くなら、こうやって解放されなくては意味がないだろ、と言われているような気分になってくる。

 集中ただ1編の散文詩の「水切り石」。
 夜の川で向こう岸では親子が水切りをしている。こちらの川岸にはカップルが等間隔で並んでいる。そんな場所で私は、ミキサーにかけたひよこを再構築したときに何が再現され、失われているか、という話を思い出している。

   ミキサーの遠心力によって油と水のようにひよこは綺麗な二層に分け
   られ、泡立った上澄みはスプーンで掬い取られる。下層の肉体だけと
   なった液体の上を水切り石が走る。水切り石は回転数が足りず、夏の
   夜に沈んでいった。

 ときに意地悪く、また無責任に、どこまでも自由な言葉たちは新しい世界を形づくる。
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詩集「vary」 広田修  (2017/06)  思潮社

2017-06-21 22:56:01 | 詩集
 冒頭の「探索」は36の章からなり、その次の「神話」は11の章からなっている。それらのいずれでも、言葉は堅く積み上げられている。揺るぎないものを構築しようとする意志が感じられる。それによって自分がもたれかかる場を得ようとしているようだ。

  いくつもの水際が交わる地点で、杉の木立が絶え間なく引用されては要約されている。切
  られた影をつぎはぎしてできた窓が幾重にも重なっては蒸発している。部屋の表情から捧
  げられた視力を集め忘れる。
               (「探索」22より)

 暗喩を多用して光景を捉えることによって、その光景を異なる次元のものとしようとしているのだろう。ただその光景は私(瀬崎)にはやや無機質すぎた。
 「無題」と題された作品は5編あるのだが、そこでは話者は必死に自分を伝えようとしている。

  枢軸が純粋に誤りそのものになったとき、
  あらゆる道は死に至り朽ち果てていきました、
  もはや草原には至る所に崖が発生し、
  崖の両面には夥しい文字が書かれています、
  自己の誤りも他者の誤りも社会の誤りもすべて一様に記されて、
  責任の落ち着く先は流れていく雲のように不安定です、

 自然も社会も、すべては自分のために在るように構築しようとしている。それがこれだけの言葉を用いなければならなかった必死さなのだろう。
 「あとがき」で作者は「私は対話を好む人間である」として「詩集もまた読者との対話のために編まれている」と記している。しかし、私(瀬崎)にとってこの詩集の言葉はただそこにあり、作者はすでにそこにはいないようだった。したがって、作者との対話はおこなうことはできなかった。
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詩集「帰、去来」  陶原葵  (2017/04)  思潮社

2017-06-13 20:48:03 | 詩集
 第3詩集か。97頁に17編を収める。
 この詩集について何かを書こうとするときに、はたと手が止まってしまう。とても感想が書きにくいのだ。何かを見つめようとすると、それまでの視点が異なる方向へ誘うようなのだ。何が書かれているのか(何が書かれようとしたのか)がとても判りにくいのだ。
 たとえば冒頭の「岸」では、ひとりの媼が皿をならべている。

   火に押しやろうとしても
   むこうですきまに指をはさみこみ
   窓のない部屋に何日いられるか、
   試す眼で見返す

 不思議な展開をみせるのだが、ここには記載されていない必然性のようなものも感じられて、その判らなさが面白い。いろいろなことを想起させてくれる。この作品の後半のあたりは、

   縦に掘れば見つかるかもしれないが
   あまりの唐突な隠れかたに
   枝という枝から 芽が吹き出していて

   (記憶に時効は ないのだよ)

 これらの記述に加えて、他の作品では行頭の高さはさまざまに揺れたりもする。そして話者に語りかけてくる声も挟み込まれてくる。詩集タイトルにもなっている作品「帰、去来」は5章からなり、これらのことが縦横無尽に展開される。

   腕の中にぐったりとしているもの

    (闇を一心にひきうけて
       口呼吸しかできないでいるもの

      (――置き去りにしていたのではなかった
        記憶の毒をすいとってくれたいのちを

 捉えようがないものを、それでもていねいに書きとめようとしているようだ。それは形にはならない感情の断片を拾い集めて、作者自身がどのような形になるのか、訝しみながら言葉をならべているようなことなのかもしれない。
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