瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

午前  7号  (2015/04)  埼玉

2015-04-27 20:47:36 | 「か行」で始まる詩誌
 A4版、73頁に10人の詩作品、3編の評論・エッセイを載せている。
 「いない人の目は」吉田文憲。
 誰か大切な人が去っていったようなのだ。残されたわたしはわたしだけが聴いているうわごとを呟いている。「もう届かないところへ倒れてゆく」//「微弱な」//「無力の」//「繰り人形として」など。その短い言葉は、やはりいなくなった人への言葉だったのだろうか、それとも、受けとる人がいないことをたしかめるための言葉だったのだろうか。

   歩き出すと足音は、水際までついてきた

   遠く光る北の海岸線を想い浮かべて、
   いない人の目は、だれを捜していたのだろうか--

 「夜明けに」布川鴇。
いつの日かの夜明けの浜辺を思っている。その朝にその場所で何事かがあったのだろう。それは「冷えきった指で/散りゆくことのない花を束ね/夜もすがら/蹲っていたものよ」と呼びかけられるものであり、その時から何かが徹底的に変わってしまったのだろう。単なる悔恨ではないのだろうが、深く留められていたものへの諦観と一体になったような思いが読み手にも突き刺さってくる。

   いま天に戻された憧憬とともに
   正確に刻まれていたはずの時間が
   しずかに 意味を失っていく

 平林敏彦の評論『「蒼ざめたvieの犬を見てしまった」君へ』は、「田村隆一から三好豊一郎への書信」という副題がついており、1946年に詩誌「新詩派」に掲載された「手紙」と題した田村隆一のエッセイを全文紹介している。田村は、「囚人」を書いたばかりの三好豊一郎の身體を案じながら、詩を書く際の精神と肉體の一元化について言及している。貴重な資料であろう。
 また田中清光のエッセイ「伊達得夫・書誌ユリイカの想い出」では、伊達の出版人としての業績が10年ほどの短期間になされていたことに、あらためて感銘を受けた。
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ネビューラ  42号  (2015/04)  岡山

2015-04-25 00:21:12 | 「な行」で始まる詩誌
20人の詩を載せて、A4版、24頁。尾崎博志のカラーの表紙絵がお洒落である。各月刊であることに感嘆する。

 「絵本」下田チマリ。
 古い糸車で糸を紡ぐことだけが私のすべてで、「そのために私の腕は消滅し 足も萎えて無くな」ったのだ。私は冬瓜のように部屋に転がっているのだ。

    転がっているだけの私のからだを たくさ
   んの行列が横切り 自信に溢れたたくさんの
   言葉が突き刺さり たくさんの嬌笑や憐れみ
   が私を沈めていったような気がするのだが (略)

 糸車のある部屋もその部屋に転がっている冬瓜も、私以外の人には存在しないものなのだろう。だからこそ、私には存在しなければならないものなのだろう。

 「石こころ」中尾一郎。
軽妙な寓話風の作品。胸の奥がすうすうするのは、心の片隅が欠けて寂しい風が吹き込んで来たせいだった。失くした欠片を探しに外に出て、拾い上げた石に懐かしい気持ちになるのだ。

   そうか
   僕の心の欠片だった石なんだ
   大切に握りしめたが
   心の中に戻すことはできないので
   川に向かって投げておいた

 最終連は「だから川には石こころが/たくさんある」。実際に”石こころ”という言葉があるのか否かは不明なのだが、”石ころ”と”こころ”からきた作者の造語ではないだろうか。捉えどころのない感情を巧みに可視的なものとして提示している。

 「サヨリ」壺坂輝代。
ラジオでふと聞いたサヨリという言葉から、わたしの中で細長い魚が泳ぎはじめる。サヨリはとにかく口先が尖っているのだ。そして、

   すれ違う人みんなが
   サヨリを
   心の中に飼っているように
   つんつん つんつん突いてくる
   男も女も
   老人も子供も

 容赦ない他人との丁々発止のやりとりを思わせるような、思わず微笑んでしまう戯画を描いていて楽しい。サヨリは身は白いのにその奥の臓腑は真っ黒とのこと。突き合いをするにはその真っ黒さが必要なわけだ。最終部分がいささか人生訓の趣になってしまったのは残念だった。
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ココア共和国  17号  (2015/04)  宮城

2015-04-23 19:06:01 | 「か行」で始まる詩誌
秋亜綺羅の個人誌。ゲストは6人で、いつもながらにフットワークの軽快な詩誌。清水哲男の作品も載っている。

 「あざ」黒崎立体。
 めがけてきたひかりによって木が裂け、その裂けめからは「ぐしゃぐしゃの花がこぼれて落ちる」のだ。ひかりのなかで生きているものと死んでいくものが絡みあっている。生と死は(当然のことながら)お互いを求め合っているようだ。

   すてられたさかなの息で、そのからだは微かにはためいている。
   土にまみれるとそのみずっぽさがきわだつ、生きて、いようとす
   ることがようやく、おかしくなる。死ねばいいのにと、ひとのや
   さしさで言える。

 ひかりは、生と死が絡みあってひとつに解け合おうとしている間隙、裂けめを照らし出しているのだろう。

 「部屋のカーテンを開けて」ほか 秋亜綺羅。
 秋は4編を載せているのだが、ひとつの作品の最終連(2行から成る)が次の作品の第1連となっている。だから、物語はうねりながら連なっていく。何の計算もしていないようにみせて、つまりは本心からのことを描いている(それはそうなのだが)ようにみせて、ちゃんと企んでいる。

   止まった時計だけが
   きざむことのできる時刻があるから

   きみの舌のうえで転がる
   ぼくの人差し指の湿った時刻

   きみのてのひらの冷たい汗にまぶされた
   ぼくの子羊の魂の時刻

 こうやって明るく楽しく読まされて、それから気がついたらとんでもない落とし穴に落とされていた、というのはなかなかに真似ができない。

 巻末に金澤一志の評論「くさび形文字の詩 -寺山修司とVOU」が載っている。寺山は18歳から20歳にかけて北園克衛が主宰していた「VOU」に参加していたとのこと。そこに掲載された作品のいくつかは、処女作品集「われに五月を」に収録されたが、いずれも大きく改変されていることは、本稿によって初めて知った。
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視力  7号  (2015/04)  宮崎

2015-04-19 21:11:28 | 「さ行」で始まる詩誌
 同人は4人だが、1人が休会とのことで3人の作品を載せている。27頁。

 「アーモンドの森」外村京子。
アーモンドの実がどのようになるのか知らない。したがってこの作品がどこまで実際のアーモンドの森に即しているのかはわからないのだが、作品に書かれた森はたしかに物語での森となっている。それは「月夜に浮かぶ島」にあり、そこでは「ざわめきにつられて枝はふるえ/花はいっせいに開きはじめる」のだ。要するにそこは特別の森であり、特別のことが起こる場所なのだ。

   受粉してゆく青年の手もとに
   まっしろな花びらが散りつもる
   (彼の新しい機械は重い

 「三月の庭」本田寿。
 退屈だった日は日記に嘘を書くという。たとえば「桃の花が咲いた」と。すると本当に翌朝には桃の花が咲いていたのだ。別の日には「桃の花が散った」と書いたのに、満開のままだったりする。現実は嘘の記述に従ったり裏切ったりするのだ。一方で、書かれてしまったことが現実を支配するという思いはとても魅力的である。
 (余談になるが、映画「主人公はぼくだった」は、他人の書いている小説の通りに自分の現実が変化するというものだった。)
 しかし、「桃の花を空壜に挿した」と書いたら、

   庭先の桃の木が消えていた

   美しい嘘さえ現実によって罰されたのだ
   きょう あなただけが空虚な庭の中に立っている

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白亜紀  143号  (2015/04)  茨城

2015-04-15 21:50:52 | 「は行」で始まる詩誌
 「新年」鈴木有美子。
どこかへ行かなければならないのに渋滞の列で動けないようなのだ。強い風が吹き、海底火山は噴火し、上層圏の羊たちも不穏だ。苛立ちと、それでもくじけない決意が”新年”には必要なのだろう。緊張感がどこまでも持続している。

   新年の扉を開くように
   僕は
   粉々になった
   僕の欠片を取り戻すのだ

   きれぎれのこの世界のどこかに待たれている僕がいる

「夜の痕」岡野絵里子。
 「記憶の中で繰り返し 繰り返し私たちは傾く」とはじまる6連の散文詩。おそらくは大地が揺れ、大地が柔らかく歪み、日常がどこかへ沈み込もうとした記憶なのだろう。うわべに見えるものは落ちついても、ふたたび傾く夜があることを知ってしまったという”痕”が残っているのだろう。どこにも逃げ場のない”痕”なのだろう。

   それらは彼方から来た者の痕跡だった 食卓
   のスープが耳の中で濃くなること 人が壁の
   内側で 眼の奥を昏くすることも

 「雨を待ちながら」網谷厚子。
 ぴっしりと20字×40行で書かれた散文詩。重い荷物を担いであなたがやってくる。あなたは「丸い魂(マブイ)」を届けにきたのであり、また暗闇に消えていく。とても慕っているようなあなたなのだが、そんなあなたとは他人のようにすれ違っていくだけのようだ。何か切羽詰まった物語を感じる作品。残された赤子のような魂をわたしはあやしていて、

   あなたが 月を連れ去って行ったように 雲
   が厚くなり 闇が濃くなっていた 闇の中に
    わたしは 浮かんでいる ただ 天から落
   ちてくる 冷たい 雨を待ちながら
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