瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

詩誌「something」 35号 (2022/10) 東京 

2022-10-28 17:09:06 | ローマ字で始まる詩誌
女性が25人集まり、それぞれが4頁を使い、詩作品とエッセイを載せている。作品は既発表、未発表にかかわらないとしている。また、別刷として4人の作品が1編ずつ紹介されていて、編集人の一人の鈴木ユリイカが短い評を載せている。

「対岸の人」和田まさ子。
川の街であるリバプールではじめての人と会う。川岸の観覧車はだれも乗せずに回っていて、そこをカモメが抜けて行ったりする。はじめての人と会うことは、これまでの自分をふりかえったり、これからのことを考える契機になるのかもしれない。

   だれだって
   オーバーを着れば
   昔の人になる
   ほんとうに生きたのだろうか
   男といて
   ほんとうににんげんなのだろうか

この生きることへの原初的とも根本的ともいえる疑問の感覚には立ち止まらさせられる。おそらく冷たい川風が吹いているのだろう。会った人は対岸へ帰っていくのだ。この作品は詩集「よろこびの日」に収められていた。

「窓辺」野木京子。
窓辺では時間がねじれるのだろう。昔のひとや未来のひとが訪れてくるのだが、そのひとたちはかつての、あるいはこれからのわたしなのかもしれないのだった。雲の隙間に窓があるようで、「その窓から 声が落ちてくるような気が」したりもするのだ。窓は今のわたしがいろいろなときのひとたちと会う扉口でもあるのだろう。最終連は、

   窓からおりてくるひとたちも
   わたしのまわりに集まってきて
   やはり 身の置き所をきちんと知っているのだ
   空に窓があったら
   その向こうがわたしの身の置き所かもしれないと思う日もあり
     ーー思わない日もある

柴田千晶が「鶴見」というタイトルで1頁のエッセイを載せている。11年前に亡くなられた馬場先生を偲んでいる。鶴見には先生の仕事場があったのだ。その鶴見の鰻屋で「いつになったら私は、これでいいんだって、思えるようになるんでしょうか?」と訪ねた時の先生の答えは、「そりゃあ柴田、一生無理だ」「一生、納得なんかできないよ」だったという。その答えに私は妙に気持ちが楽になったという。なるほどなあ、と思う。素晴らしい先生だったのだな。最終部分、

   無性にさみしいけれど、いつかもう一度、
   先生のいない鶴見を歩いてみたい。先生は
   もういないんだなぁと思いながら、ただ歩
   いてみたい。
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詩誌「イリプスⅢrd」 1号  (2022/10)  大阪

2022-10-24 11:17:08 | 「あ行」で始まる詩誌
今号から第三次となり、季刊体制になった。通巻としては57号となる。

「惜別」渡辺めぐみ。
作品は「角を折れてゆく車が僕を見た」とはじまる。やがて死んでしまった犬への思いが渦を巻き始める。「存在値という言葉が嫌い」だったり、食べ残されて「炊飯器の中に残っている米粒になりたい」と思ったりする。喪失感が存在する命への苛立ちにもつながっていくようなのだ。犬は車に轢かれたことが明かされる。そして最終部分は、

   僕の胸の中を
   轢き逃げ犯を乗せた車が
   何度も通り抜けてゆく
   音は聞こえない
   身体が振動するだけだ
   ナンバープレートがどうしても見えない

「操車場」永井章子。
夜の操車場には車両の群れが静かに並んでいるのだが、「同じ頃私のなかに最終列車が到着する」のだ。その列車からはその日に感じた気持ちが降り立ってくるのだ。このイメージは新鮮で、頷かされるものがあった。そして、

   近頃 かならず
   向こうから煙をまとった列車がやって来る
   遠い戦いの国から来るのだ
   様々に入り混じった臭いや轟音を引き連れて
   他の列車たちに君臨する

今、遠い地で起こっている戦いが我が身の感情に乗り込んでくるのだろう。その感情を乗せた列車は、戦地に赴く兵士を乗せた列車、そして負傷兵を乗せた列車のイメージと重なってくる。他人事とせずに、我が身に引きつけた地点での発語が重さを持っていた。

「タクシー運転手」細見和之。
雨の降る夜に濡れた女を乗せたタクシーの怪談めいた話は時折り耳にする。そして今はもう無い目的地に着くと、女の姿はない・・・。小咄めいた語り口の作品なのだが、この作品の愁眉は最終3行である。さすがの作品となっていた。

   女の姿がないねん
   「万歳、万歳(マンセー、マンセー)いう声が四方から聞こえて
   わしの車は深い深い海の底にあるみたいやねん
   ほんでいまもうあんたもその海の底におるで
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詩集「夏の終わりの俯瞰図」 北沢十一 (2022/09) 創風社出版

2022-10-20 11:37:30 | 詩集
92頁に21編を収める。

冒頭の「ブルー・スカイ・ブルー」はカヤックで仁淀川を下った折りの思いなのだが(表紙カバー絵も瀟洒なその水彩画)、話者の背後には「故郷に置いてきたわが家の娘一家失踪事件」があるようなのだ。話者の背後にはそんな大変なことが何か起こっており、それを背負った状況での発語なのだ。遠い地でのけじめをつけた、いや、一生懸命にけじめをつけようとしている、そんな思いの発語のようなのだ。最終連は、

   うすい虹が下流の町の空に架かる
   亡くなった友も生き延びた輩も
   もう忘れ物をさがす必要はない
   問えばまたうなずく問いがあるばかりだ

「川遊び」。川でぼくたちは流されていき、「近くを流れていたものは/気がつけばなにもない」のだ。川遊びという言葉には楽しい行楽のイメージがあるはずなのだが、ここにあるのは、死に繋がりかねない不穏なものを感じさせる。

   こどものころ抱いた質問は
   今のわたしには届かなかったが
   イズレシヌトワカッテイテモ
   ナゼイキテイケルノデスカ
   あの問いが向けられていたのは
   やはり未来の自分だった

川を流されていくぼくたちの様は、過ぎていく時の中で抗うこともできずに変貌していくおのれの姿なのだろう。最終部分は、「それから橋の上を/知らない人ばかりが/乗ったバスが渡っていった」。なんの繋がりを持つこともできないそれらの人々に見下ろされた水面で、ぼくたちはもっともっと下流まで流れていくのだろう。ここには、ぼくたちに注がれる他者の冷ややかな視線がある。そしてそれを感じてしまう話者がいる。

「雨の降る庭」。古い店でコーヒーを飲んでいるのは「一人娘をなくしたわたしの父と/農場に嫁ぐわたしの妹/それからわたし」なのだが、会話も絶えているのだろう。

   わたしたちはまだ生きているため
   どんな言葉にも傷つかない
   ありがとう
   いなくなった人たち
   何をしてほしいか訊ねれば
   少し息苦しくなる

いなくなった人の事を思えばば、生者であるわたしたちはどんなことにも耐えなければならないわけだ。それだけのことを、いなくなった人たちは置いていったのだ。そして残されたわたしたちはここから歩き始めるのだ。
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詩集「源流のある町」 草間小鳥子 (2022/10) 七月堂

2022-10-16 12:00:45 | 詩集
第3詩集か。127頁に18編を収める。

巻頭のタイトル詩「源流のある町」は150行近い作品。鉢に水をやると、「土が水を吸うささめき/水が土を通るさざめき」があるのだ。ここはとても繊細で美しい。展開される町の一部として生きる「わたしたちにも川は流れて」いて、「切実で儚いものが流れてゆく」のだ。

   そつなくこなしたふりをして
   そうやってうそぶいて
   ひまわり
   なりたいものにいつまでもなれない
   わたしの文字列は潔くない
   ひまわり ひまわり
   ひまわり 鉄塔だ
   遠くにあるからおまえらより低い

外部世界とつながろうとして紡ぎ出すこの言葉感覚が心地よい。真剣なようでいて、どこか醒めた冷ややかさも感じられる。それがわたしの立ち方なのだろう。きみや姉はわたしの風景としてとらえられ、世界は水に潤されている。最終部分には「春だから 春だから 春だから/けだるい風」と、毅然とした潔さがある。

このように、作品を提示された者はいきなり状況の中に取り込まれる。何も説明されないままに、困惑しながらその作品世界を彷徨うこととなる。しかし、緊張感に満ちたその彷徨いは大変に魅力的なのだ。

「開墾地」。私(瀬崎)は”開墾地”という言葉からは、人々の喧噪から遠く離れて何かから変容した地を想起する。そこは、隠されたもの、失わされたものが堆積しているような場所ではないだろうか。この作品の地にも「やがて仕舞われてゆく墓/草の伸びる緑地/洗われない毒」があるのだ。話者はそこに立って茫漠たるものを受け取っているのだが、最終連の力強さが見事だった。

   水脈は絶たれたまま
   崩れた盛り土から
   息を吹き返した羽虫が飛び立つ
   風向きは変わる
   気まぐれに
   ときに大胆な意思で

集中には「役に立たないものについて」、「ハセガワマートの爆発」という2編の長めの散文詩がある。掌編小説のような物語を孕んでいて、その巧みな語りに身を任せて黒澤さんや今川さんのいる町を彷徨うのは楽しいことだった。

生きるものがあるところ、そこにはいつも水の流れがある。この詩集では、収められたどの作品の根底をもうるおすように、静かに水が流れていた。
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詩集「四時刻々」 本多寿 (2022/10) 本多企画

2022-10-13 11:56:13 | 詩集
ほぼ正方形の瀟洒な判型の155頁に40編が収められている。挟まれていた栞によれば、1年や1ヶ月を四つに分ける「四時」を「詩時」と思い定めたとのこと。

「短唱」。谷間の川に遮られた未知の世界である対岸。まなざしは「行ったきり戻ってくることはな」く、呼び声は「なにも伝えない」。そのように、見えていて手を差し伸べてもついに触れることのできないものが人生には際限なくあるわけだ。

   いたずらに時間が流れ
   距離が縮まる事がないまま
   歳月の水嵩が増していく

私(瀬崎)は作者と同年なので、その感覚は実感として感じることができる。時間はそのまま「青い淵」になっていくのだ。

この作品につづく「白鳥」では、ふりしきる雪のなかを飛ぶ白鳥が詩われる。そして雪でつくった白鳥はたちまち翼をうしない、わたしの「問いだけが雪の中に立っている」のだ。
そして「時間の牧場」では、日暮れが早くなり夕闇が濃くなると「時間の牧場で/草を食んでいた羊たちが/わたしに帰ってくる」と詩う。その羊たちをかぞえるうちに話者は眠りに落ち、「繭玉のような時間の内側で」「蚕のように寝返りをうつ」のだ。
これらの作品で作者が捉える時間感覚は大変に研ぎ澄まされている。それでいて、そこはかとない情緒をともなうものとなっている。それは自らの身体が捉えた時間感覚だからだろう。

「二つの静寂」は夜明けに目ざめてしまったひとときを詩っている。空には半月や星が残る静かさにやがて黎明が滲み、配達された新聞が「血の臭いが充満している世界」を伝えてくる。

   いま、ここ、このとき、
   阿鼻叫喚の地獄絵図ならぬ
   無残な現実のまえで、
   わたしの心は割れて砕けた石のように分裂して
   草みどりの静けさの中にいる。

この静寂の地からとおく離れたところでは「破壊された静寂」があるのだ。それを思えば、作者もこの静寂にありながら破壊されそうなのだろう。

自らの身体の内部世界に見つかった癌、外部世界でのロシアのウクライナ侵攻。それらの一年間の日々の詩作が作者の生き様の記録となっていた。
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