瀬崎祐の本棚

http://blog.goo.ne.jp/tak4088

この場所ici  6号  (2012/02)  東京

2012-02-29 21:38:45 | 「か行」で始まる詩誌
 「八月の象」北川朱実。
 朱色の背表紙の本や、象の群れといった見えるものが提示されて、くっきりとした作品世界が形づくられる。そして詩人が現れ、ダムを隠していた本の文字は水となってあふれる。そして詩人は「顔じゅうに雲をわかせ/ずぶ濡れ」になる。こうして形象を書き出してみると、この作品が豊かなイメージに満ちていることにあらためて気づく。

   入道雲の向こう
   深い青を見ながら
   ゾウが渡っていく

   青は
   からっぽの喉だったり

   見えない湖だったりする
              (最終部分)

 ここでふいに出てくる「青」は、一体何なのだろうかと考える。表面的には空の色なのだろうが、それは喉だったり湖だったりに変容するのだ。だから雲の形の象も、なにか意味を越えたゾウへと変容する。片仮名表記になっているのはそんな意識の表れではないかと勝手に推測している。
 散らばっていたいろいろな形象がすっと収斂していく。すべて声を発してしまって、もう声が残っていない? 見えなければ名付けるための言葉も使えない? 声や言葉を呑み込んでしまったような空の青さが、とてつもない広がりのイメージとして感じられる。
 最後の部分の1行空き。ここで一瞬立ち止まる呼吸のリズムが好いなあ。
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詩集「ぬらり神」  奥村真  (2011/08)  星雲社

2012-02-28 21:01:38 | 詩集
 2009年に60歳で亡くなられた奥村真の詩集をいただいた。
 詩集と言ってもただの詩集ではない。奥村真の「神の庭」「ぬらり」という2冊の詩集が載っており(再録なのか否かは、年譜を見てもわからなかった)、ほとんどの頁にカラー写真が載り(そのために用紙は厚手の上質紙である)、雨宮慶子、井谷泰彦、戸沢英士、阿賀猥の「ぬらり」と題する座談会が載っており、さらに福島泰樹の朗読CDが付いているのである。ただの詩集ではない。
 福島泰樹は、前半の「神の庭」を朗読している(よくみると、「神の庭」は”詩選択 福島泰樹”となっていた)。目で文字と写真を見る、耳で朗読を聞く。ここでの福島の朗読は、”中也絶唱”のような読み方ではなく、芝居を見ているような雰囲気にさせるものである。声が肉体であることをまざまざと見せつけられるような朗読である。声が肉体となって舞踏をしているところを想起してしまった。
 後半の座談会で阿賀猥は、奥村の詩について「いま読み返しますとまあ、ぬらりくらり妙な詩ですねえ。」「取り留めもなく柔らかくて、ふわふわと浮いて続いていく、こういう世界を書いた人は他にいません。」という。
 「よく晴れた日で/きょうも海辺は骨だらけ」とはじまる「パラダイス」の最終部分は、

   太めの骨、切れ者の骨
   ぼうぜんたる骨
   番号札どおり
   きりきり舞う骨骨が交叉し
   人格をもった骨と
   骨格をもった人が
   さらさらさらさらと
   股のあわいからこぼれてくる

 奥村真はこれまでまったく知らない詩人だったが、そうか、こんな詩人(俳優として映画にも出ていたらしい)がいたんだなあ。
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孔雀船  79号  (2012/01)  東京

2012-02-23 22:21:17 | 「か行」で始まる詩誌
 「それからのキリン」福間明子。
 この作品は「久しぶりにへうへうに遭った」と始まるのだが、”へうへう”とは何だ?とまず思う。読み進めると、へうへうは背が高く、溢れそうな湖の目を持っていることがわかる。作品タイトルからもキリンの名前らしいと思える。
 異常事が重複して「人間の心は尖りふつふつとするものを抱え込んだ」りして大変なのだが、そんなことをへうへうは見ているらしい。「うにうにとして解らないもの」もあるようなのだが、この”へうへう”、”ふつふつ”、”うにうに”といった言葉の響きが奇妙なものがとぐろを巻いているようで効果的だった。
 
   おとといおもった訪れぬ安穏のやわらかな日のこと
   きのうおもった
   きょうおもった
   あしたおもう明るくない現実
   そうでもないことが少し欲しい気がします
   勇気を持って思うことにしましょうか

 直接的には表現されていないのだが、やはり東日本大震災のことが根底には流れているように思われる。「キリンの頸はこれほどなくというように伸び/快晴の蒼穹を見上げた」という部分に、希望とも、それにつなげたい祈りとも言える気持ちが込められている。
 足もとに淀んだものは辛いから、せめては長い頸の上の方から遠くを見やり、やがて訪れる日に向かわなければならないだろう。
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詩集「女のいない七月」  高啓  (2012/01)  書肆山田

2012-02-22 00:00:22 | 詩集
 第4詩集。100頁に15編を収める。
 ずしんと身内に響いてくる作品ばかりである。華麗なフットワークはないのだが、足を止めて打ちあうパンチの一つ一つがとてつもなく重い。そんな感じなのだ。
 題材は”女”。そして”女”に向きあう自分。人の本能をそのままさらけ出すような強さを見せつけられる。だから非常に性的である。それも飾ったところの全くない性的感情である。
 「カンガルーを喰う」は、年下の夫と暮らしはじめている(昔の)女に会う話。

   あのときああしておれを捨てておいて
   どうして自分には何もないというのかほんとうは合点がいかない
   (ないことを恨むよりこうしてあることを愛しむことはできないのか)
   だがこちらもぬらりとした顔でワインを注ぐ
   それを言い返すと険しい相貌になって
   では一緒に来世に逝きましょうなどと腕を引かれそうな雲行きだから

 ついには、女はおれの骨が欲しいという。自分が先に死んだら娘に取りに行かせると「すぐに切り返すと女はギリリと睨み返して/改札口の前で急に吐くように乱れる」のだ。やはり、どこまでもパンチが重い。
 以前にも高の作品の感想として書いたことがあるが、高の作品で迫って来るものは肉体であるように見せていて、やはりどこまでも感情である。そこに肉体が伴っている強さがある。圧倒される。
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玲瓏  80号  (2011/11)  千葉

2012-02-19 14:55:15 | 「ら行」で始まる詩誌
 いわずとしれた故・塚本邦雄が主宰していた短歌結社「玲瓏」の機関誌。
 「髪のさはだち、眉宇の孤独」20首 笹原玉子。
 歌人が選び取ってくる言葉、その言葉たちの引き合い方・引かれ合い方にはとても新鮮なものを感じる。理屈をやすやすと跳び越えた情念の結びつきがあり、それらの言葉によって結界が作られている。この心根で詩の言葉もくりだしてみたいものだ。もっとも、今回の発表作については、作者は”1行詩のつもりで作ったので歌とは呼べない”といっているのだが。

   その足のなめらかさなまめかしさを春とし呼ばむ 他の名前はない

   水平線はどこかで交はるそのために恋人たちは後朝(きぬぎぬ)の枕をたがへ

   あぁ九月! 空の高さと埋葬の深さがこんなにも比例するとは

 巻頭に載っていた鳥居妙子の歌にも惹かれるものが多かった。

   月澄むや心に翳るものひとつ白磁の皿に走る罅われ

   風まとふ芒かあらぬわが髪の吹かるる方に秋くれてゆく

   憂きことを誰に語らむ寒夕べ口や答えぬ海鼠(なまこ)を前に
                         (「謂ひたきこと」20首より)
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