瀬崎祐の本棚

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狼  22号  (2013/12)  神奈川

2014-01-30 21:17:49 | 「あ行」で始まる詩誌
 「何度かこの地上でお会いしましたね」中村梨々では、「春を失くした罪で追われている緑色の目をしたうさぎがおしえてくれた」ことがらが記されている。それはスナップやボタンの奇妙な留め方である。童話の世界での出来事のような、現実からは遊離したような捉えどころのない事柄が展開される。そこに見えてくるのは、理屈や説明を排した風景である。

   スナップの留め方
   ①遠くに見える草原を走る汽車になります
   ②切符はたんぽぽの綿毛
   ③終点に着く頃、たんぽぽはふわりと飛んで行きます

 もしかすれば、こんな詩を書いてなにになる?という意見があるかもしれない。しかしここには、少なくても単なる自分の”日記”ではないものが作りあげられている。自分の立っている位置にそのまま自分の言葉を置いただけでは、それは単にその人の”日記”でしかないだろうから。

   目を開けたままで見る闇は 羽を焦がす 黒く光る沈黙 結び目がほどけなくて 地図帳の海
   に浮かぶ青いリボンを きみは持て余してる 青は 海より深い翠色の水位 触れた指先から
   透けていく 根底のない夏を ぼくは潜る 青いリボンが透明なきみの真上に見える

 なにか、自分にとっての美しいもの、大切なものを創り上げようとしている。短い夏の間だけの邂逅でもあったのだろう。
 もしかすれば、自己満足をしているだけではないか、という意見があるかもしれない。創り上げられた作品にとっては、”作者である私”と”読者である私”しかいない。出来るかぎり遠くへ離した読者の私との距離が、作者にとってのすべてを決めるのだろう。読者である私が作者とぴたりと重なりあってしまっているような作品こそが、自己満足になるのだと思う。
 この作品が差し出されているのは、少なくても”日記”を書いていた自分に向かってではない。
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SPACE  113号  (2013/12)  高知

2014-01-29 21:15:10 | ローマ字で始まる詩誌
「行く先を失った蝶は/右を向けば右に/左を向けば左に女の眼の中で舞う」とはじまる「蝶」山下千恵子。眼の中に捕らわれている蝶は、肉体の老化とともに自分が閉じこめてしまったものであるのだろう。そんな蝶を逃がそうとすれば、眼玉もぬけ落ちてしまうのだ。

   見えなくなった視野の中で見えてくるものを
   失う前に知りたい
   それは生きた証しで量ればいいのだろうか

 ここでは、これまでの人生を過ごしてきたことと、これまで見てきたものが重なり合っている。見えるものに傷のようなものを残して通り過ぎていってしまった人や事柄も、積み重なっているのだろう。

   時が止まり
   残像だけを残して去っていった人
   幸せだと言った
   思い残すことはないと言った
   いくら眼をこらしてみても
   くもり空に真意は分からない

 否応なく感じられてしまう肉体的な感覚と、そこからは少し浮き上がっているような抽象的な感覚が、巧みなバランスを取ってひとつの景色として構築されている。
 作品の最終連では「季節はずれの/迷い蝶が」「誰かの魂のように舞いあがってい」くのである。眼の中に捕らえたものを、蚊ではなく、これまでの自分の物語を担わせるにふさわしい蝶としたところが、この作品を華のあるものとしている。
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詩集「航るすがたの研究」  田村雅之  (2013/12)  青磁社

2014-01-28 20:48:54 | 詩集
 第11詩集。110頁に24編を収める。
 作品が持つ身仕舞いをただしたような有り様に、なぜか墨絵を思い浮かべてしまう。使われる漢語や古語の堅さも、無駄な色彩を拒絶したストイックなイメージに繋がっていくのだろう。強靱な精神を裏打ちする言葉の使い方だ。

   海が割れ
   黒光りするコールタールに似た巨大な海波が
   なにもかもを連れ去った、ここ荒浜の波打ち際
   しらなみのあとなきかたに立つと
   まるで眼の玉を逆剥(さかむ)かれた、一人の唖者で
   いるしかないのだった
                        (「あとかたなきに」より)

 活字のポイントを落として印字されている散文詩2編には、若かったころに編集者として会った吉本隆明や矢内原伊作が登場する。これらの人物との邂逅は、それだけで何ものかを内から呼び覚ますものがあったのだろう。それほどの人物であったのだろう。作品もふわふわとしていて、それだけでもう面白い。
 自分の最期をどのようなものにしたいかは、ある年齢に達した(元気な)人はたいてい考えるだろう(元気でない人はそんなことは考えないだろう)。「遺言」では、「死んだら掛けてほしい曲」を望んだり、「いざとなったらけしむらさきの布を/一枚掛けてほしい、と言」ってみたりしている。しかし、隣の女には「わかるところに置いておけ」と言われ、久しぶりにあった女房には「用意しておいてくださいよ、そんなものはあらかじめ」と言われるのだ。だから、

   薄羽蜻蛉の影のうつる部屋ぬち
   今晩からは枕元に
   ふたつ用意して
   眠ることにしよう
   灰暗(かいあん)の森に抱かれて

 人生の最後に必要なものを自分で用意している。自分の人生の最期は、自分のものではないのだろうが・・・。
 余談だが、作品「無題」には私(瀬崎)と妻が名前入りで登場している。
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詩集「月光博物館」  高岡修  (2013/12)  ジャプラン

2014-01-23 18:55:14 | 詩集
 89頁が3つの章に分けられている。第1章は「世界と、その微分を質量する三行詩」で11編の3行詩、第2章は「世界と、その構造に関するノート」で6編の行分け詩、第3章は「月光博物館」と題した10の部分からなる長編詩1編である。構成にこだわりをみせていて、詩集全体の装丁とも相まって美しい。
 俳句もよくする作者らしい短く切りそろえられた言葉の指し示すものが甘さを排している。

   ひとりの年老いた石工が生涯をかけて石山から彫り出そうとしている一羽の鳥
   ついに言葉の眼差しだけが残る
   一本の鉛筆にも言葉の淫らな川は流れている
                                (「淫らな川」全)

 2章の6編は、それぞれ世界の夕映え、洪水、視姦、殺意、柩、終末の構造について考察しているという体裁になっている。「世界は残像のなかに浮上する」のであって、次第に世界は僕らを視姦するようになり、「僕らは柩構造のなかへ誕生する」というのだ。ここでも言葉によって冷ややかに切りとられたものが差し出されている。
 そして、現実世界が終末を迎えれば、後に残るのは月光に照らされた幻想世界だけなのだろう。

   そこを訪れた人の胸のなかの像が
   いくつもの月光の胸の鏡に映し出されるのだ
   だからといって、ほとんどの場合
   そこに何かが映っているわけではない
   むしろ何も映ってはいない月光の鏡像を
   みずからの胸の内なる像と思ってしまう哀しみが
   僕らの胸の虚ろに満ちるのだ
                      (「月光博物館」05より)
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詩集「へびねこト餓鬼ト」  佐伯多美子  (2013/12)  銅林社

2014-01-20 22:46:25 | 詩集
 第5詩集。139頁、19編に扉詩が1編付いている。海埜今日子の栞が付く。
 「漣の//とうめいな水のじごくに/母が しずかに 沈んでいく」とはじまる「とうめいな水のじごくの--祈り」は、呪文のように母がゆれている様が記述される。未だゆれているから、まだ言葉を発し続けなければならない。そんな強迫観念のようなものも感じられる。

   貧しい母は
   光りの 影に
   隠れても
   光り

   慈悲 も
   僧 も
   光り

 母が沈んでいくとうめいな水のじごくでは「御(み)かぐらうたが//鳴り響きわたる」のだ。
 「あとがき」で作者は「ここ十数年」は「自分の狂気と向き合えるようになった」と記す。しかし、ここにあるのは狂気の言葉ではないだろう。狂気と向き合ったところから発せられた言葉であるのだから、狂気の言葉であるはずはないのだ。
 「無垢にあるために赤いベベも着てみせましょう」では、「赤いべべをひらひらさせて/陰性の炎をびらびらさせて//おどってい」る。今は死んでしまった「ねこすけちゃんと手をとりあっておど」っているのだ。それは

   愉しくてたのしくてむちゅうです

 最後の作品では「蛇(へび)女(じょ)蛇郎と蛇子」が登場する。冷たく湿った皮膚を持つ蛇がうねうねと呪文を唱えているような作品。圧巻。
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