瀬崎祐の本棚

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詩集「靴の紐を結ぶ」  藤川和子  (2012/10)  三宝社

2012-09-28 18:11:57 | 詩集
 第1詩集。70頁に、どれも見開き頁に収まる長さの行わけ詩が32編。
 こんな言い方があるのかどうかわからないが、”正しい叙情詩”というものがあるなら、この詩集の作品などはそれにあたるだろう。事件を詩うわけではなく、ただ自分のなかに微かに波立つものを書きとめている。全部を言い切らないところに残る肌触りのようなものを楽しむことができる。日本語でないと伝わらない余韻というものがあるなあと感じる。
 「十二月」は、「今年もあと僅か」になり「引き出しの整理をはじめる」という、誰でもがおこなうであろうことを詩った作品。「ノスタルジアの/発酵して蠢く/かけらを/弾けださないように」して捨てるのである。

   十二月は
   捨てたものの上に立って
   脱皮をする
   ぎらぎらと
              (最終連)

 容易に共感できる作品だが、最終行の「ぎらぎらと」が通常は出てこない言葉での決意で印象的だった。
 「靴」は、夫が入院した時に履いていった靴のことを詩っている。その靴は、いつでも家に帰れるように病室の片隅に置かれていたのだが、再び履かれることはなかったのである。そして、その靴は、

   黒いよそ行きの靴は
   翳をおいたまま
   いまも下駄箱の奥に
   あなたの足形で身を鎮めている
              (最終部分)
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橄欖  95号  (2012/09)  東京

2012-09-26 20:55:56 | 「か行」で始まる詩誌
 「折り目」日原正彦。
 夢の中ではあんなにはっきりといろいろなものが見えていて、一生懸命に何かをしていたのに、眼を開けたとたんにすっとそれらが立ち去ってしまう。何だったのかも具体的には思いだせずに、ただ気持ちの感触のようなものだけだ残っている。そんなことがよくある。
 この「折り目」という作品でも、何かを折っていたあとだけが残されている場所にたたずんでいる。それは、五階のベランダから街路を行く人たちの影をみているときや、公園のベンチで二つのブランコが交互にゆれはじめたときや、小学校のときに大好きだった友達の死を電話で聞かされたとき、などだ。

   ふと あの折り目のあとが
   微かに痛むのを覚えては
   わけもわからず苦笑し
   正直に疲れてゆく

 ここまで生きてきたということは、なにがしかの出来事があり、そのときどきに思い惑うこともいろいろとあったわけだけれども、気がついてみれば、それらは折り目を残しているだけなのだ。それによる切実な気持ちの高ぶりはすでに失われている。今は穏やかだけれども、それは寂しいことだ。
 最終部分は、

   君のその日の
   何ということもない
   すぐにたたまれてしまうだろう思い出の地平の
   点景のひとつに
   なりに

   出かけよう
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詩集「春」  清岳こう  (2012/08)  思潮社

2012-09-25 19:10:59 | 詩集
 あとがきで著者は、「「また震災の詩か」「『マグニチュード9..0』の二番煎じか」そんな厳しい指弾の声が聞こえてきそうです。/でも、この詩集を出さずにはおれません。」と記しているが、これがこの詩集の位置を端的にあらわしている。
 94頁に41編が収められている。短い行わけ詩があり、物語のような散文詩もあり、詩の体裁も不統一なのだが、これは、掛け値なしの言葉を選び取った結果に書かれた作品であるからだろう。
 短い詩をひとつだけ全行紹介する。

   「がれき」と言われ
   「ガレキ」と書きたてられ
   「瓦礫」とひっくくられ邪魔にされ

   でも
   テレビ こたつ お鍋
   「たのしい さんすう」 リコーダーだったのです

   笑いの ぬくもりの 楽しみの
   時々 ちょっとしたケンカの種だったのです
                        (「元をただせば」全行)

 ただ差し出されたものを読めばよく、作品はもはや感想などを不要にした位置にある。体験した者にしか震災の詩は書けないのか、という相変わらずの議論はあるにちがいない。それは、直接の体験の有無ではなく、それが自分のものなのか否かということだろう。
 著者は震災後にボランティアスクール「ことばの移動教室」をおこなっていて、その成果は「震災 宮城子ども詩集」にみることができる。文字通りに、言葉だけではない”言葉による生きていく活動”である。本来の詩の意味についても考えさせられてしまう。
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現代詩文庫「松尾真由美詩集」  (2012/08)  思潮社

2012-09-22 07:30:15 | 詩集
 圧倒されるほどに夥しい言葉が産み出されている。6冊の詩集から選ばれた作品が載っているのだが、どの詩集の作品も、とにかく言葉を産み出している。言葉によって、何もないところに世界を構築しようとしているかのようだ。
 しかし、作者が書く言葉は具体的なイメージを提示しない。なにかの名称を指し示したとしても、それは実際の存在とはかけ離れた地点に像を形づくる。だから、作られたものは私(瀬崎)が知っている”もの”には頼ることなく、ただ言葉によって支えられているものばかりとなる。

   掌でとける雪の
   あやうい記憶をにぎり
   たとえば二月の冷気にたたずむ
   希薄な赤子をゆさぶる仕草で
   求愛をささえ横溢な視野はふくらみ
   月の光を裸体にまとい変転する触感をのぞむ
  」(第3詩集「揺籃期――メッザ・ヴォーチェ」のなかの「瓦解への晴れやかな夜の註記」より)

 ここにも具体的なものは見事なほどに何一つとしてない。作者は、これらの言葉によって、互いに連携して動き始めるひとつの構造体を造りあげようとしている。記述されたある部分は大きな幹線道路となり、別の記述の部分は細く入り組んだ路地となる。
 構造体を人体と言いかえてもいいだろう。それは血液やリンパ液の流れる道筋でもあり、体を支える骨格やそれを動かすための靱帯である。そこに立ち現れるもの、それは記述されるほどにより親しく作者の肉体、すなわち生命現象に還っていくのだろう。
 
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詩集「時の貌」  曽根ヨシ  (2012/09)  土曜美術社出版販売

2012-09-20 18:23:03 | 詩集
 第7詩集。110頁に33編を収める。
 雑踏に背を向けてじっと立ち止まってなにかを見つめているような、そんな静かな内省の作品が集められている。いきり立つこともないのだが、そこには確かに渦を巻いて中心へ降りていこうとする志が描かれている。
 「又 あした」は、子供たちが帰った後の公園にいる作品。先刻まで子供たちは賑やかに無邪気にはしゃぎまわり、生きていることを全身で表現していたのだろう。そして、”又 あした”と言って帰るべきところに帰っていったのだ。その賑わいが去った後の公園で、作者の思いは深いところへ降りていこうとする。

   この夕餉の刻にも
   世界の瓦礫の下で
   失われた明日を抱きしめ
   いつまでも眠れない子供たちがいる
   永遠に陽がささない其処で
   あまりに短かった地上の日は戦慄する

 見えない子供たちの姿に視点が広がっていくのは、作者がそれを感じとる感性の持ち主だからに他ならない。これに続く最終連は、「あした 又/この公園に朝の陽はさすが」。
 「庭にいる」は、亡くなった親しい人への哀惜の作品。庭で大きくなってきた沙羅の木は「二人で植えた数少ない木」。そして、「こんなにも帰って来ないのなら/二人でもっといろいろな花の開花を/みておきたかった」と悔やむ。

   それから三ヶ月もすると
   花をみた視線も何もかも
   かき消されて
   風は樹の間を流れている

 一人で取り残されている今を確かめているこの詩行が美しいのは、失われたことの意味を捉えている気持ちが美しいからだろう。
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