瀬崎祐の本棚

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詩集「女乗りの自転車と黒い診察鞄」  細野豊  (2012/10)  土曜美術社出版販売

2012-11-27 19:30:28 | 詩集
 第4詩集。103頁に24編を収める。カバーには咲き乱れる花畑の中に止められた女乗りの自転車が描かれており、画面の向こうからなんとも美しい朝日が差してきている。
 作者の母上は助産師をされていたようで、

   そして夜中に迎えが来ると母は寒風の中へ
   女乗りの自転車で乗り出していった
   荷台に黒い皮の診察鞄をくくりつけ
   陣痛に耐えて待っている妊婦のいる家へ
                        (「母の赤いほっぺた」より)

 当時は幼かった兄弟が、夜中に家に取り残される不安、寂しさもいくつかの作品でよくあらわされている。母上が満潮の時刻を調べて分娩の予測を立てていたというエピソードも微笑ましい。今、母上のことを振り返る作者には、誇らしく思う気持ちがあふれていることがよく伝わってくる。
 著者は南米文学研究者としての業績も多い。つい先日もペドロ・シモセの詩集「ぼくは書きたいのに、出てくるのは泡ばかり」(2012/10 現代企画室)を翻訳している。詩集の第3部には南米旅行に材をとった作品が並ぶ。”おれ”は、アンデス高原のラパス市のカフェテリアでコカ茶を飲むのだが、

   居眠りしたかと思う間もなく
   日本のわが家の布団の中で目が覚め
   あのカフェテリアにリュックを置き忘れてきたことに気づく

   あの中にはパスポートや財布ばかりでなく
   ただ一度かぎりの大切な記憶も入っているのだ
   取りに引き返そうとするが
   どうしても地下鉄の入口が分からず途方に暮れている
                 (「アンデス高原に置き忘れたリュック」より)

 旅は、自分の中の何かをその地へ置いてくることなのだろう。置いてきたものと引き替えに何かを持ち帰ってくることなのだろう。
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詩集「陽の仕事」  岡野絵里子  (2012/10)  思潮社

2012-11-25 22:39:44 | 詩集
 第2詩集。25編を収める。
 この詩集にはいたるところに”光”がある。「その日 私は沢山の光りを抱いた」という1行がある冒頭の「光りについて」をはじめとして、

    歩く人の髪に光りが止まる 私たちが地上に留まるそのひととき 
   陽は次々と触れていく              (「永遠のカーヴ」より)

    光を集めて透き通る 音管の底を通るのは冬 管はやがて 露を
   凍らせた木々になり 林の底を 馬たちが駆け抜けて行く  (冬の馬」より)

    待っているのだろう 私たちと同じに だが光りの舌が ゆっくり
   と輪郭を溶かしていく                (「冬の童話」より)

 この他にも多くの作品に「光」、あるいは「陽」という言葉があらわれる。光は明るいイメージでさしこんできて私たちを奮い立たせてくれるのだが、本当は暗闇があるから初めて光もあるわけだ。闇を知る者だけが光りの意味を知っているとも言える。(だから、”陽”はまた、ふたたび死者を照らすものでもある。)
 作品の情景は、どれも日常のすぐとなりに佇んでいる。気づかずに通り過ぎてしまいそうな、そこにあるかすかな肌触りのものを岡野は静かにすくい上げてくる。そうか、この情景にも言葉を澄ませばこんなにも豊かなものが漂っていたのだ、と気づかされる。そして、それらのかすかな肌触りのものを感じることが、よりよく生きていくためには大切なことなのだと気づかされる。

    私は確かに水を潜った 間近な時間ほど疾く 古い物語ほどゆっ
   くりな 奇妙に鮮やかで意味深い 光の紐で束ねられた一枚一枚
   いいえ 思い出しはしない ただ夢を通り抜けただけ

    遠くから訪れて来るものよ 私たちは日々生まれ落ちる過去の子
   ども 眠れぬ夜から起き上がり 朝の夢の中に更新される新しい名
   前                          (「呼ぶ声」より)
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白亜紀  138号  (2012/10)  茨城

2012-11-22 23:24:18 | 「は行」で始まる詩誌
 「比喩」武子和幸。
 履き古した編み上げ靴を執拗に描写している。剥がれてめくれ上がった先端から見える「暗い時間の奥」には、靴のたどってきた日々も秘められている。そこには「血の滲んだ五本の節くれ立った指に占有されていたという感覚というより 耳腺に乳白色の有毒な粘液を充満させて思わず接触を拒否したくなる感じ」があり、さらに「靴紐を通すいちばん上の二つの穴は 厚ぼったいまぶたの下から大きく瞠った目のようでもあり 侵入するものを睨んでいる」のだ。
 作者が靴を通して見ているもの、そして次第に靴を通り過ごした向こうに見はじめるもの、それは靴が変容して作者に突きつけてくるものであるわけだ。

   その形が やがてまばゆい太陽の光りのな
   かで泥につかりながら悲しみ目を大きく瞠
   ってこちらを睨んでいる俘囚の首のように
   見えるとき あるいはそのように見えた瞬
   間にのみ込まれるとき やがて地層の一部
   になる比喩のむこうで ただ送電線が風に
   唸り 鉄塔の列が おのれの長く伸びた影
   のほうへ傾きながら地平へ続くだけの風景
   を見るのは恐ろしいことではないか

 客観的な描写を離れて、作者の作り出した物語が靴を覆いはじめている。
 この物語の成立が作者が必要としたことであったのだろう。そのときに靴はなにものかの”比喩”になり、その意味するところのものを正しく指し示しはじめる。
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詩集「、そうして迷子になりました」  ブリングル  (2012/10)  思潮社

2012-11-20 19:21:07 | 詩集
 第2詩集。真っ白な変形版の表紙の真ん中に赤く「ヽ」がうたれ、それを囲むように型押しで「そうして迷子になりました」と描かれている。斬新で好いなあと思う。前詩集のタイトルが「次 曲がります」だったから、「、」があるということはそこから繋がっているのだろう。123頁に30篇を収め、鈴木志郎康の栞が付く。
 何とかやり過ごしている日常生活は、本当はいろいろな部分が歪んでいる。そのゆがみの部分が増殖をして言葉をまき散らし始める。あるいは、平和だったはずの童話のような物語が、不意に言葉を振りかざして日常生活に逆襲するように向かってくる。そんな言葉を、作者は書きながら考えているようだ。
 次々に視点を変える夥しい言葉なのだが、それらのすべてが自分の肉体の中から湧いてきている。だから身につまされる。

    ほんととか嘘とかいらないの。だってわた
   しはぷすんぷすんと軽石みたいに酸素を孕ん
   で今日もごきげんよかよかと過ごしている普
   通のおんなのこですから言葉に押し倒されて
   も固く閉じた身体を投げ出してされるがまま
   でいるおぼこなだらしのないおんなのこでし
   かないのです。
                (「いつだってどこかでおこっている」より)

 言葉はあくまでも軽く、作者の周りで乱舞している。しかし、このうわべは軽そうに見える言葉を作者は必要としているのであり、言葉が乱舞して自分の周りを覆ってくれることを必要としているのだろう。

   車座には入れない、いつだって入れない。閉じた円は水に浮かぶ油
   脂で、はじくわたしの名前も切れ切れに聞こえ貝柱になる。リズム
   はもう壊れてしまいましたか、舌に打たれた楔をあなた無視します
   か。
                (「かきとり帳」より)

 おそらくはここに書き付けられている言葉は、個々の意味を伝えようとはしていないのだろう。意味ではなく、言葉の連鎖が担っている感覚とでもいうべきものをあらわしたいのだろうと思う。
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詩集「秋の腕」  日笠芙美子  (2012/10)  思潮社

2012-11-16 22:38:56 | 詩集
 第8詩集。93頁に21編を収める。
 詩集の後半には「水の家」と副題のついた作品6編がある。それらの作品は、これまで生きてきた著者の時間がひたひたと水につかって静かに揺れているイメージを伝えてくる。それは、水音が「胸までいっぱいになってくる/水の家」(「吊り橋」より)であり、「水に抱かれ水を抱いて/わたしは眠っている」(「声」より)のである。そのほかの詩編にも同じイメージがついており、詩集全体に湿った柔らかさがある。
 「橋をいくつか渡ると/夕暮れがくる」とはじまる「むこう岸」。むこう岸に何が待っているのかはわからないのだが、とにかく渡らなければならないのだ。橋を渡ることは、時をさかのぼるように懐かしいところへ向かっていくことであるようだ。

   朝方
   電話を鳴らすひとがいて
   むこう岸から眼が覚める

   橋は架かりつづけ
   川はふたつの岸を映して
   流れていく
               (最終2連)

 いくつもの橋を渡っていった著者は、朝になったときにどこにいるのだろうか。再びこちら岸にいる自分を見つけたとしても、その足にはむこう岸の土がついているのだろう。川を渡る橋は明日の夜もまた架かるのだろう。
 「秋の腕(かいな)」では、わたしは「暑かった夏の残渣の/夢のなかに」右腕をおいてくる。その右腕には「深い溝のような切り口」があって、「血も涙もない茸」が生えていたのだ。秋が深まるとともに置いてきた腕は「異質なものへと育っていく」のだ。不気味な情景ではあるのだが、ここには何かに挑んでいるような美しさがある。幻想の中に立ちながら、そのことが著者の現実の生を支えているのだろう。
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